1-06

 結局中原は野村に彼が誰なのかを聞くことができないまま五月が終わり、体育祭を目前に控え、中間テストの返却まで済んだ。先週と先々週はテスト期間であったために図書室の開放はなく、あれから二人は一度も図書室で会っていない。教室で話をすることはあれど、「彼は誰ですか」なんて堂々と聞けるわけもなかった。


 そうこうしている間に、「せっかく最後の一年、同じクラスになったのだから皆んなと仲良くして欲しい」という担任の意向により席替えが行われた。

 中原の心情としてはどこでも構わないのだが、クラスメイトはそうともいかないようだ。場所によってはクジの交換を求められることなどよくある。そしてそれが、良く転ぶか悪く転ぶかは運次第。今回はラッキーなことに、松嶋の近くから逃げ延びた。そして、中原と小谷は隣になった。そのため一応、中原は野村に変わろうかと申し出たが、斜め後ろの方がいいと断られてしまった。

 そうして中原は今、窓側の前から三番目という嬉しくも微妙な席で毎日授業を受けている。トイレや移動教室以外は基本的に一歩も動ず、そうして目立たないように一日を終える。



 放課後のざわめきから逃れようと手早く荷物をまとめていると、中原の机にコトンと何かが置かれる。目で追いかけた白い手は野村のものだ。視線を戻すと、すっかり習慣となったコーヒーのペットボトルが置かれていた。それを背負っていたリュックのサイドポケットにしまい、教卓の後ろを通ろうとしたところで「中原くーん」と呼び止められる。

 テスト期間が明け、一層茶髪が明るくなった松嶋は、今日も中原を目の敵にでもしているかのように声をかけてくる。「掃除代わって」やら「ノート写させて」やら、思いつく頼まれごとは山ほどあるけれど、今日は何を言われるのか。


「なに?」

「これ、美術室まで運んでくれない? 先生に頼まれたんだけど、俺今日バイトあるからさ」

「いや、でも、僕今日は図書当番の日だから……」


 いつも言いなりな中原とて、今日ばかりは譲れない。図書室の開放は、今や中原にとって学校の中で何よりも大切なことなのだ。それに、アルバイトだなんて嘘っぱちで、五限の休み時間にやってきた他クラスの女子生徒とカラオケに行く約束をしているのを、中原は知っている。

 現に入口のところで携帯を触っているのは、まさに松嶋を誘っていた女子と、いつも大騒ぎしている仲間達だ。


「どうせ図書室なんて誰も来ないだろ。俺、バイトだって言ってんの。誰の役にも立たない図書当番と給料が発生するバイト、どっちが大切か賢い中原くんなら分かるよな?」


 威圧的な態度。確実に中原のことを見下している。中原はあぁ、またかと思うと同時に気分が悪くなってきて眉をしかめた。鳩尾を殴られたみたいな感じだ。

 黙って俯き、腹を摩る中原を見て、「また発作?」と松嶋は笑う。どういう訳か彼らは三年間同じクラスで、しかもずっと中原は使用人扱いだ。いわゆる「パシリ」。そしてあまりにも松嶋と合わないせいか、中原は松嶋と接触がある度に体調を崩して保健室に駆け込んでいる。そのせいで仮病だズルだと陰で言われているのはとっくの昔に知っていたが、周りの声など気にしていられないほど、中原は限界に近づいている。松嶋といると自分の中をぐちゃぐちゃにかき回されるみたいな、そんな感覚に陥るのだから。

 しかし中原はどれだけ心の中で反抗しても実際には逆らえず、仕方なく差し出されるダンボールを受け取ろうと手を伸ばす。しかし中原の手が届くより早く、見慣れた手が横からそれを受け取ろうとした。


「いいわよ。私が持って行ってあげる」

「え?」


 珍しく松嶋と中原は同じ気持ちだったようで、声が重なった。だらしなく口を開けている松嶋に、二人の間に割って入った野村は不思議そうな顔をして、未だ彼の手の中で留まるダンボールを引っ張った。中の荷物がカチャカチャと音を立てる。


「いや、冬華ちゃん女の子だから、こんな荷物持たせられないよ」


 さすがはプレイボーイと名の高い松嶋である。中原に向けられていた暴力的な圧力はすっかりなりを潜めて、人好きのする笑顔を浮かべる。彼女がいるとの噂は学年中で有名だが、他の女子への気遣いも忘れていないようだ。


