1-08
何があったと言うのか。
息を弾ませる野村が図書室のドアを勢いよく開いたのは、最終下校三十分前と、いつもより少し遅い時間だった。
体育祭明けの、金曜日の放課後。
梅雨らしく朝から雨が降っていて、気温も高くて過ごしにくい。そのせいなのか、珍しく今日の図書室には来訪者が多かった。
いつも通り誰もいないと思ったのか、それとも考える余裕がなかったのか、勢いよく駆け込んできた野村に教室中の視線が集まる。しかしそんな生徒達に目もくれず、俯いたまま入り口に立ちすくむ野村を中原はなんとか中へ招いた。いつもの特等席に座らせて、深呼吸を繰り返す野村を気にかけながら中原はカウンターに戻る。
中原とて話を聞きたいのは山々だが、こんな日に限って本の背に番号のシールを貼る仕事を任されているのだ。今日はコーヒーの差し入れがなく野村は来ないと思っていたので、ずいぶんゆっくり進めていたが、まさか飛び込みでやってくるだなんて。急ピッチで終わらせ、生徒がいなくなったのを見計らうと今日は早めに鍵をかけた。
「嫌いだわ」
中原が隣に座ってこんなに冷静さを欠くだなんて何があったのかと尋ねると、彼の心配をよそにそこまで落ち込んだ様子のない軽い声で野村は言う。俯き一点を見つめている野村を軽く覗き込みながら中原は尋ねる。
「何が?」
「松嶋くんよ! ああ、思い出しただけで腹が立つ……」
勢いよく顔を上げた野村が、ふうとひとつ息を吐く。
「彼に何か言われたの?」
「私じゃないの。杏奈よ。体育祭の打ち上げがあったでしょう? その帰りに杏奈が、別れたいって言ったんですって。そしたら、」
「待って。小谷さんと松嶋くん、付き合ってたの?」
中原にはこれが初耳だった。松嶋に彼女がいるという噂はかねがね耳にしていたけれど、まさか小谷だったとは。あまりにも想像外だったので躊躇う。
「似合わないわよね、あの二人」
面白そうに笑う野村に、中原は肯定するのも違うような気がして曖昧に笑って返す。
野村の言うところによるとこうだ。
もともと松嶋からしつこく迫られていた小谷が、最終的には折れる形で付き合い出した。しかしその付き合いがもう二年になろうかというのに、松嶋の女好きが治らない。結局散々振り回された挙句、小谷が別れを切り出したところ、「付き合ってやってるのに偉そうな口をきくな」と怒鳴られて話は終わり。そもそも二人が付き合うことに反対していた野村は怒り心頭で、どうしようもなくなったところ、中原の顔を思い出してここへ駆け込んできたのだ。
全て話し終えてもなお怒りが鎮まる様子のない野村に、中原は図書室は駆け込み寺じゃないんだけど、と苦笑いを浮かべる。
「やっぱり初めから付き合うべきじゃなかったのよ。杏奈も、何度言ったって私の声に耳も傾けないんだから……」
「恋は盲目って言うからね」
「それにしても見えてなさすぎじゃないの。何度も私に泣きついてきたのに、どうして松嶋くんにこだわるのかしら」
中原だって野村の立場なら確実に止めただろう。松嶋と恋人になるメリットなんてどこにも見当たらない。松嶋の恋人。想像して身震いする。何たって松嶋の中で、中原はカモに過ぎないのだから。いや、知らないだけで意外と彼女には尽くすタイプなのかもしれない。待ち合わせ場所には十分前に到着して、荷物を持ってあげる。それから彼女の服や髪を褒めて優しくエスコートして……そんなわけあるまい。あの邪智暴虐の王たる松嶋がそんな紳士なはずがないのだ。
現に小谷だって、散々浮気されたという話だ。
「杏奈は私より松嶋くんを信じたのよ。いいわ別に。杏奈は悪くないもの。悪いのは全部……」
机の木目でも見ているのか再び俯いていた野村の背に手を添えようとして、中原はそれを引っ込める。彼女は深く息をついて、ゆっくりと雨の降り続ける真っ暗な窓の外に目をやった。
「ごめんなさい。最近スランプなの。天気が良くないせいで体調も安定しなくて……そのせいか、いつもより感情が昂りやすいのよ。中原くんには悪いと思ってるわ」
「僕は全然、構わないけど」
ねえ、空が落ちてきそうね。
ぽつりとこぼれ落ちた言葉はあまりにも小さかったので、中原は何も返さなかった。
しばらく経って机上に広げられたスケッチブックを中原が覗き込むと、絵はまた振り出しに戻っていた。これで何度目か、野村はここへ来る度に新しい絵を描いている。
