1-04
ガチャガチャと騒がしい学食で、中原はひとり静かにきつねうどんを食べる。
好物は最後に食べる派だ。取っておいた薄味の出汁が染み込んだ甘いあげをひと口で頬張って、束の間の幸せに浸る。ただ、サービスの良い学食のあげは想像より大きかったようで、出汁が溢れてしまった。人差し指で口の端のそれを軽く拭って、居心地の悪い席に長居することなく早々に立ち上がった。
昼休みのスタートダッシュに乗り遅れてしまったせいで、窓際のカウンター席はおろか、テーブルの端も空いていなかった。たった一つ空いていたのが長机の真ん中で、冗談じゃないと思いつつも大きな二つのグループに挟まれる席に渋々座ったのだ。まあ、いずれも三年の生徒じゃなかっただけマシである。
盛り上がる彼ら彼女らの間に着席した時は、拷問かと思うほど苦痛だった。悪口に笑い声なんて低俗な会話を聞いているこちらの身にもなってほしいものだ。あの時はもう二度と学食なんて使わないと思ったが、案外食事は美味しかった。「学食が美味しい学校」と遠い昔、中学生の頃に噂は聞いていたけれど、想像通りというか期待以上。ネギが若干多かった気もするが、正直、母が作るきつねうどんより好きだと思った。今後も時々ならば利用していいかもしれない。
三年前、合格発表の日に羨ましがっていた丸い顔の幼馴染の、悔しそうな顔が頭に浮かぶ。中原のたったひとりの友達だった彼は、残念ながら公立受験に落ちたのだ。幼稚園から共に過ごした彼と最後に会ったのはいつだろうか。私立もなかなか美味しいよと、幸せそうに笑っていたのは覚えている。二人一緒に合格していれば、もう少し違っていたのだろうか。考えるだけ無駄なことをふと思うのは、今に始まったことじゃない。
「あ、すいません」
突然立ち上がった男子生徒が器を持つ中原の右肘にぶつかる。弾みで残っていた汁が鉢から少し、溢れてしまった。狭い通路で、しかも混んでいるのだ。仕方がない。謝ってくれたのだから、気をつけて見ていなかったことをこちらも謝って、さっさと立ち去ろうと、そう思った。それなのに、振り返った顔にあまりにも見覚えがあって、中原の頬がピクつく。
「何だ。中原じゃねえか」
舌打ちが出そうになるのを抑える。ぶつかってきた彼は、相手が中原だと分かるとあからさまに態度を大きくして、目の前に仁王立ちする。
「松嶋くん……」
「謝って損したー。お前気をつけろよ」
「ああ、うん。ごめんね」
松嶋。彼が自分の日直の仕事を押し付けたせいで、中原はあんな席に座る羽目になったのだ。それなのに感謝の素振りも見せないこの態度。前言撤回だ。もう二度と利用なんてするものか。
松嶋のグループが座っていた辺りから聞こえて来る下品な笑い声に中原はそう決意して、返却口へ食器を置く。そしてごちそうさまでしたを小さな声で言った。すると、食器洗いをしていたおばさんが彼に気がついて、「また来てね」と微笑んでくれる。今さっきもう二度と来ないと決めたばかりの中原は曖昧に笑って、早足で学食を後にした。
学食を出てすぐ右手に、自動販売機がある。
生徒のほとんどが、特に夏のシーズンはよくお世話になっているものだ。せっかくここまで来たし何か買って行こうかと思ったけれど、団子になってあれやこれやと悩んでいる女子生徒が二台ある自販機を埋めていたので、中原はズボンのポケットから財布を探っていた手を引っ込めた。
「今日は学食?」
やっとの思いで中原が教室へ帰りつくと、野村が後ろの席から声をかけてくる。
二人が図書室で言葉を交わすようになってから一ヶ月ほどが経つけれど、教室で話しかけて来たのは今日が初めてだった。
「よく分かったね」
「カレーの匂いがする」
「え、僕カレーなんて食べてないよ」
「あら、そう?」
たしかに右隣に座っていた人がカレーを食べていた気がするが、その匂いが移ってしまったのだろうか。カレーの匂いなど、あまり体から香っていいものでない。言われると気になってしまい、中原は腕のあたりを嗅いでみる。自分では分からないけれど、客観的には匂うものなのだろうか。あんまり気にしているように見えたのか、彼のそんな様子を見て「大丈夫よ、臭くないから」と野村は笑った。
「学食はよく行くの?」
「いいや。今日が初めてだよ」
「いつもお弁当だものね」
母さんがお米を炊き忘れたんだって。言いながら、米食派の中原家には珍しく用意されていたマーガリントーストを齧っていると、ごめんねーと頭を掻いていた母の顔を思い出す。いちごジャムまで塗って三枚もトーストを平らげた年子で同じ学校の弟は、学食が楽しみだと言っていた。
そういえば会わなかった。
