1-02

 

『僕にも大切な人ができましたか?』


 高校三年に進級控え、いい機会だからと中原が勉強机の引き出しを整理していると、そんな言葉が書かれた紙を見つけた。

 今よりヘタクソな筆圧の弱い字で、小さく書かれたそれに見覚えはない。しかし「18才の自分へ」の印刷を見て合点がいった。小学生の頃、二分の一成人式とかいうイベントで高校卒業後の自分に宛てて書いたものだ。


 こんなことを書いていたのか。


 好きな食べ物に趣味。将来の夢。

 今となってはまるっきり変わってしまった手紙の内容は、今の中原が見るには少し早かった。皺にならないように丁寧に折り畳んで、もう一度封筒に仕舞う。そして引き出しの奥へ突っ込んだ。


 思えばずっと、退屈な日々だった。


 なかなか友達を作れない中原を、父は頻繁に外へ引っ張り出し、母は虐められてでもいるのかと問うてきた。特に不満はなかったが満足もできない。いつも無愛想で無口な中原に話しかけようなんて思う人は居なかったのだろうし、彼自身、仲良くなりたいと思う人が特にいなかったのだ。

 しかしお節介にも担任は、「中原くんも一緒に遊んで来なさい」と休み時間の度に僕を外へ送り出す。小学生の中原はその時間が嫌いだった。気を遣われているのを子どもながらに感じ苦痛だったのだ。どうすればと頭を悩ませ、誰にも文句は言わせまいと勉強することにした。休み時間、放課後、休日までも。そうすると先生も友人も、両親も何も言わなくなった。

 そうしていると知識が増え、中原はクラスメイトが幼く感じた。世界を小さく感じた。

 彼は実に可愛げのない子どもだった。


「忘れ物は無いわね? 車に気をつけてね。いってらっしゃい」


 一日たりとも抜けることなく、母はそう言って玄関まで見送りに出てくる。小学生じゃないんだから……とは思っても、母の優しい笑顔を見てしまってはやめてくれなんて言えない。

 先に出ていた父が、ゴミ袋を両手に持って追い越した中原に「気をつけろよ」と声をかける。それから植木鉢の水やりをする近所のおばさんと挨拶をする。


 いつもと何も変わらない一日。


 学校へ行き、授業を受け、母のお弁当をひとりで食べ、クラスメイトとは一言も話さずに帰宅する。少し寂しいかもしれないが、平凡な一日。何かを求める、いつも通りの一日。

 そんな中原の日々が変わり始めたのは、三年に上がって少し経った雨の日だった。


「これ、返却したいんですけど」


 静かな場所が落ち着くからと立候補した図書委員の仕事ももう三年目になる。相変わらず暇な金曜日の放課後。司書の先生が野暮用だと言って出て行ってすぐ、よく通る綺麗な声が響いた。

 中原が顔を上げて相手の顔を見た途端、大きく心臓が跳ねるのを感じた。


「返却、お願いできますか?」


 カウンターに立ったままぼんやりと顔を見つめる彼に不思議そうな顔をして、目の前の彼女はもう一度繰り返す。


「ああ……返却、ですね」


 舌がもつれて話しにくい。変に手が震える。返却の手続きなんて、今日初めてする仕事でもない。それなのに、じんわりと汗が滲むし、思うように手が動かない。やっとのことで本の裏側のバーコードを読み取ると、中原の手元をじっと見ていた彼女が、ふふっと笑い声を漏らした。


「ごめんなさい。馬鹿にしているわけじゃないの」

「いや……僕こそすみません。手際が悪くて……」

「謝らないで。ところで、今日は司書の先生はいらっしゃらないの?」

「ついさっき出ていきましけど、何か用事でもありました?」


 キョロキョロと見回す彼女に中原がそう聞くと、「いいえ」と首を横に振る。


「いつもいるのに珍しいなって」


 いつもの二倍の時間をかけながら、やっとのことで手続きを終える。中原は、綺麗に微笑む彼女の姿から目を離せずにいる。そんな視線など気にも留めず、真っ白な手がカウンターの上の本を受け取った時、彼はついうっかりと聞いてしまった。


「あの、名前は……?」


 え? と目を丸くした様に、しまったと瞬時に意識がはっきりしてくる。冷や汗をかいて、どう言って誤魔化せばいいのか思案するも頭の中はパニックだ。


 いや、そうじゃなくて、なんて言うか……


 中原が咄嗟に何か言い訳をしようと言葉を紡いでいると、彼女は柔らかく口角を上げ、教えてくれた。


「野村冬華よ。書いてあったでしょう?」


 ほら、と野村が差し出した貸出カードの右上には「野村冬華」とお手本のような字で書かれている。そしてその隣には「3年4組」の文字。中原はは初めて見た気になっていたけれど、彼女は同じクラスなのだ。