「平気よ、このくらい。私美術部だからついでに持っていくわ。それに、今日図書室に行く予定があるの。開いていないととっても困るのよ」


 ニコニコとした笑顔は崩さない野村が松嶋の手元からダンボールを強引に奪い取り、未だぽかんとする二人をその場に残して立ち去っていく。中原はしばらく松嶋と向かい合ったまま取り残されていたが、このままここにいたら危険だ、といち早く察知した頭に操られるようにして野村のあとを追う。

 そして階段で追いついた野村からダンボールを受け取って、並んで美術室まで向かった。カッターが数本にカラーマーカーが何セットか。そこまで重いものでもない。


「彼のこと嫌いだわ」

「僕も、松嶋くんは得意じゃないな」

「いつもこき使われてるわね。嫌じゃないの?」

「もう三年目だからね。情けないけどさすがに慣れちゃったよ」


 そんなの慣れたくないんだけどと中原が自虐的に言ってみても、野村は笑いはしなかった。


「ねえ、彼のグループでの僕のあだ名知ってる?」

「なあに?」

「『カモ』だよ」

「ひどい」


 信じられないわね、と憤慨して乱暴にドアを開けた野村に続いて中原も美術室へ入る。すると、キャンバスに向かって筆を伸ばす白衣の男性が驚いたような顔で二人の方を向いた。中原は知らない顔。けれども白衣の下がパーカーなので生徒でなく先生なのだろうと判断した。

 何も言わず見つめられて中原が困っていると、野村は彼からダンボールを受け取って準備室の方へ消えていく。白衣の男性と中原の二人は、微妙に離れた距離感のまま取り残されてしまった。


「きみ、名前は?」

「中原、です」

「中原くん。ああ、君が。冬華ちゃんから話は聞いてるよ」


 仲良くしてくれてるみたいで、と白衣の彼は笑った。もしかして彼女が前に言っていた講師の先生だろうか。そういえば美術の授業は非常勤の男性の先生が担当していると聞いたことがある。たしか名前は、細井ほそい先生。中原は書道選択だったため関わったのは今日が初めてだが、聞いた話によると「爬虫類みたいな先生」だとか。

 冬華ちゃんをよろしくねと微笑んで言われたけれど、中原は「はい」とも「いいえ」とも言えなかった。


 戻ってきた野村と連れ立って図書室へ向かう。先ほど職員室に寄ったが鍵がなかったので、司書の先生が開けてくれたのかもしれない。

 相変わらず人のいない図書室に、ガサゴソと音が鳴っている。カウンターの奥のガラス張りの準備室に、背の低い女性に姿。司書の先生だ。

 細い体に似合わない力で、見るからに重量のあるダンボールを持ってカウンターから揚々と出てきた先生は、中原を見つけると「おお」と顔を明るくする。二人はもう三年の付き合いになる。もしかすると、学年の先生よりも中原のことをよく知っているかもしれない。

 先生は足元にあったダンボールに持っていたものを重ねて、大袈裟にふうとひと息つく。そして、中原の隣に立っている野村にいらっしゃいと笑うと、思い出したようにアフロのような天然パーマの髪を揺らして準備室の方へ走っていった。図書室ではお静かにと、そこらじゅうにクセのある先生の字で貼り紙がなされているのに、一番騒がしいのはこの人だ。


「これ、あげるよ」


 よく見る個包装のチョコレート菓子を、司書の先生は中原と野村にひとつずつ渡して美味しいよと言う。中原が何ですか? と聞くと、「アタシのおやつ」とニコリと笑った。


「アタシ、チョコ好きでしょ? でもいちご味のチョコレートは嫌いなんだよね。だから中原くんと……そこの綺麗な君にお裾分け。美味しく食べてくれ」

「ありがとう、ございます」


 野村の言葉に満足そうに頷いた先生は、二段に積み重ねた段ボールを危なげなく持ち上げる。意外に力のある先生に助けは必要ないと言われたことがあったが、その体躯に似合わない荷物に中原は手伝いを申し出た。しかし、思った通り「いいのいいの。鍛えてるからね」と断られてしまったので、先生が足で開けて全開になったドアをゆっくりと閉めた。


 いつもならば中原は野村が絵を描いている前に座り、その様子を眺めたり彼女の話に相槌を打ったりするのだけれど、今日は何となくカウンターでおとなしく座っていた。勉強する気にもなれない。しかし受験生ともなれば嫌でも取り組まなければならないので、日本史の単語集を開いて全く身になっていないであろう復習を進めた。


