1-09

 雨続きの毎日でも学校は行かなければならない。今朝は雷が鳴るほど雨が酷くて、低気圧に弱いという野村は二限の終わりから保健室に篭っていた。小谷は他のクラスメイトと談笑していたけれど、どこか元気がないように見える。先ほど中原がトイレに立つと近寄ってきて、「冬華心配だね」と眉を下げていた。献身的な小谷は野村の分の板書もとって、授業中は一度たりとも休むことなく手を動かしている。


 中原も今日はあまり体調が優れない。


 きっと三、四限通して行われている現文のグループワークのせいだ。

 川野先生の余計な気遣いのせいで、席順でなくせっかくだからとくじ引きで分けることになり、中原は運悪く松嶋と同じグループになってしまったのだ。となれば、司会も書記も発表も中原の役目だ。話し合うはずが意見を出すのは彼ひとりで、グループには四人いて誰も協力してくれない。


「それで昨日、栗原くりはらが……」


 何それーと笑う女子の高い声に自慢気な松嶋の声。窓に当たる雨の音。コソコソと先生にバレないように雑談をする声と隣のクラスの笑い声。

 雨の日の教室は普段と違った独特の空気がある。


「じゃあ次のグループ。発表お願いします」


 四限の発表の時間にはすっかり気分が悪くなっていた。それでも先生の急かす声と、目も前に座る松嶋の「中原くん呼ばれてるよー」と足先で小突かれる感覚に中原はフラフラと立ち上がって、苦しくなってきた。声が出ない。


 やば。


 やけにはっきりと聞こえた呟きに松嶋の方を見る。中原を見上げる彼の口元が、ニヤリと弧を描いた。

 するとプリントの文字がグニャグニャに曲がって、自分の字もよく分からなくなってくる。クラス中の全員に笑われているような気がして、騒めきが大きくなってきて耳鳴りがして……気がつくと、中原は保健室の前に立っていた。


 三年目にしてすっかり顔見知りの養護教諭は、中原を見るとすぐに理解したようで、何も聞かずに迎え入れてくれた。「隣、寝てるから静かにね」とカーテンを閉めて、それっきり何も言わなかった。ベッドの足下にきちんと並ぶ緑色のスリッパから察するに、隣で寝ているのは野村である。しかし閉め切られたカーテンに何も言わず、中原は仰向けに寝転がった。


 目を閉じれば思い出されるのは、黙ったままの中原を見つめる松嶋をはじめクラスメイトの目。みんなが自分を嘲っているように感じたのは、勘違いか被害妄想か。実際のところ、彼らの気持ちを知ることは中原には出来ないので分からずじまいだが、それならあの場でどうすればよかったのか。

 しばらく寝付けず、隣のベッドに背を向けると、誰かが保健室に入ってきた。「当番遅れてすみませんー」と元気な声。体育の女性教師だ。ギシっと椅子が軋む音がするとそのまま二人は雑談を始める。誰のことかは分からないが、愚痴のようなものだった。


 この間こんな生徒がいて腹が立って仕方なかった。〇〇高校の先生がこんなことを言って教頭と揉めてるらしい。話のレベルは生徒と何も変わらない。尖った言葉が飛び交っている。


「そういえば、あんなにピアスを開ける子ってなんなんでしょうね?」

「承認欲求が激しいんじゃないですか? みんな驚いて話しかけてくるでしょう」

「ああ、なるほど。絶対後悔するのに、馬鹿ですねえ」


 生徒がいる室内で、こんなに大声で話すのはいかがなものか。せっかく、休みに来たのに、これじゃ教室と変わらない。また気分が悪くなってきて、強く目を瞑り両手で耳を塞いでやり過ごした。


「中原くん」


 優しい声が降ってきて、中原はきつく閉じていた目を開く。ずっと耳に当てていた手を緩めて振り返ると、ベッドとベッドの間を仕切っていたカーテンが開かれ、座って背にもたれた野村が柔らかく微笑んでいる。


