1-05
五月も中旬を迎えて、そろそろカーディガンがいらなくなってきた。
中原の学校は指定のセーターやベスト、カーディガンがないため寒い時期は非常にカラフルだ。中原は人の顔を覚えるのが苦手なため、その色やデザインの違いで覚えている。しかし暖かくなってきてクラスメイトも白一色に染まり、記憶は振り出しに戻ってしまう。最後の最後までカーディガンを貫いていた野村も、ついに今日からシャツ一枚になっている。
授業中に当てられて前に出た野村の後ろ姿はスッキリしたけれど、想像以上に細くて中原は驚いてしまった。あえてオーバーサイズにしているのだと思っていたアレは、もしかすると意図せずああなっていたのかもしれない。
「冬華、あのドラマ見てる?」
すっかり定着した昼時の席移動に巻き込まれることなく中原が自分の席で食事をとっていると、後ろで小谷と野村の会話が聞こえてくる。決して盗み聞きしているのではない。静かにしていると聞こえてしまうのだ。
凛とした声の野村とは違って柔らかい小谷の声は、聞いていて気分の悪くなるものじゃない。控えめな声でゆったりと交わされる二人の会話は、BGMにしていると心地がよかった。まあ、聞こえてくるのは大騒ぎする松嶋のグループの声が大半で、あまり意味は無いのだけど。
「見てるわよ。杏奈の好きな俳優が出てるものね」
「今週の話、結構きつかったな〜。推しが酷い目に遭ってる姿見るの、役って分かってても辛い……」
これは最近中原が知ったことだが、浮世離れしたような野村がわざわざ流行りに乗っているのは女子高生特有のものではなく、小谷と会話をするためらしい。凝りもせず話題の小説を読む彼女に「そういうところ意外だよね」と中原がこぼした際に、杏奈がこれ好きだから、と平然と返されたのだ。それほど大切にできる友達がいるのはいいなと思う。中原にはそんな友達などもう長くいないかった。
今度あの映画見に行こうね、と約束する二人が楽しげに話しながら席を立つ。しばらくして帰ってきた野村の手には、いつからか毎週のように中原へと渡されるようになった250ミリリットルのコーヒーのペットボトル。当たり前のように机上に置かれるこれが、いつの間にか「今日は図書室に行きます」という二人だけの合図になっていた。無糖のブラック。暖かくなってきた最近の気温に、冷たいこれは有り難い。
団練あるから一階集合ね! 時間厳守!
ポニーテールがトレードマークの女子が呼びかけると、クラスのほとんどが一斉に動き出す。ダンス忘れた、あそこ難しくない? など不安な声が上がる中、弁当箱を仕舞って寛いでいた小谷も慌てて立ち上がった。
頑張ってねと野村の温かい声に送られた小谷は、入り口で待つ三人ほどの女子に駆け寄って出て行った。これも最近知ったことだが、おとなしい方だと思っていた彼女は案外友達が多いようだ。
「ねえ中原くん」
背中をツンツンと突かれる感覚に、中原は野村の方を振り返る。
「少しだけ、お話ししない?」
そして中原は、行き先も告げられないまま野村に連れ出された。三つ編みの揺れる背中を追いかけて中原が行き着いたのは、屋上へと続く東階段の埃っぽい踊り場だ。
誰にも掃除などされていない。窓もなく日の入らない湿っぽい空間だ。ハウスダストのアレルギーの人がいれば間違いなくくしゃみが止まらなくなる。しかしそこに、真っ白なシワひとつないハンカチを敷いた野村は、一番上の段に座り込んだ。
「汚れちゃうわよ」
ハンカチなど持っていないので気にすることなく隣に座った中原に野村が驚いて声を上げる。
「いいよ。払ったら取れるから」
お母さんに叱られても知らないわよ、と言われ、小学生の頃、泥だらけになって帰ってきた弟が母を困らせていたのが頭に浮かぶ。念入りに埃はとって帰ろう。
「何かあったの?」
「何かって?」
「こんな所に来たから、教室ではできない話でもあるのかと」
「ああ、別に……意味はないんだけど」
「なんだ。ちょっと構えちゃったよ」
はは、と中原がわざとらしく笑ってみると、野村は軽く口角を上げる。
「じゃあ、する? 教室じゃできない話」
「え?」
「そうねえ……好きな人いる? とか?」
「冗談だよね?」
両肘を膝について頬杖をつく野村がチラリと中原に目を向ける。
