第16話 嘘と暗号
「あ、あなたは一体……ここはどこなんです?」
ミルディアは緊張しながら机の後ろに座る男に声を掛けた。男はゆっくりと立ち上がり、ミルディアの前に歩いてくると微笑んで手を差し出す。
「初めまして。私はここの管理人、アドジャスター。まあこれは役職名みたいなものだがね。ここに来る前は
「白井?」
聞いたことのない名前のはずなのに、ミルディアはその響きに何故か懐かしさを感じた。戸惑いながらもアドジャスターが差し出した手を取り、握手をする。
「まだ来たばかりで記憶は戻らないかな?まあ焦ることはない。時間はいくらでもあるからね」
アドジャスターは椅子に戻り、机の上に置かれた古風な万年筆にインクを付けて何かを紙に書き始める。そして書き終えたその紙をミルディアの方へ差し出した。
「記憶が戻るきっかけになるだろう。見てごらん」
ミルディアは差し出された紙を恐る恐る受け取り、そこに書かれている文字に目を通した。
「
それを見た瞬間、ミルディアの頭にズキンとした痛みが走り、吐き気のような気持ちの悪さがこみ上げてきた。いくつもの光景が脳裏にフラッシュバックし、ミルディアは頭を抱えて獣のような叫び声を上げる。
「うわああああああああっ!!!」
「さあ始めよう。選ばれし者の使命を」
アドジャスターはそう言って、何も書かれていない白紙の本を取り出した。
*
リミステアに夜の帳が下りる。
王都への出立の準備を終えたグランツは沈んだ顔で子爵邸の自室の窓から街の明かりを見つめていた。
「叔父様、よろしいですか?」
ドアがノックされ、フローゼの震える声が聞こえる。グランツが返事をすると彼と同じく沈んだ顔をしたフローゼが入ってきた。
「お顔の色が優れませんな」
グランツはフローゼにソファを勧め、彼女の対面に座る。
「ミディの消息はまだ?」
フローゼの言葉にグランツは無言で頷く。
「アッシュに捜索の兵を出すよう指示はしました。立て続けにこのような事態となってしまい、フローゼ様にはご心配ばかりおかけする結果となってしまいました。愚息に代わりお詫びいたします」
「いえ、そのような。でもミディはもう無茶はしないと言っていました。それだけに余計心配で……」
「私も同じ過ちを犯すなと言ったばかりでした。あれは親の口から言うのもなんですが、それほど愚かな男だとは思いません。それゆえよほど切羽詰まった事態に巻き込まれたのやも、とは危惧しております」
「叔父様、出立を伸ばすことは出来ませんか?せめてミディの消息が分かるまで」
「それは無理ですな。オブライエン侯爵様のところに寄るとなれば明日の朝ここを出ねば王都の御前会議には間に合いません」
「ですが!」
「此度の招へい、どうも裏があるように思えてなりません。しかし行かねばどのようなことが起こるか……おそらく良くない結果になると感じるのです」
「私は残ります!ミディが見つかるまで」
「お気持ちはありがたいですが……」
その時再びドアがノックされた。グランツが返事をすると、執事長のカーライルがドアを開け、恭しく頭を下げる。
「グランツ様、騎士団の者がご報告があると申して参っております」
「騎士団兵が?分かった。謁見の間に通せ」
「もしかしてミディの消息が!?叔父様、私も一緒に行かせて下さい」
フローゼはグランツに付いて謁見の間に向かった。謁見の間はグランツが客人と会うための部屋で、かなりの広さがある。
「ご報告申し上げます。私はリミステア騎士団第二中隊所属、エリオットと申します」
エリオットと名乗った兵はグランツに敬礼をし、正面の椅子に座ったグランツの前に進み出る。
「ご苦労。報告を聞こう」
「はっ!先ほど村の駐屯兵より連絡があり、ミルディア様が見つかったとのことです!」
「本当ですか!?」
グランツの右隣のソファに座ったフローゼが身を乗り出して叫ぶ。
「で、ミルディアはどこに?」
「森の中で盗賊団と遭遇し、これを撃退したもののご自身も傷を負い、
「ケガを?重いのですか?」
フローゼが心配そうに尋ねる。
「詳しい状態は分かりませんが、ある程度深い傷を負われたとのことで。第三中隊のミレイ中隊長や協力していた獣人もかなり重いケガを負ったと」