「やっと私が見えた? 中原大地だいちくん」


 そう言って彼女は微笑みかける。どうして今まで目に入らなかったかと不思議なほどに、中原はその顔に魅入ってしまって目が離せない。なんてことのない自分の名前が、彼女の凛とした声に呼ばれると、途端に素晴らしいもののように思えてくる。


「よろしく」


 彼女が一言発するだけで、世界が急に回り出したような感覚に陥る。

 少しも緩ませることなく、きっちりと結ばれたサイドの三つ編み。それから眉の上で真っ直ぐに切れた前髪。ワイシャツの第一ボタンまで閉めて、スカートはしっかりと膝丈で。そんな彼女が羽織る薄いピンクのオーバーサイズのカーディガンは、校則を遵守した恰好には似合わない。その袖口から覗く指はスラっと美しい。

 姿勢も声も、立居振る舞いも、あまりに綺麗で目眩がしそうだ。

 どうしても彼女が欲しいと、中原の心の奥で誰かが叫ぶ。

 頭がおかしくなりそうな渇望に耐えながら、中原は精一杯の笑顔を作った。しばらく笑ってなどいなかった表情筋は固まっていて、その顔はぎこちない。


「こちらこそ、よろしく」

「中原くんとは仲良くできそう」

「どうかな」

「昔から勘は当たる方よ」

「……期待してるよ」


 中原は素っ気なく返してみたけれど、正直心臓がうるさくてかなわない。こんな高揚を味わったのは産まれて初めてだった。

 吹奏楽部のトランペットで掻き消されていた雨の音が、やけに大きく聞こえる。

 いわゆる、一目惚れというやつだろうか。

 そんなもの、少女漫画でしか存在しないと思っていた。まさか自分が身をもって体験するだなんて思ってもみなかった。


「なあに? 穴が開きそうよ」

「いや、何も」


 変なのと、野村は口元を隠してくすくすと笑った。


「私、中原くんの後ろの席なのよ」


 本の返却が終わっても、野村はカウンターの前を陣取っている。少し話してみると、想像よりずっと口数の多い人だった。しかし全くうるさいと感じることもなく、中原まで乗せられて会話が弾む。ところで野村さんはどの辺に座ってるのと尋ねると、彼女はおかしそうに笑いながら先のセリフを言ったのだ。

 そんなに近くにいて、どうして気がつかなかったのか自分でもよく分からない。プリントを回す時、絶対に意識しているはずなのに。後ろの席にはよく人が集まるなと、無意識に自分とは違うと線引きしていたのかもしれない。


「中原くんは、クラブは入ってないの?」

「うん。運動もできないし、文化部も特にやりたいのがなかったから」


 中原は中学生の頃、幼馴染みの誘いで卓球部に所属していた。しかし彼とは高校が離れてしまい、その上試合で良い成績を残していたわけでもないので続ける気は毛頭なかった。入学直後に行われた「クラブ紹介」なるのもでは、実際に部員が前に出て「経験者も未経験者も歓迎します!」と前のめりに語っていたが、今となっては入らなくて良かったと思っている。あの雰囲気の中では、おとなしい中原はきっと長続きしなかっただろう。


「野村さんは、何かやってるの?」

「私は美術部よ。部長なの」

「え、部活中に抜け出してきてよかったの?」

「部活って言っても、一応集まりましょうってだけだから……」


 後輩達も全く来ないしと、野村は綺麗にアーチを描く眉を下げる。なんでも、十人弱いる部員のほとんどが幽霊部員なのだという。

 クラブ活動をしていましたと内申書に書きたい人が集まるのよと、野村はため息をついた。文化部で、しかも吹奏楽部のように人が集まらなければそういう売り出し方もある。部員が少なくなって同好会になってしまうと、活動費が生徒の実費になってしまうからだ。


 次に借りる本を探しに行くと本棚の向こうへ消えて行った野村の元へ、彼女が今日返却した本を持って中原が向かう。ひとさし指で本の背をなぞりながら吟味する野村の横へ並んで、中原は持っていた本を元あった場所へ収めた。もぐもぐと動く口に、ぽこりと浮き出た頬。時折カランと鳴る音は、おそらく飴だ。