もともと桜の木を描いていたはずだったが、いつからか小谷をモデルにした絵を描くようになった。そして完成を迎えそうだと思ったらゼロに戻る。ざっくり描かれた下書きも、中原が先週見ていたものとは全く別物だ。これが実際本番の紙に描かれ色が付き、きちんと完成する日は来ないのではないか、と中原は密かに思っている。野村は前に、「完成したら中原くんも描いてあげる」なんて中原へ言っていた。彼はそれを断ったけれど、もしもお願いしていたとして、本当にそんな日が来たのか甚だ疑問である。
「先週から全く進んでないでしょう? もう、何も描けないのかも……」
「……ゆっくり描きなよ。時間はまだまだあるんだから」
「私、前にもこんなことがあったの。ずっと描けなくて、苦しかった」
そうは言いながらも、野村が握る鉛筆の先は迷いなく紙の上を滑っている。
スランプだ気に入らないとため息を吐くけれど、野村によって描かれる小谷はいつも魅力的だった。こんな表情をするのか、と、中原は毎度、野村の観察力もさることながら小谷の表情の豊かさに圧倒された。
ぽつり、ぽつり、と野村の口から溢れてくる言葉をぼんやり聞きながら、中原は未だ雨の降る窓の外を眺める。普段なら運動部の生徒が駆け回っているグラウンドも、当たり前だが今は無人であちこちに水溜りができている。この学校は水捌けが悪い。雨が止んでもグラウンドの状態が悪いために、外で予定されていた体育の授業が体育館で行われることもよくある。通学の時に濡れてしまった靴のことを思い出して、あれを履いて帰るのかと憂鬱になった。
野村は前に、雨の日には家の人が迎えに来ると言っていた。中原が最近知ったことだが、彼女の家は中原の最寄駅から下り方面の電車で数駅先の田舎の方にあって、その辺りじゃかなり有名なお家らしい。「家の人」とはお手伝いさんのことだろう。お嬢様なのかと思うと納得できる点はあるけれど、私立に通うという選択肢は無かったのか不思議だった。中原のイメージ的には、野村は女子校が似合いそうだ。
「私、昔からずっと、家にいるのが好きじゃないの」
「親が厳しいから?」
「いいえ。そうじゃないんだけど、親は姉のことで必死だし、そもそも両親が仲良くないの。父は家に帰ってこないし母はよくヒステリーを起こすし。それに今も……」
重い空気にそぐわない軽快な音が鳴って、言葉を止めた野村がリュックのサイドポケットに入れていた携帯を確認する。迎えの車が校門の下まで着いたらしい。そろそろ最終下校の時間だったので、中原も並んで下足まで降りた。軽く手を振ってから赤い傘をさして雨の中に消えて行った三つ編みを見送って、中原は傘をさす。どこにでもあるようなコンビニのビニール傘。
軒から外へ踏み出そうとして、ふと校舎から出てきた人影に驚いて横にずれる。肩を並べたのは野村の幼なじみの彼だ。体育祭の日に話した、と言って良いのか分からない程度に言葉を交わしたが、あれ以来初めて会った。そういえばリレーの時に走順が同じで、中原は彼に抜かれた。
今日は屋上から一緒に入ってきた彼女は一緒じゃないのだろうか。中原と同じようなビニール傘を持った彼は、中原を認めると目を細めてじっと見つめてくる。何故か逸らしたら負けると思い見つめ返すと、彼は前と同じくぶっきらぼうな声で話しかけた。
「お前、この間冬華と一緖にいた奴だろ」
冬華、と呼ぶあたりが、やはり幼馴染みなのだと感じる。うん、と中原が小さめに頷いて返すとさらに質問が投げられる。
「何? お前彼氏なの?」
「いや、違うよ」
「友達?」
「友達、なのかな……」
友達というのか、クラスメイトというのか。中原は友達というものの定義がイマイチ分からない。野村と親しくしているとは思う。しかしこれを友達と呼ぶにしては、彼女は遠い存在に感じる。
グダグダと言葉を連ねる中原に、彼は腕時計のついた手で頭を掻く。
「じゃあお前はなんだよ」
呆れたようにふっと息を吐いた彼の、眉を下げて少し緩んだ表情にほっとする。態度や愛想は決して良くないが、そこまで怖い人じゃなさそうだ。タイプの合わない彼に言われるまま、連絡先を交換する。家族以外は中学卒業以来会っていない幼馴染みとしかアドレス交換したことがない中原の携帯に、全然知らない彼の連絡先がある。その事実が少しおかしくて吹き出すと、「何がおかしいんだよ」と怠そうな声が飛んできた。
「Y」と登録された名前に、そういえば中原は彼の名前を知らないことを思い出す。このYが、苗字だか名前だか知らないが、中原は彼を呼ぶための名前を知らない。
「Yくんは、野村さんと幼馴染みなんだよね?」