「野村さん、体調はどう?」

「私は平気よ。それよりも、何かあったの? もしかして、また松嶋くん?」

「半分、かな」


 中原も起き上がって返す。野村は苦々しく顔をしかめた。


「もう、今日はサボってしまいましょう。誰も文句を言う人はいないわ」

「でも、五限に小テストがあるよ。成績に入るからちゃんと受けておきたい」

「中原くんは進学希望だっけ」

「うん。指定校とれるかもって川野先生が言ってたから、頑張ってみようかなって。そういえば野村さんは?」

「私は、特に決めていないけど……絵を描いて生活できればいいなとは思ってるの。まあ、そのためにはコンクールに入賞するのが最低ラインなんだけど」


 絵が描けないのよねぇ、と野村は肩をすくめた。


 彼女と話したおかげで少し回復した中原は、昼休みに入ってから教室に戻った。野村は熱はないけれど、大事をとって早退した。教室の居心地は悪いが成績を落としてしまうわけにいかないのだ。意を決して教室へ入る。視線を感じるが無視が一番だ。

 中原が席へ着くと井口は振り返って、拳を握った手を差し出す。


「何?」

「飴。塩分は大事だぞ」


 掌に乗せられた三つの塩飴に、中原は温かい気持ちになった。

 急ぎ足で食事をとって英単語帳を開くと、食堂に行っていたという小谷が戻ってきて「大丈夫?」と声をかける。相変わらず、分かりやすく心配してくれている。


「大丈夫だよ、ありがとう」

「そっか。なら良かった。あんまり松嶋のことは気にしないほうがいいよ。あんな奴、中原くんみたいな子に偉そうなこと言える器じゃないんだから……あ、冬華は、平気そうだった? 私、購買に行ってたから会えなくて」

「顔色は良くなってたよ。でも今日はもう帰るって」


 そっか、良かった。


 明るくなった声に、野村がこんなにも大切に思われているのかと安心した。

 実は小谷と松嶋の件で野村が図書室に駆け込んできたあの日から、中原は彼女たちの関係が心配だった。野村の方が松嶋と小谷の関係を真剣に考えていて、一方通行な感情に二人の友情が崩れてしまったらと不安だったのだ。でもそれは中原が聞くべき領域の話じゃないから、と首は突っ込まないことにしていた。

 次の日何でも無かったような顔で登校してきた野村は、変わらない態度で小谷に接していた。そして昼休みには中原の机にコーヒーのペットボトルを置き、一日が終わる。六月最後の金曜日は相変わらずの雨空だった。


 ホームルームが長引いて掃除を押し付けられて、散々な目に遭い遅れて入った図書室には珍しく司書の先生がいた。カウンターの中で知らない男の先生と何やら話していて、中原に気がつくといつにも増してグルグルな頭を掻きながら近寄ってきた。


 何でもパソコンが起動しなくて、今日は貸し出しができそうもないのだと言う。


「急いで来てもらったところ申し訳ないけど、今日はアタシが当番しておくからさ。雨が強くなる前に帰んなね」


 早く早くと押し出され、パタンと扉が閉まる音を聞いて歩き出す。早く帰れるならラッキーだけれど、それならば知らせておかなければいけない人がいる。

 雨のせいで廊下で走り込みの練習をする陸上部の団体を避けて、階段を上る。四階の端まで足を運び、個性的な絵が飾ってある扉をノックした。


「はい」


 聞こえてきたのは男の人の声。美術部顧問の細井先生だ。

 やけに重い扉をゆっくり開けて、中原は顔だけ覗かせる。今日は白衣を着ていない細井が、「ああ、中原くん」とにっこりと笑った。どこか胡散臭さが抜けないが、嫌な感じはしない。