「そんな……」
「村ではなく
「は、おそらくそちらの方が近かったためかと」
「あの辺りなら『黄昏の廃城』にも近かろう。傷が深いのならあそこに運んだ方がよかったのではないか?」
「『黄昏の廃城』!?あの『黒衣の魔女』がいるという場所ですか?あのような場所に行くなど命知らずというもの。とてもミルディア様をお連れする訳には……」
エリオットの言葉にグランツが目を細める。
「ミルディアは意識はあるのだな?」
「は、そう聞いております」
「そうか……」
グランツは隣の文机に手を伸ばすと、上に置かれたメモ用の紙にエリオットから見えないような角度でさらさらとペンを走らす。
「フローゼ様、お聞きのようにミルディアの安否が確かめられました。お疲れになったでしょう。もうお部屋でお休みください」
「いえ、私は……」
そう言いかけたフローゼにグランツは厳しい顔で今しがた書いたメモを渡す。
「ゼラス殿にお渡しください。侯爵様への土産の一覧です」
怪訝な顔をしてメモを受け取り、それに目を落としたフローゼの顔が一瞬強張る。しかしすぐに笑みを浮かべ、
「分かりました。では今日は休ませていただきます」
と言ってメモを懐にしまった。
「はい。そうそう、オリビア様によろしくお伝えください」
グランツのその言葉にフローゼが息を呑む。だが今度もすぐに笑顔に戻って、「はい、必ず」と答えた。
「お部屋に戻るならそちらのドアから出られた方が近いでしょう。どうぞごゆるりと」
「ありがとうございます、叔父様」
先ほど入ってきた正面のドアではなく、右手のドアを開けてフローゼは謁見の間を出て行った。グランツはそれを見届け、また文机の上でペンを走らす。
「エリオット、だったか。少し待っていてくれ。もう少し聞きたいことがある」
「はっ!」
エリオットを睨んでそう言ったグランツは傍らに控えた従者を呼び、今書いたメモを畳んで渡す。
「すぐにカーライルに渡せ。明日の朝食のリクエストだ。カーライルには『小海老のスープは辛口にしろ』と伝えよ。必ずな」
「かしこまりました」
従者は頭を下げ、フローゼが出て行ったのと同じドアから退出する。
「さて、エリオット。幾つか聞かせてもらいたい」
「何でしょう?」
「君は第二中隊所属と言っていたな」
「はい」
「アッシュから聞いた話ではこの件に携わっているのは第三中隊だということだが、第二中隊の君が報告に来たのは何故かね?」
「は、森の村に現在駐屯しているのが我が第二中隊ですので」
「駐屯兵もミルディアに随行していたのか?」
「は、はい」
「君は村にいたのではないかね?」
「おっしゃる通りです」
「するとミルディアに随行していた兵がまず村に伝令をし、それから君がここに報告に来た、ということでいいのかな?」
「そ、そういうことであります」
「なぜその兵は直接ここに来なかった?
「は、一応は対応できる者が……」
「しかし城に詰めている専門の魔法医の方が腕は上だ。王都にいる者ほどではないにせよ、だ。ここに直接向かいその魔法医の要請をするのが筋だと思うがどうかね?それで君は儂に報告する前に城へ行って魔法医の派遣を要請はしたのだろうな」
「そ、それは無論」
「誰に頼んだ?」
「は?」
「魔法医の派遣を頼んだ相手だよ。執事長のカーライルはこちらに来ている。対応できる者は限られていると思うが、誰に話をした?」
「そ、それは……城におられた執事の方で」
「どんな男だ?」
「え、ええ、髪が白く、口ひげを生やしておられたかと」
「マリスか」
「ああ!そうです、マリス殿とおっしゃってました」
「ほう、そうか。それは奇妙な話だな。マリスは母親の看病のため半月前から休暇を取っているのだがな」
グランツの言葉にエリオットの顔が青ざめる。獲物を追い詰める猛獣のような鋭い目つきで睨まれ、エリオットはしどろもどろで言い訳をする。
「ああ、き、聞き間違えだったかもしれません」
「カーライルとマリス以外、白髪の執事は今おらん」
「う……」
「もう下手な芝居はよせ。貴様が虚偽の報告をしていることは最初から分かっておった」