「Yくん? ああ……半田。俺半田っていうの。変な呼び方すんな」
「半田くんと野村さんって仲悪いの?」
は? と眉をひそめる彼に、流石に踏み込みすぎただろうかと身構える。今にも怒鳴りそうなオーラを感じる。きっと怒らせたら松嶋なんかの比ではない。
しかし半田は中原に何か言う前に、帰るわと呟いて、さっさと傘を開いて雨の中へ消えていってしまった。突然のことに中原が雨の中へ消えていく後ろ姿を呆然と見つめていると、彼と入れ替わりに後ろから柔らかい声が中原を呼んだ。
「小谷さん。まだいたんだ」
「ちょっとね。
「ああ、進路か」
川野先生とは、中原のクラスの担任であり進路担当の教師だ。若い男性の先生で、国語科の担当なのにいつもアンダーアーマーのジャージを着ている。学生時代は甲子園を目指す球児だったとかで、かなりの熱血漢だが生徒に慕われるいい先生だ。
中原はまだ進路を決めていない。両親は進学してくれと言っているし、彼自身も大学は出られればいいかなと、その程度にしか考えていないが、そろそろ本気で考えなければならない。
「さっきの半田だよね」
並んで校門を出たところで小谷が切り出す。そうだよと、雨粒が傘に当たる音で掻き消されないように中原は少し声を張って答えた。
「彼のこと知ってるの?」
「知ってるも何も去年は同じクラスだったし、ものすごい有名人だよ。イケメンで背が高くて、いつも仏頂面だけど意外と優しいってみんな言ってる」
「へえ……」
「前から思ってたけど、中原くんって全然学年の人知らないよね。ほら、この前ノートの配布してた時もこれ誰? って、逐一私達に聞いてたし」
「ああ……そんなこともあったね」
テスト明け、登校してきたら教卓の上に「返却しておいてください」と数学のノートが置いてあって、それを中原が配布する羽目になった時だ。教科係の松嶋が返さなければならないはずなのに、中原くんよろしくねと机の上に置かれたので渋々引き受けた。幸いなことに見かねた野村や小谷、それから時々話すようになった前の席の
あの時はご迷惑をおかけしましたと中原が恭しく頭を下げて言うと、いいんだよと小谷が笑う。
「友達なんだもん」
「友達?」
「うん。友達でしょ?」
ごく平然と言われた言葉に驚いて聞き返す。
水色の傘の陰から覗く顔は「何かおかしい?」と言いたそうに傾げられている。友達、だったのか。
「もしかして、そう思ってたの私だけ?」
「え、いや……」
ショック! と大袈裟に肩を落として見せる小谷に中原は平謝りしながら、こんなに明るく話す子だったのかと新たな発見をする。教室ではどちらかというと、野村の陰に隠れているような印象だった。そもそも野村は目立ちすぎると言うところもあるのかもしれないけれど。
野村のスケッチブックの中の小谷の顔と少し重なって、気分が上がる。友達とは、実は気が付かないだけで既になっているものなのかもしれない。
それならば野村さんや井口くんも……と、そこまで考えて烏滸がましいだろうと首を横に振る。調子に乗るのはいけない。
しかし、久しぶりに、あの食いしん坊な幼馴染みに会いたいと思った。
「知らない繋がりで思い出したけど、中原くん、冬華のことも知らなかったって本当?」
「ああ、うん、実はそうなんだ」
「冬華、三年間図書室通ってたんだよ?」
「みたいだね」
これは少し前に聞いたことだ。野村は、中原が図書委員として金曜日の放課後に当番を務めた三年間、前期後期の入れ替わりは除くが、ほぼ毎週通っていたらしい。このことに関しては、よく毎週会っていたのに視界に入っていなかったものだと我ながら感心した。しかしこのことを知れば、野村の貸出カードの左上に司書の先生の字で「No.5」と書かれていたのは、読書家というよりも彼女の意地であったことが分かる。
やっと私が見えたのねと、野村が笑ったのは勝利の笑みだったのだろう。彼女は我慢比べの末に勝ったのだ。
「よく気にならなかったよね。あんな綺麗な子が通ってたら気づくよ、普通。一年の頃から冬華ってものすごい有名人だったのに」
「そういうの疎くて……」
「『私のこと見ようともしないのが悔しいから通うの』って、いつも言ってたよ」
「二人は一年から同じクラスなんだっけ?」
「うん。入学式から一緒にいるよ。絶対私が一番冬華のこと知ってる自信ある」
胸を張って得意げに言った小谷に、そっかと笑う。気がつけば駅は目の前だった。
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