「飲食禁止ですけど」


 中原が自分の左頬を突きながら冗談めかして言うと、見逃してと野村は笑った。


「どんな本を探してるの?」


 手伝おうかと言ってみても、本棚に夢中な彼女は曖昧に返事をするだけだ。


「たぶんこの辺りだと思うんだけど……あ、あったあった」


 弾んだ声で一冊取り出す。「この本探してたの」と中原に差し出されたのは、この頃よく目にするタイトルだ。この冬に実写映画が公開されると話題の映画と同じもの。かなり人気作らしく、都会の書店では売り切れていることもあるんだとか、今朝見たニュースでやっていた。

 そういえば野村が先週借りていた作品も、最近話題のドラマの原作だった。意外とミーハーなところがあるんだなと、満足げな顔の野村を見て思う。


「これ最近よく見るね。面白いの?」

「さあ。まだ読んでないもの」

「ああ、そっか」

「でも面白いんですって。杏奈あんなが言ってたわ」

「杏奈?」

小谷こたに杏奈よ。知らない? 同じクラスだけど」


 人のこと覚えるの苦手なんだよね。そう中原が言うと、野村はおかしそうに笑って付け加えた。


「一年生から同じクラスで、いつも一緒にいる子なの」


 野村さんの周りは人が多いからどの子か分からない。

 中原がそう零すと拗ねちゃった? と揶揄うように彼女は笑う。案外的を射ている気がするその言葉に、否定も肯定も出来ずにさあねととぼけた。


「何でも結婚を誓い合った矢先彼女が不治の病にかかって……みたいな、御涙頂戴な恋愛小説みたいよ」


 口に含んでいる飴玉のせいで、話しにくそうにしながら野村が言う。少し棘を感じる言い方だった。内容は知ってるんだねと中原が返すと、平然とした顔で「ネットで調べたの」と。野村の手元の本が「大感動」と帯が付けられ、本屋で山積みにされていたのを思い出した。


「何か書く物借りられる?」

「ああ、うん」


 二人は揃ってカウンターに戻る。そして野村に貸出カードへタイトルと日付けを記入してもらっていると、彼女が空中に何か書くような仕草で言う。そういえば今日はペン入れを出すのを忘れていた。

 カウンターの下から数本のペンが入っている細長い缶の箱を取り出す。一昨年だかの夏休みに沖縄に行ったという司書がお土産のクッキーが入っていたものだ。見事に日焼けした顔で「沖縄は暑いね」と笑う先生に、イルカのイラストが描かれた個包装を、中原は二つもらった。味は何の変哲もないバタークッキー。美味しいがそれ以上の感想は出てこない。いかにも「お土産」と言った味だった。缶の側面にはウミガメが泳ぎ、ハイビスカスが咲いている。


 野村はその中から書きやすいと人気なボールペンを選びタイトルを記していく。きちんと粒の揃ったお手本みたいな字だ。トメハネハライ。書道をしているような手元に、「将来は王羲之か橘逸勢だ!」と中原の書道を評価した父のことを思い出す。父は昔から酔うと大袈裟に中原や弟を褒めるのだ。無論父は書道の講師ではないし、彼が優れた技術を持っていたわけじゃない。小学生の中原が授業で書いた初めての書道作品を見て言っただけなのだ。

 ご機嫌に赤い顔で笑う父の顔を頭に浮かべながら、「書道やってるの?」と聞けば、小さい頃ねと野村は返す。


 今日何日だっけ。


 ペンを止めて小さく呟いた彼女が携帯の電源をつける。パッと明るくなった画面にアップで映る大きく口を開けてあくびをする猫に、中原は思わず「あ、猫」と声を出した。


「猫?」


 野村は少し悩んだように中原を見て、それから携帯の画面を彼に向けて首を傾げた。頷いて飼い猫なのかと尋ねると、彼女否定する。


「最近、近所に住み着いた野良猫なの。クロマメっていうのよ」

「野良なのに名前があるの?」

「まさか。私が名付けたのよ。黒いからクロマメ」


 安直な由来を語りながら手渡された貸出カードを見て、中原は感心してため息をつく。彼のミミズののたくったような字とは大違いである。


「中原くん、猫が好きなの?」

「好きでも嫌いでもないよ。どっちかというと犬派かな」

「飼ってたことある?」

「おばあちゃんの家で、昔」


 まだ幼稚園に通っていた頃、祖母の家にいたトイプードルは知らぬ間にいなくなっていた。そんな話をすれば、「そんなものよ」野村は言った。

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