スカートの裾に手を掛ける。

あめのちはれこ

1-01

 野村のむら冬華ふゆか、死んだらしいぜ。


 ヘラヘラと間抜けな顔で言った茶髪の彼に、中原なかはらは特に驚きもせずに「へえ」と返す。

 どこで誰に聞いたのか。どうせタチの悪い噂だろうと、特に相手にすることもなく、中原は松嶋まつしまの横をすり抜けて自分の席へ向かった。

 中原が教室へ入った瞬間に駆け寄ってきた松嶋がそれまで座っていたのだろう、温くなっている椅子がギシ、と音を立てる。ぐるぐるに巻いていたマフラーをやっと外してリュックサックを探れば、温かい感覚がした。登校中にコンビニで購入した250ミリリットルのホットの緑茶は、まだ冷めていないようだった。

 それをひと口飲みほっと落ち着くも、まだ中原から望む反応を得ていないのであろう松嶋は勢いよく肩を組んだ。


「なんだよ。驚かないのか?」


 それともあれか。驚きすぎて言葉が出ないとか?


 ギャハハ、と下品な声で松嶋が笑う。

 今この教室内で笑っているのは彼ひとりだけだというのに、お構いなし、と言った風だ。


 中原ははあ、と大袈裟にため息をついて、ひとり盛り上がっている彼を見上げる。同じように中原の方を向いた松嶋は、吊り目を緩ませてまた口を開く。


「理解できない中原くんにもう一回言ってやろうか? 野村冬華が、死んだんだよ」

「……ふうん」


 松嶋の意地の悪い顔に返す言葉はそれ以上に何もない。そもそもこんな、根拠もないたかがクラスメイトに聞いただけの噂話で、彼が彼女の生死を判断すると、本気で思っているのだろうか。


「ふうんってお前、驚かないのか?」

「別に」


 態度を崩さない中原に苛立ったのか、松嶋がつまんねえ奴と舌打ちをして去っていく。三年の、卒業間近のこの時期でも頑として黒染めしてこない茶髪が荒ぶっている。松嶋はそばにあった椅子をガンと蹴飛ばして教室を出て行った。

 松嶋がいなくなっても、敵が消えたわけではない。

 ヒソヒソと囁く声と、刺さる視線。本人達はバレていない気でいるのだろうが、案外自分に向けられる目や言葉は分かりやすいものだ。実はああやって、松嶋のように態度に出してぶつけてくれた方がよっぽどマシなのである。隠れてこそこそ、これが一番タチが悪いと、中原は思っている。彼はまた、ため息をついた。


 一等目につく場所にいた女子に視線を送る。クラスでは目立たない彼女達だけれど、噂話が好物のようで、何かにつけては盛り上がっている様子を度々見かけていた。

 その中のひとりと中原の視線がばっちりと合った。

 すると彼女は眼鏡の奥の目を丸く見開き、右に左に視線を迷わせた後俯いてしまう。その様子に気が付いたもうひとりが中原を見つけて軽く睨んだ。とんだ濡れ衣だ。ただ見返しただけなのに、そっちが勝手に引け目を感じただけだろうと、心の中では言い返すが声には出さなかった。

 またひとつ、はあと息を吐き出して気を鎮める。

 彼は最近ため息をつくことが多くなった。ほんの些細な他人の言動がひどく気になるのだ。学生にとって世界の全てであるこの箱は、あまりに小さく幼稚だ。そんな場所で飄々と、美しく微笑んでいた彼女はもういない。それどころか死んだだなんて言われている。


 ブブ……と、机に放り出していた中原の携帯がメッセージの着信を知らせて震えた。ロック画面に久々に見た名前に彼は一瞬驚き、それでも迷うことなく立ち上がる。

 勢いがつき過ぎたせいで思ったより大きな音が鳴って、再び視線が集まるがそんなもの気にしていられない。マフラーと、250ミリリットルのペットボトルを手に教室を抜け出した。