「な!?」
「騎士団であることは本当だろうが、後は全て出鱈目だな。いや、ミルディアが重傷ということだけは残念ながら本当かもしれんな。でなければ今まで連絡がないことが不自然だ」
「し、子爵様、わ、私は」
「誰の命だ?なぜわざわざ虚偽の報告をさせた?」
蛇に睨まれた蛙のようにエリオットは硬直し、ぶるぶると震える。と、その時正面のドアがいきなり開き、数人の男が謁見の間になだれ込んだ。
「勘が鋭いというのも厄介ですな。おとなしくこちらの言うことを信じていればよいものを」
「ノックもせずに乱入とはマナーがなっておらんな。そんなザマでは陛下がお嘆きになるぞ」
グランツは入ってきた男たちを睨みながら軽口をたたく。彼らは王国軍の制服を着ていた。
「ご機嫌麗しゅう、フォートクライン子爵。以前ご挨拶させていただきましたが改めまして。リミステア駐屯部隊の副官を務めておりますバーナード中尉と申します」
バーナードと名乗った男が慇懃に挨拶する。
「覚えておる。ジュダーの腰ぎんちゃくだな」
「これは手厳しい。万一を考え待機しておりましたが、やはりこのような知恵のないものでは子爵様を欺くことは出来ませんでしたな」
エリオットを冷たい目で睨み、バーナードが手を振る。エリオットはそそくさと部屋を出て行った。
「王国軍の兵がここまであっさりやって来ているということは騎士団の中に相当数の裏切り者がいる、ということか。儂としたことが不覚。穴があったら入りたいわ」
「ご要望とあれば穴を掘って差し上げますよ。それにあっさりという訳でもありません。ここに来るまでに抵抗する騎士団を数名斬り伏せねばなりませんでしたので」
「貴様……」
グランツがぎりっと歯がみし、バーナードを睨む。この屋敷の警護に付いている兵はアッシュ直轄の近衛部隊で腕の立つ者が揃っているはずだ。それを斬り伏せたということは王国軍はそれなりの人数で、しかもかなり本気でここに乗り込んできたことになる。
「子爵様が気付かれなければうちの手のものとすり替わって、そのまま王都へ出立していただくつもりだったのですが残念です」
「儂を予定通り王都へ向かわせたかったということか。道中で護衛の騎士団を裏切らせ、待ち伏せしていた王国軍と示しあわせて儂を討つ計画だったか」
ミルディアが消息不明のままではグランツが出立を延期、または中止してしまう恐れがある。だからケガでここには来れないが安否は確認されたという虚偽の報告をさせたのだ。
「本当に聡明でらっしゃる。しかしそれ故にあなた様の存在は邪魔なのですよ。我等の目的のためにはね」
「目的?」
「ご同行いただきましょう。少々窮屈な思いをしていただくかとは思いますが、しばらくのご辛抱です」
王国軍の兵がグランツに剣を向け、立ち上がるように促す。グランツは兵たちをぎろりと睨み、ゆっくりと立ち上がる。その迫力に脅しているはずの兵の方がたじろぎ、数歩後ずさる。
『多少の時間は稼げたか。無事に逃げてくれよ、フローゼ』
グランツは心の中で呟き、バーナードに催促されて謁見の間を出た。
「どういうことですお嬢様?このような時間に荷物をまとめよとは」
フローゼの執事ゼラスが困惑しながら言う。フローゼは自分のカバンに私物を詰め込みながら、黙ってグランツに渡されたメモを見せる。
「これは!」
ゼラスが目を見張って叫ぶ。そこには
『危険が迫っている。すぐに最小限の荷物をまとめ侯爵領へ戻れ。カーライルが案内する』
と走り書きで書かれていた。
「どういうことです?これは」
「見ての通りよ。おそらくさっき報告に来た騎士団は嘘を言っているということ。騎士団に裏切り者が一定数いるんだわ」
「しかしこのような夜半に町を出るなど危険です」
「ここにいる方がもっと危険なのよ。叔父様はこう言ったわ。『オリビア様によろしく』、と」
「オリビア様?しかし……」
「ええ。お母様は数年前に亡くなった。それを叔父様が知らないわけはない。つまり異常事態が発生しているという暗喩よ」
フローゼが手早く必要最小限の私物をカバンに詰め終えたとき、ドアがノックされた。緊張して息を呑むフローゼの耳に