「なあに、その反応。さてはいるのね?」
「いや、いないけど……野村さんがそんな話題振ってくるの意外だなって」
「どうして? 私だって女子高生なのよ。好きよ、恋バナ」
恋バナ、なんて言葉が似合わない彼女に、中原はついつい笑ってしまう。不満そうに眉をしかめる野村に中原は仕返しがしたくなった。
「そういう野村さんは、好きな人いるの?」
その質問に一瞬目を丸くした野村が、片方の眉を上げて言う。
「いるわよ」
予想外の答えに仕返しどころじゃない。てっきり、彼女は恋だ何だには遠い場所にいると思っていたのに。思いがけず知った事実に、体の奥の方でぐずぐずと暗いものが沸き立っていく。
「誰?」
思ったより情けない声が出た。「誰だと思う?」と逆に問われ、中原は困ってしまった。野村の周りには男女問わず人が集まるけれど、その一人ひとりとの関係性は知り得ない。
黙り込んだ中原にいたずらっぽい顔をした野村は「冗談よ」と面白そうに笑った。たまには別の場所で話すのもいいと思った、ただそれだけなのだと言う。
あの授業が分からないとか、あの先生はこんなクセがあって飽きないとか。
野村は案外、そんな普通なことを話すので、中原は相槌を打ったり笑ったりする。小谷と一緖にいる時の彼女は聞き一辺倒だが、意外とよく喋るのだ。階段の下の方から声や足音が聞こえる度に少しヒヤヒヤしたけれど、幸い二人の会話が誰かに邪魔されることは無かった。
いつの間にか昼休みも終わりかけていて、ゆっくりながらも続いていた会話は予鈴のチャイムの音に遮られる。
もうそんなに経ってたのね、と野村が笑い、中原は彼女も楽しんでくれていたのだと安心した。僕彼にとってこうやって普通に会話を楽しむことは、高校入学以来初めての経験だ。クラスメイトとどう関わるのが正解なのか、小学生の頃に遮断してしまったために中原は未だによく分かっていない。
本鈴が鳴り出す前に教室に戻ろうと二人揃って立ち上がり、階段を降り始めたところで屋上の扉がガタガタ揺れた。
屋上は立ち入り禁止で鍵がかかっているはずだ。それなのに向こう側から扉が開けられようとしているということは……怪奇現象だ、なんて中原はあり得ないことを考えたが、錆びついた扉から姿を現したのは二人と同じ制服を着た学校の生徒だった。
「あ」
中原より少し下にいた野村が小さく声を上げた。ワイシャツの袖を捲くって緩く制服を着崩した男子生徒もまた、小さく見開いた目で彼越しに野村を見つめている。
そして口を閉ざして眉を寄せる彼のシャツの裾を軽く摘んでいる柔らかそうなウェーブの髪を揺らす女子生徒は、中原と同じく訳がわからないといった様子だ。
誰もが何も言わない。中原を挟んで二人が無言のまま、ずいぶん長い時間が経ったように感じる。すると、痺れを切らしたように彼の隣に立つ女子生徒が「なにー?」と緩く尋ねた。我に返った彼は「何も」と短く言い、彼女を置いてさっさと下りていってしまった。残されたウェーブの彼女は慌てて追いかけ、通り過ぎた後に甘ったるい匂いが残る。それを見届けて中原も野村の隣まで階段を降りていった。
「大丈夫?」
彼の去った先をじっと見つめる野村にそっと声をかける。
大丈夫? と話しかけるのは避けた方がいいと、どこかで聞いた。大丈夫かと聞かれたら、人は大丈夫だと答えてしまうものなのだと。だから本当は、「どうかした?」と言うのが適当らしい。しかし中原は、それ以外今の野村に話しかける言葉を持っていなかった。
「ええ。何も問題ないわ。少し動揺しただけよ」
好きな人がいる。野村はさっきそう答えた。冗談だと彼女は笑ったけれど、もしかするとあの彼のことだったのかもしれない。そうなれば今の状況は、あまりいいものとは言えないだろう。真偽がどうあれ、少なからずショックを受けていることは誰が見ても分かる。
「教室、戻ろうか?」
控えめに中原が言うと、小さく頷き固まっていた野村が動き出す。黙って中原の後をついていく野村と共に教室に戻ったのは、授業の開始を告げるチャイムが鳴ったのと同時だった。
そしてその日、最終下校のギリギリまで待ってみたけれど、野村は図書室へ来なかった。
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