「毎日作ってくれるだなんて、いいお母様ね」
「料理好きなんだよ。不器用だけど」
ワイシャツの袖口に縫い付けてあるボタンを見やって言う。これは一昨日取れてしまったので付けてもらったのだが、かなり時間もかかっていたし、袖の内側の玉止めも不格好であまり上手とは言えない。そもそも家庭科が苦手だった中原は付けられないので文句は言えないが。
「いいじゃない。お母さんの手作り弁当」
「まあね。野村さんは自分で作ってるの?」
「いいえ。作ってもらってるわよ、お手伝いさんに」
「……ふうん。お手伝いさんに」
言いながら中原は無意識に、まだ机に置いたままのランチトートに目を向ける。野村の携帯のロック画面のクロマメに少し似ている。見つめていると気取って歩く猫の、ツンケンした顔に馬鹿にされているような気がして目を逸らした。
中原はふと教室中を見回して、閑散としていることに気がつく。いつも元気に笑い声をあげるクラスメイトが一切合切いなくなっている。どうりで聞き取りにくいと言われる中原の声がよく通るはずだ。ひとりで納得していると、「今日から応援団の練習が始まったみたいよ」と野村が見透かしたように言う。
応援団。もうそんな時期か。
中原の高校の体育祭の花形は、全員リレーではなく団対抗の応援合戦である。応援団、とはいっても、学ランを着て鉢巻を巻く暑苦しいものではない。綺麗な衣装に軽く化粧を施してダンスを踊るのだ。
毎年三年が中心となって、曲選びから衣装作り、ダンスまでも自分達で考える。大体の生徒は総合優勝よりこの勝敗に賭けている。応援団への参加は希望制なのでもちろん参加しない人もいるけれど、ごくごく一部でマイノリティだ。もちろん集団行動が嫌いな中原は参加などしない。いつも野村と一緖にいるはずの小谷がいないということはその練習に行ったのだろうが、野村は意外にも観覧組らしい。
「小谷さんは応援団に入ったんだね。野村さんはやらなくてよかったの?」
「私、ああいうのは苦手なの。あまり混ざりたくないわ」
野村は眉を下げてそう言う。
数週間前に何とか彼女を応援団に口説き落とそうとする女子達が群がっていたが、全て断ったのだという。密集する女子に押された中原は弾き出されて教室から出たが、あの圧力を跳ね返しただなんてかなりパワフルだ。
昼休みの終わりが近づく予鈴に、わらわらと教室へ活気が戻ってくる。本鈴のギリギリ、遅れて駆け込んできた松嶋に、ポニーテールの女子がどうして来なかったのと詰め寄っている。彼は練習をすっぽかしたらしい。中原は食堂でのことを思い出したと同時に腹が立ってくる。もう少しきつく叱られてしまえばいいと、教卓のど真前に偉そうに座る茶髪の後ろ姿を見やった。
まさかその彼に一日に二度も使われるなんて、いったいどれだけツイてない日なのだろう。昨夜、母が炊飯器のスイッチを入れ忘れた時点から決まっていたのだろうか。たまたま目にした星占いは十一位だった。中原はいつもは占いなんて信じないけれど、今日ばかりは一理あるなと、白いゴミ袋の口を縛りながら思う。彼より運のない人間がこの世の中にいるのだと考えると哀れな話だ。
本日二度目の使いっ走りは、ゴミ捨てだった。
掃除当番で最後のゴミ捨てはジャンケンで決めようということになったのに、松嶋が中原に任せようと言って帰ってしまったのだ。残念ながら公平にジャンケンをしようと言ってくれる人はそこにはいなくて、いい人でいたいがためについ、困ったように顔を見合わせている残りの二人に「やっておくよ」と笑ってしまった。
強く言えない自分が嫌になる。こんなんだから、三年間も使われてしまうのだ。
「中原くん」
学校の敷地の外れにあるゴミ集積場から中原が出てきたところで、野村が立っていた。
「また松嶋くんに使われたのね」
まあねと笑って見せる中原に「可哀想に」と近づいてきた野村は、どこに隠し持っていたのかペットボトルを差し出す。250ミリリットルのブラックコーヒーだった。
「毒なんて入ってないわよ」
中原が受け取れずにいると野村は面白そうに笑う。
「それとも、コーヒーは苦手?」
「いや、貰うよ。ありがとう」
買ったばかりなのかかなり冷たくて一瞬怯む。悩んでカーディガンのポケットに入れた。こんなところまでやってきて何か用があるのかと思ったが、中原がコーヒーを受け取ると満足げな顔をして、さようならと帰っていった。
彼女に貰ったコーヒーは、翌日中原がカーディガンに袖を通すまで忘れたままだった。
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