1-07

 体育祭当日は見事なまでの晴天で、競技を終えるごとに水分を取らなければやっていられないほどだ。とは言え、午前の部は学年競技の大縄跳びしか出番がない中原は、前線で応援する生徒達を比較的涼しい日陰で見るしかすることがない。

 今日は朝からクラスの女子が「ハチマキをお揃いにしよう」と意気込んでいた。やり方は知らないが、頭の上でリボンのようにして結んでいるのだ。お陰で誰が同じクラスなのか、まだきちんとクラスメイト――特に女子は覚えきれていない中原にも分かりやすい。時々中原の様子を見にくる野村も、例に漏れず頭上に赤いリボンを結んでいる。可愛いでしょう? と満足げに言う彼女に、中原の頬がほんの少し緩む。暑い太陽のせいでおかしくなったのか、中原は似合ってるよと柄にもなく笑った。


 午後の部が始まって、応援団のパフォーマンスの番が回ってくると応援席はガラ空きになる。小谷が待機場所へ行ってしまってからひとりになった野村に誘われ、それまでずっと離れた所で傍観していた中原も最前列で観戦することになった。小谷に撮影を頼まれたと言う野村は、サンリオのキャラクターのケースがついた携帯を構えている。たしか、プリンみたいな名前だった気がする。


 トップバッターを任されている我が赤団のパフォーマンスは、圧巻だった。ほんの数分で全てを出し切り戻ってきたポニーテールの団長は、泣きながら仲間達と抱き合い勇姿を讃えあっている。練習期間に怒鳴りすぎたせいで、声は元のハスキーさに磨きがかかっていた。

 目の下に白やピンクのストーンを輝かせる小谷は汗だくで、中原と野村を見つけると一目散に駆け寄る。そしてペタリと張り付いた前髪を直すことなく、野村に感想を求めた。

 写真を撮ったり、互いに褒めあったり、泣いて笑って今この瞬間ひとつになった空気に耐えられず、僕 中原はその場を抜け出した。何が辛いともないけれど、こんな自分がいていい場所じゃないと思ったのだ。


 テントから離れたところにあるプール前の階段は影になっていて、コンクリートが冷たく気持ちがいいので休憩にもってこいだ。今朝母に持たされた水筒の中の麦茶は、半日が経ってもまだ冷たい。流石、魔法瓶である。

 ひと口飲んで空を見上げる。雲ひとつない晴天。少し遠くに聞こえる喧騒。

 しばらくのゆったりと心地の良い時間。しかしそんな穏やかさに水を差すように、中原の目の前に誰かが立ちはだかった。


「あ」


 思わず声が出たのは、その人物を知っているからだ。野村の幼馴染だと言う、屋上の彼だった。


「……邪魔」

「あ、ごめん」


 階段の先に用があるようだ。不機嫌に投げられた言葉に中原が立ち上がって避けると、彼は重たそうな足取りで階段を登り、更衣室の前のウォータークーラーでガブガブと水を飲む。

 頭につけていたものをずらしたのだろう、首にかかっているハチマキは中原と同じ赤色だったけれど、思い返してみてもテントで彼を見た覚えがなかった。


「何?」

「いや、別に……」


 手の甲で口元を拭う彼が、中原の視線に気が付いて怪訝な顔をする。


「……あ、お前さ、」


 何かに思い当たったように中原を指さす彼の言葉が止まる。少し上を掠めている彼の視線に振り返るとそこには、頭に赤いリボンを結び、すっかり体操服に着替えた小谷が立っていた。


「中原くん、次玉入れだよ。冬華が探してたから、早く戻ろう?」

「あ、そうなんだ。ありがとう」


 中原が言うと、どういたしましてと小谷は微笑む。暑さからか頬がいつもよりピンク色に染まっている。


「あ、じゃあ、また」


 何かを言いかけた彼に中原がそう声をかけるも、何も返ってこなかった。

 お友達? と聞く小谷にどう返して良いのかわからず、知らない人だよと、それだけ答えた。





「もう移動ですって。行きましょう」


 玉入れを終え、また日陰でしゃがみ込んでいた中原の元へ野村がやってくる。出番など気にせず、できる限り遠くへ逃げようとする中原を見つけるのは容易じゃない。しかし案外世話焼きの野村は、事あるごとに彼を呼びに走った。

 午後も残すところ一競技。今の二年生のリレーが終わったら三年生の番で、それが終われば体育祭も終わる。またひとつ、高校最後のイベントが終わっていく。

 中原はアンカーを任されているという弟の勇姿を見届けるつもりだったが、すっかり忘れていた。招集場所から見られるだろうかと考えながら、勢いよく立ち上がると目眩がした。一瞬暗くなった視界に眉を顰めて、野村の後を追う。少し先で小谷と合流した野村は頬を緩ませ、中原の知らない顔で笑った。

 何か、胸の奥の方がザラザラする。違和感。

 けれど、それが何なのか知ることができないまま、体育祭は終わってしまう。更衣も片付けも済んで帰ろうと教室を出たところで、タイミングがいいのか悪いのか、野村さんと鉢合わせる。

 もう帰るの? と日に焼けてしまったのか、いつもより赤い顔が中原に問いかけた。


「うん、そのつもりだけど……」

「なら少し待って。一緒に帰りましょう」


 そう言って教室へと姿を消した野村は、リュックサックを背負って戻ってきた。手には昼休憩の際、PTAから差し入れられたスポーツドリンクを持っている。手元に届いた時は冷えていたが、既に四時間強を常温で保存されたこれは、もう温くて美味しさは消えているはずだ。しかし野村は気にすることなく半分以上減ったそれを飲み干す。中原の眉間に皺を寄せた顔も気にせず、「ペットボトル」とラミネートされた紙が貼ってあるゴミ箱へ放り込んだ。


「小谷さんと一緒じゃなくていいの?」


 門を出たところで、中原がそう問いかける。野村は、吹奏楽部に所属している小谷とは別々に下校しているが、オフの日やクラブのないテスト期間には共に帰宅しているのだ。


「打ち上げの話が長引きそうだから、先に帰ってって言われたの」

「打ち上げの話?」

「クラスの打ち上げよ。時間とか場所とか……いろいろ決めることがあるんじゃないかしら」

「野村さんは打ち上げ行かないの?」

「逆に中原くんは行くの?」

「いや、僕は誘われてないけど……」


 クラスのグループでアンケートあったじゃない、と野村は笑うけれど、中原は今の今までそのグループの存在すら知らなかった。


「私は行かないし、行けないの。門限が二十時までなんだけど、きっともっと遅くなるでしょう?」

「……前から気になってたんだけど、野村さんの家って厳しいの?」

「古い家だから。お姉ちゃんの方が厳しく育てられてたわよ。私は、よく言えば自由に育てられてたから。次女の特権かしら」

「へぇ……」

「でもお姉ちゃんはすごい人よ。心から尊敬してる。私も、あんな風になりたかったわ」


 いつだったか野村がお姉ちゃんは私とは全然違うと呟いた時。あの時も感じた彼女の劣等感のような、もやもやとした感情を、中原は今また感じ取っている。いつも大人びて、男女問わず憧れの的である彼女のそんな姿を見るのはどうしても嫌だ。中原は、いつだって野村には胸を張っていて欲しいのだ。


「野村さんもすごいよ」

「慰めなら必要ないわよ」

「慰めじゃないよ。だって……誰よりも眩しいよ」


 眩しい? 野村がそう繰り返すのに、中原は深く頷いた。

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