1-03

 

「中原くん」


 カウンターの外から呼ばれる声に、少し期待していた。それでも中原は、「また来たんだ」と考えもしなかったような顔で野村の前に立つ。初めて話してから一週間。彼女に関するいろんなことを知った。

 入学当初から美人で評判だという。おまけに成績優秀で優しくて気品があって……数え切れないほど、いい噂が絶えないようだった。そんな彼女だから、周りには男女問わず人が集まる。そのため席が前後だと言っても、人気者の彼女と教室で会話をすることはゼロに等しく、朝挨拶をする程度だった。

 中原は野村が先週借りて行った人気作の返却の手続きを進める。背表紙のバーコードを読み取った時、野村が言った。


「なかなか面白かったわよ」

「え……ああ、この本?」

「ええ。先週聞いたでしょう? これは面白いのかって」


 そういえばそうだった気もする。そうだっけとへらりと笑ってみせると、野村は続けた。


「ありきりな恋愛小説って感じ」


 表情ひとつ変えずに淡々と述べる彼女の姿に、果たして本当に面白かったのだろうかと疑問が浮かぶ。


「面白かったんだよね?」


 中原がそう確認をすると、もちろんと彼女は頷く。本当かと念を押すと、眉をしかめた彼女が彼に尋ねた。


「じゃあ逆に、嘘だと思う?」


 小首を傾げて見せて真面目に問うてく野村に、中原は首を縦にも横にも振ることができない。感動した? と、この作品の推しである文句を思い出しぶつけてみると、それには「いいえ」と即座に言ってのけた。思い返してみれば、先週彼女はネットでネタバレを見たと、貸し出す前に言っていた。結末が分かっていたのだから感動するはずがない。

 それで本当に面白かったのかと、野村に悪いが中原にはにわかには信じ難い。


「まあ、二度目はないわね」


 やはりお気に召さなかったのだと推察する。


「中原くん、リンゴは好き?」


 好き? と聞きながらも答える前にカウンターに置かれたのは個包装の飴。あまりにもオーソドックスなリンゴの絵が書かれたそれを、受け取ってじっくり眺める。


「飴?」

「そうよ。あ、叱られちゃうかしら?」


 飲食禁止ですって。

 先週中原がが言った言葉を、少し声を低くして野村は真似る。彼はそのお茶目さにどう反応すればいいのか分からず微笑んだ。どうせここには中原と野村の二人しかいない。小さな袋を破って、皮をむいたリンゴと同じ色の飴を放り込んだ。想像通りの飴の味。コロコロと口の中で転がす彼に、野村は「共犯ね」と笑った。


 野村はよく見るとスケッチブックを小脇に抱えていて、中原がそれは何かと尋ねると美術室じゃ捗らなくてと困ったように言う。なんでも、部員である自分達より顧問が絵に熱中していて、クラブ活動どころでない白熱ぶりらしい。

 それでどうしてここへ? そう聞く前に、野村は「あそこ借りるわね」と窓際に三台の長机を配置して設けられた読書コーナーを指し示した。中原の返事も待たずに意気揚々と歩いていくピンク色の後ろ姿に、「勉強以外禁止!」と癖のある赤い文字で大きく書かれている貼り紙は見なかったことにする。

 少ししてやってきた女子生徒が、先ほど野村が返却していった本を手にカウンターの前に立った。入ってきた時にちらりと見たスリッパが青かったので、二年生だろう。


「この本、貸し出しお願いしていいですか?」


 特徴的な高い声がそう尋ねるので、構わないよと頷く。やはり人気な本らしい。


 いかにも女子らしい丸い字が並ぶ貸出カードは、もう随分使い込まれたような風格がある。縁はところどころ解れていた。野村のカードももう四枚目の裏面まで突入していて、日付は七日刻みで記されている。そして横へ並ぶタイトルは、一度は聞いたことのあるような人気作ばかり。そして時々、伝記が挟まったりしていた。

 キョロキョロと室内を見回した二年生の彼女は、長いおさげの髪を大きく揺らして中原の立つカウンターを振り返る。バッと音がしそうな勢いで野村の後ろ姿を指差すと、「あの人、勉強してますよ!」と小声ながらもものすごい剣幕で言った。