 暖房の効いていた教室との温度差に身震いする。まだダウンを脱いでいなくて良かったと、心の底から思う。きっと今から向かう場所はもっともっと冷えているから。

 人の波を縫って、人気のない東側の階段に行き着く。

 一年の教室がある四階も通り越して、一層寒く埃っぽい屋上へ続く階段を登る。一歩一歩、スリッパのパタンという音が反響している。


 本来なら立ち入り禁止のはずの屋上。初めて中原をここに呼んだのも、今しがたメッセージで呼び出した彼だった。錆びついたノブを捻ると嫌な音がする。


 この先にいる彼は、もうあの噂を聞いたのだろうか。


 音に反応して向けられた顔は相変わらず中原を見てもにこりともしない。


「おはよ」


 久しぶり、と言うには親しくもない。中原は頷くだけで返した彼の近くへ寄った。

 フェンスにもたれかかって煙を吐く彼は何を見ているのだろうか。隣に並んで覗き込んだが、登校中の生徒がガヤガヤといるだけで特段気になることはなかった。


「あ、そうだ。あけましておめでとう」

「……俺、喪中なんだよ。じいちゃん死んだんだ」

「そうなんだ。じゃあ、今年もよろしく」

「……もう会うことないだろ」


 顔に当たる風は冗談みたいに冷たい。鼻の頭が冷えているのが触らずとも分かる。

 吐き出したい気が真っ白で、彼の煙とは質が違うけれど同じに見える。中原は風下に立ってしまったせいで咽せたので座り込んで、少しでも副流煙を躱そうと試みた。


「あんまり端にいると下から見えるよ」

「ん」


 聞いているのかいないのか、その場から少しも動かない。彼の足元に乱雑に放られているリュックサックが自立できずにぺしゃんと潰れている。丸まって転がっている手袋。見上げた煙草を持つ右手が赤く悴んでいた。


半田はんだくん、今日は早いんだね」

「たまたまな」

「遅刻常習犯なのに。珍しいね」


 軽口に一言二言何か返ってくれば、彼の機嫌も量れると思った。しかし何も言わない半田に、中原は詮索を諦めて携帯を取り出す。そして彼とのトーク画面を開くことなく、「屋上」と一単語だけで送られてきたメッセージを通知欄から削除した。


 屋上は、枯れた茎が刺さった植木鉢が並べられているだけで、最後に来た時とどこも変わらない。半田からの呼び出しはめっきりなくなってしまったので、彼とはもう、この場所で会うことはないと思っていた。本来、中原と半田は交わるはずのない人種なのだ。

 なぜまだ彼がここにいて、わざわざ呼び出したのか、中原は考える。もしかすると半田は度々ここへ足を運んでいたのかもしれない。中原が初めて半田を見たのは、ちょうどさっきの埃っぽい階段を半田が降りてくるところだった。ここが居場所だったのかもしれないと、彼が吐く煙をぼんやり眺めて思う。

 居場所といえば、僕が隠れ家のように使っていた図書室も、めっきり行かなくなってしまった。騒々しい校内で唯一静かで、且つ茶髪のクラスメイトの手の届かない場所だったので気に入っていたのだが。


「……いい天気だね」


 フェンスに背中を預けて見上げた空は、いっそ気分が悪くなるくらい真っ青で、雲なんて見当たらない。

 何にも遮られず、太陽が真っ直ぐに中原を見つめている。

 大きく羽を広げて頭上を横切ったカラスがカァと鳴く。

 登校時間の喧騒が遠く聞こえて世界から隔絶されたみたいだ。


 なんて気持ちのいい日だろう。


 吹き抜ける風は冷たいし、けたたましくチャイムが始業の五分前を知らせている。けれども僕は、今日はもうここにいようと決め込んだ。


「お前もサボり?」

「ううん。休憩」


 中原を見下ろして言った半田にそう返し、ずっと左手に握っていただけのマフラーを膝に掛けて楽な姿勢を探す。

 しばらくモゾモゾ動いた後にようやく落ち着いて、再びフェンスを背もたれにした。若干肩甲骨に当たるのが気になるがそのうち慣れるだろう。

 静かにカシャン……と鳴った音に、半田が少し笑った。

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