「こんな所までどうしたの?」

「野村さんいますか?」

「ああ、冬華ちゃんね。そこにいるよ」


 絵の具のついた筆で示された先、教室の隅っこの机に伏せた三つ編みのシルエットが見える。


「寝ちゃったんだよね」


 細井は困ったように眉を下げて笑う。

 昨日からの体調不良がまだ抜けてないみたいとの言葉に、なるほど頷いた。静かに眠る野村の背中には、絵の具で汚れた白衣がかけられている。迎えがくるまで仮眠中らしい。

 ふと、中原の後ろを通った女子生徒の笑い声が廊下に響いた。すると細井は扉から半分体を出して中を覗き見る中原に、室内へ入るよう促した。


「冬華ちゃんに用事?」

「用事というか、断りというか……」


 後ろで扉が勝手に閉まる。よく見るとドアの端に水の入った2リットルのペットボトルが吊り下げられている。手作りの自動ドアだ。通りで重たかったはずである。


「今日、野村さんが図書室に来ることになってたんですけど、パソコンが壊れてしまったみたいで先生が当番をしてくれることになったんです。だから、今日はあそこで絵は描けないよって言いに来たんです。でも、」


 その必要はなかったみたいですね。


 そう言って笑って見せれば細井は筆を置いて手招きする。なるべく音を立てないようにと静かに歩いて近づくと、彼は手を洗いに流しの方へ行ってしまった。

 細井が先程まで絵を描いていたキャンバスには、真っ白なワンピースを着た黒髪の女性がひとり、中央に描かれている。白と黒以外の色がないのに、ふっくらとした唇だけは真っ赤に弧を描いていた。下から見上げたような構図だが、彼女の後ろに遠く描かれているのは桜の木だ。色付けされていなくても分かる。中原は野村が描いていた桜の絵を思い出した。

 そして、花弁があちこちに舞っている。美しい絵。

 文句のつけようがないくらい綺麗だけれど、中央で微笑む彼女は、どう見たって野村である。


「綺麗でしょ」


 耳元で囁かれた声にびっくりして中原が肩を跳ねさせると、ごめんと笑った細井がすぐそばの椅子に腰掛ける。

 中原はその目の前に来るように言われて、おとなしくそこに座った。


「僕の自信作なんだ。やっと完成しそうだよ」

「これもコンクールに出すんですか?」

「まさか! コンクールはアンダー18って規定があるからね。これは僕の趣味」

「へえ……」


 初めて会った時に、こんなに綺麗な人、きっと会うのは人生で一度きりだと思ってね。だから描こうって決めたんだ。


 うっとりと目を細めてキャンバスを見つめる細井の眼差しはとてもとても優しい。自分で描いたこの絵に向こう側の、本物の彼女に見惚れている。


「中原くんは、冬華ちゃんのことが好き?」


 唐突に中原へ投げられた質問に、ドキリと心臓が跳ねる。好き、とはどのような感情のことを言うのだろう。


「そんなに深く捉えないでよ。フランクにいこう、フランクに。好きか、嫌いか。ただそれだけでいいんだから」


 生徒と恋バナするほど野暮じゃないよ。そう言って大きな声で笑う細井に、中原はすぐそばで眠る野村が起きてしまいやしないかと気にかかる。しかし「そんな簡単に起きないよ」と細井が言うので、中原は先の質問に答えようと頭を働かせた。


「好き、かは分からないけど、嫌いではないと思います。好ましくは思ってるっていうか……」

「はっきりしないねえ。アメリカだったら嫌われるよ」


 行ったことないけど、と付け加えて細井がひとりで笑う。少し面倒な人だと思った。中原はもしかしたら彼が苦手なのかもしれない。


「好きになるのは結構だけど、あんまり深入りはしない方が身のためだよ。冬華ちゃんは、昔から少し繊細なところがあると言うか、デリケートな子でね。愛情深いけど、そのせいで他人を傷つけることもあった。実際に冬華ちゃんが今の君みたいに大切にしていた子で、大きな秘密を抱えることなった子がいるんだよ」

「……半田くんですか?」

「なんだ、知ってるの」


 残念そうに笑って細井が言う、「君もそうなりたくないのなら離れた方がいい」。


「彼女は美しいよ。とんでもなく魅力的だ。でも深みに嵌っちゃいけない。綺麗なものにはトゲがあるんだよ。人魚に惑わされた船乗りみたいになる前に、逃げるが勝ちだよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る