「執事長のカーライルでございます」
と言う声が聞こえる。ほっとしてドアを開けるとカーライルが険しい顔で立っていた。
「準備は整われましたか?フローゼ様」
「ええ。すぐ出れるわ」
「フローゼ様の護衛の方にはもうお知らせしてあります。私に付いてきてください」
カーライルは無駄のない動きで辺りの安全を確かめつつ、二人を誘導する。しばらく進むと廊下の壁に手を当て、壁紙の一部をスライドさせる。するとそのその下に鍵穴が姿を現し、カーライルは懐から出した鍵をそこに差し込んだ。
「こんなところに……」
ガチャリと音がして、壁の一部が奥に開く。その先に隠し通路が伸びていた。
「
カーライルがそう唱えると、隠し通路に等間隔に配置された魔法球が光を放つ。魔力に反応する仕組みだ。
「護衛の方はすでに別の通路を通ってお待ちになっています。お早く」
フローゼとゼラスはカーライルに付いて隠し通路を進む。ゼラスは同じ執事としてカーライルの迅速な対応に感心した。しばらく進むと通路が行き止まりとなり、突き当りの壁を押すと、広い厩舎のような場所に出た。緊急時に備え脱出用の馬車や馬を待機させている秘密の場所だ。
「フローゼ様!」
フローゼの姿を見て侯爵家の兵数名が駆け寄ってくる。オブライエン家の城があるドリアルからフローゼの護衛をしてリミステアに来た侯爵家直属の騎士団である。
「ご無事で何よりです。しかし一体何が起きたのですか?」
「叔父……フォートクライン子爵様の騎士団が謀反を企んだものと思われます。子爵様の機転で逃がしてもらいました」
「謀反ですと?」
「お恥ずかしい話です」
そう言って近づいてきたのは子爵家騎士団の副団長、リカーである。アッシュの右腕であり、子爵を守る近衛部隊の隊長でもある。
「オブライエン侯爵様のご令嬢がご滞在中にこのような失態を犯すとは痛恨の極み。心よりお詫び申し上げます」
「いえ、そのような」
「敵は騎士団の裏切り者だけではありません。先ほどここに攻め入ってきたのは王国軍でした」
「王国軍ですって?まさか……」
「事態の全容は測りかねますが、このリミステアに異常事態が起きていることは確か。城にも敵の手が伸びているやもしれません。一刻も早くここを出られて侯爵様の元にお戻りを。僅かばかりですが私の部下も護衛につけさせていただきます」
「そんな!このような時に貴重な兵をお借りするなど」
「フローゼ様たちを無事にお帰しするのが子爵様の厳命なれば、ご遠慮は無用です」
リカーの言葉にカーライルが頷く。グランツが従者を通じてカーライルに伝えた言葉、「小海老のスープは辛口にしろ」とはカーライルやアッシュなどグランツが信頼するごく限られた者だけに共有させている暗号で、緊急事態のため最速で行動せよ、という意味だ。グランツは従者に渡した二枚目のメモに「フローゼ、脱出、警護」と書いた。それだけでカーライルは指示の内容を完璧に理解したのだ。
「ここから人目に付かない裏門を通って屋敷の外に出られます。今、部下が外の様子を確認していますので」
リカーがそういうのとほぼ同時に部下が走ってやって来る。
「隊長、裏門には敵の姿はありません」
「よし、クラン、ビッシュ、ボーン、侯爵様の騎士団の方と共にフローゼ様の護衛に付け。隣町まで確実にお送りせよ」
「「「はっ!」」」
リカーの部下三名が敬礼をして声を合わせる。
「高級な馬車がご用意できず申し訳ありませんが、頑丈さには自信があります。さ、お早く」
「ありがとう、リカー」
フローゼは礼を言い、ゼラスと共に用意された馬車に乗り込む。侯爵家の騎士団にも馬が与えられ、リカーの部下もそれに続いて騎乗した。
「町中がどうなっているか分からん。危険を避けつつ最短で町を抜けろ。俺たちが陽動する」
リカーの言葉に部下たちが頷く。厩舎の門が開かれ、護衛の騎士と馬車が走り出す。
『ミディ、無事でいて』
夜の街を疾走する馬車の中で、フローゼはミルディアの身を案じ、その無事を祈った。
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