「ああ……注意しておくよ」


 ぎゅっと寄った眉と強い二重の目に気圧されながら、中原は情けなくボソボソと返した。


 二年の彼女が去ってから、野村が置いていった貸出カードを返すため、中原はカウンターから抜け出して読書コーナーへ向かう。背後まで来て、呼びかけようか肩を叩こうかと思案し、ふと好奇心に駆られた。

 何を書いているのだろう。それが気になって仕方なかった。あまり好ましいことではないとわかりながら、野村の背中越しにこっそりとスケッチブックを覗き込む。


「木……?」


 鉛筆でざっと下書きされたそれは、木だった。

 つい口から出た声に、野村はまるで弩にでも弾かれたように振り返る。


「驚いた。いたのね。全然気が付かなかったわ」

「あ、カードを返そうと思って……」

「あら、忘れてたわ。ありがとう」


 慌てて不自然に仰け反った体勢を戻す。野村はスケッチブックの上の消しゴムのカスを払って、自分の前の席と中原とを交互に見ながら、「座って。お話ししましょう」と微笑む。促されるままに座った彼が当番中だと抗議すると、暇でしょと平然として返す。たしかに、さっきの二年生が出ていったので二人以外は誰もいない。


 彼女が描いていた木は中原の方からはひっくり返って見えているけれど、それでもさっき覗き見た時よりもずっと、凝っているのだと分かる。今度県のコンクールがあるのと、スケッチブックに見入っていると野村は言った。


「選ばれた作品は今年度の最後にある展覧会で、展示してもらえるのよ。私、それに賭けてるの」


 まあまだ、何を描くかも決まってないんだけど。


 肩をすくめてみせる野村の言葉に、中原は再びスケッチブックに目を落とす。まだ下書きの段階だというけれど、かなり細部まで正確に描かれている。


「これって、何の木?」

「桜よ」


 桜。繰り返して、窓の外の景色から桜の木を探した。

 運動部の生徒が入り混じるグラウンドより手前に、大きな桜の木が一本立っている。残念ながら昨日降ったのせい雨で花弁の大方が散ってしまったのでピンク色は到底見えないが、四月の半ばまでよくぞ持ち堪えていたものだ。たしか、校門の桜は随分と昔に緑に変わってしまっていた。

 野村がスケッチブックをこちらの方へ寄せる。中原はそれをひっくり返して正面からじっくりと眺めた。

「桜が好きなんだね」と、少し柔らかく解れてきつつある空気を無駄にしないよう、中原が努めて明るく言う。しかし返ってきたのは冷たい視線と、刺すような鋭い声だった。


「いいえ。大嫌いよ」


 え、と零した声は掠れている。

 今日は過ごしやすい気候だと天気予報で言っていたのに、背筋が冷えた感覚がする。中原は思わず羽織っていたカーディガンの袖を伸ばした。

 感情の読み取れない顔。何を考えているのかは分からないが、明らかに中原の手元の桜の木に向けられる蔑みの目。時間が止まったような静寂に、図書室の前の廊下に響く笑い声が大きく聞こえる。

 パタパタ軽快な足音が過ぎ去った頃を見計ったように、野村が今度ははっきりと繰り返した。


「大嫌い。桜がこの世で一番嫌いだわ」

「そう、なんだ。ごめん。あんまり上手だからてっきり……知らなかったよ」

「いいの。ああ、うちの庭に大きな桜の木があるの。小さい頃からよく見ているから、それで細かく描けるんじゃないかしら」


 中原が動揺を隠し切れずに謝ると、野村は打って変わって明るい表情を見せる。彼はその態度にすっかり戸惑ってしまった。へえ、とも、ふうんともつかない曖昧な返事を返す。そんな中原にお構いなしに、弾む声で野村は、「姉の名前もさくらって言うのよ」と話し出す。中原はまだ温度差について行けない。


「平仮名でさくら。四月の、庭の桜が満開の時期に産まれたんですって」

「お姉さんがいるんだ」

「ひとりっ子に見えるんでしょう? よく言われるわ。姉は……本当に素敵な人なの」


 私なんかとは全然違うのと、どこか遠くを見つめて野村が言う。中原には弟がいるけれど、彼は間違っても中原のことを「素敵な人」だなんて言わないだろう。彼らいつも反対側にいて仲が良くない。まあ、悪くもないのだが。

 そう思われるお姉さんが羨ましい。中原が素直にそう伝えると、彼女は何も言わずに微笑んでスケッチブックに向かった。

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