「中原くん」


 始めてみると熱が入っていた中原が、すぐそばで聞こえた声に顔を上げる。

 いつの間にかカッターナイフと鉛筆を両手に持って、野村がカウンターの入り口に立っていた。柄の部分を握り持っている様に一瞬驚きはしたけれど、よく見るとカッターの刃は出ていない。


「ゴミ箱はどこにあるの?」

「え、あ、そこ。そこにある」


 言いながら、カウンターの下から学校でしか見たことがない、青い大きなゴミ箱をスライドさせる。ありがとうと微笑んだ野村はカチカチと刃を出すと、鉛筆にあてがった。

 こだわりなのだろうか。鉛筆削り使わないんだとは言わなかった。


「中原くん、何かあったんでしょう」


 目は注意深く手元に注いだまま、野村が言う。


 ずっとソワソワしているし、変よ。

 野村の言葉にそんなことないよ、とも、そうかな、とも言えず、中原は膝の上に開かれたままの単語集に視線を落とす。隅の方に載った菱川師宣の見返り美人図の緋色の衣裳が嫌に目についた。


「もしかして、この間私が来なかったから?」


 図星を突かれて中原がつい野村の方を見てしまうと、したり顔の彼女が笑った。


「あの日は、少し動揺していて……気がついたら自分の部屋で座っていたの」


 それを聞いて思う。やはり、屋上で会った彼のことがあったからだ。


 そして同時に思い出す。

 あの後の野村は様子が違っていた。授業中に堂々と後ろを振り返ることは出来ないので窺い見る程度だったけれど、どこか遠くを見ていて、小谷が話しかけても心ここにあらずといったふうだった。「冬華、熱でもあるのかな?」と耳打ちしてきた小谷に、中原は「さあね」と首を傾げることしか出来なかった。


 野村と彼はきっと知り合いなのだ。どのレベルの仲なのかは中原には測ることができないけれど、親密だったのではないかと予想している。元彼か、はたまた彼女の片思いか。野村の気持ちが彼に傾いているのは、さすがの中原でも何となく分かる。しかし彼には二人の関係を知る由もないし、聞く権利もない。知らなくてもさして問題ないので、野村から話されるまでは聞かないと決めていた。

 しかし野村は少しも隠そうとすることなく、彼のことについて口を開く。


「彼ね、幼馴染みなの」


 彼? ととぼけて返す中原に、屋上から入ってきた彼よとはっきりと言う。

 話したいんだろうと、そんな気配を感じ取り観念して中原は野村に向き直った。初めて見る穏やかな顔に、少し胸が痛む。


「小学校が同じでね、中学は離れちゃったんだけど、高校で再会したの」


 たまたまよ? と野村は笑う。


「初めに見かけたのは入学式の時。偶然隣の席で、彼も気づいてたはずなんだけど、一言も話さなかったの。挨拶もなしよ。二年生の時は同じクラスだったのに一度も話さなかった。それに、彼、変わっちゃったのよ。昔はあんなにグレた感じじゃなかったのに……」


 眉を八の字に下げる野村は削り終わった鉛筆の先を親指の腹で撫でる。


「寂しくないの?」

「そうね……寂しいとは思わないわ。でも、すごく苦しい」


 眉はまだ下がったまま、少し口角を上げてみせて言った野村に分かるよと、中原は何度も頷く。

 中原にも、中学から一緖に進学してきた同級生はいる。彼の場合相手は同性だが、受験時や入学直後は何かと話しかけてきたものだ。一緖に帰ろうと誘われたこともある。しかしそんなものは束の間の出来事で、同校出身の彼が見事な高校デビューを果たした後、中原はいなかったものにされていた。「俺同中いなくてひとりなんだよねー」と大声で話していたのを背後で聞いたことがある。それには中原も最寄り駅が同じのくせに何を言っているんだと、流石に苛立ち、心の中で抗議したものだ。今となってはどうでもいいが、その当時はショックだったのを鮮明に覚えている。

 そんな話をすれば、野村は「その彼ともう一度話したい?」と柔らかく首を傾げる。


「僕は話したくないかな。傷をつけられて終わりそうな気がする」


 中原が笑ってそう返すと、私も、と彼女は頷いた。


「それにきっと、彼はもう私と話したくないんだわ。嫌われちゃったのよ」


 眉を下げて言う野村に、中原は「そんなことないよ」の一言もかけることが出来なかった。

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