ただモテたいだけ
擬木真作
※※※
嘘みたいな話に聞こえるかもしれないが、僕が中学一年生の頃、同級生の女の子が地下アイドルをやっていた。それも、地元ではなく東京、日本が誇るサブカルチャーの聖地秋葉原でだ。(ここでは明言を避け、地元は関東圏とだけ言っておく)。名前は茂野ゆみか―むろん、仮名―。通っていた小学校は別であるからして、恋に、あるいは時として性に手を伸ばしたくなる年頃に出会ったというわけだ。直接聞いた話によると、なんでも地下アイドルをはじめたのは(僕の記憶では)小学六年生かららしい。活動開始から一年程度。本人はその活動を同級生たちに隠しておくつもりだったようで、自分から打ち明けるようなことはしなかった。(気持ちは理解できる。当時の中学一年生―とりわけ男子―は、部活とかポルノサイトとか噂話で頭がいっぱいだった。あまつさえ、アイドルをやっているなんて情報をもらせば、ライオンの檻にうさぎを放るようなものだ)僕がそれを知ったのも人伝てで、ほとんど事故的なものだった。単純なことだ。茂野ゆみかと同じ小学校に通っていた同級生が口を滑らせたのである。詳しくは後ほど。
僕が茂野ゆみかと出会ったのは入学式の日。その日は快晴でも雨でもなく、なんともいえない鈍色の雲が空に貼りついていた。小学校のときの同級生たちと、昇降口に出されたクラス分けの表を見て、別クラスになった友だちとは廊下で別れ、自分の属するクラスに行く。そこにはもう、他校出身の生徒たちがたくさんいて、見知らぬ顔ばかりが並んだ光景に心臓がひと回り大きく鼓動を打った。(僕の小学校は全校児童六〇人ほどの小さな学校で、一クラス―言うにおよばず一学年一クラス―に十五人くらいしかいなかった。比べて中学一年生のときは六クラスもあったし、一クラスにだいたい四〇人もの生徒が所せましと座っていた)。教室の密度も、机の数も段違い。あまりの人数に僕は面食らった。筋肉が凍りついてしまったかのような足取りで自分の席に着き、なにをするわけでもなくじっとする。隣席の男子生徒やクラスの面々も緊張しているようで、幸いなことにあえて大声で周りに話しかけるような奇をてらったやつはいなかった。入学式はこのあとからだ。それまでの間、僕らはこうして重たい空気を吸い、吐かなければならない。なんとも酷い仕打ちだ。いっそのことゴールデンタイムに放送されるようなバラエティ番組でも流してはもらえないだろうか。
廊下に面した二枚のドアは全開にされているものの、窓は締め切られていて換気は望めない。籠もった空気だけが閉塞的に循環する。このときばかりは、なんの脈絡もなく、また担任教師の許可も得ずに、奇をてらった誰かが窓を開けてくれないかと思った。
同じクラスに配された顔見知りは三人。男子二人、女子一人だ。両方ひとりずつ姿を見つけたが、あとのひとりが見当たらない。きっと後ろの席にいるのだろうと思い、―他にやることもないので―何の気なしにそっと振り返ると、茂野ゆみかがいた。このときの僕が彼女のアイドル活動について知りえていれば、なるほどな、と妙な納得感を抱いたことだろう。肌は乳白色、瞳はやや茶色かかっていて、二本に束ねられた後ろ髪は肩の向こうに落とされていた。座高は低く、隣に座る生徒との対比でそう見えているだけかもしれないが(実際に低かった)身長は百四〇cmほど。ほんの一瞬目が合ったような気がして、僕は弾かれたように顔をもどした。誰がどう見ても―嫉妬深い人々は除く―かわいいと思うような、いわゆるリア充に分類されるであろう顔だった。
僕は一目惚れをした。と、言うつもりはない。斜に構えているわけでも、照れているわけでも、また奇をてらっているわけでもない。僕は瞭然と悲惨なまでに恋なんて自覚しなかった。あるいは恋とやらを自覚していれば、少なくともこうはならなかったのかもしれない。
入学式から数日が経ち、僕はサッカー部に入部することにした。本音からすると部活なんて疲れるだけだし入りたくはなかったけれど、父親に言いつけられてどうしようもなかった。(今でこそ父との関係は良好だが、当時は怖くて仕方がなかった)小学四年生からの約三年間、近くのサッカー少年団に所属していたこともあってサッカー部に入部したのだが、断言してその選択は間違いだった。よりにもよって当校のサッカー部は真面目かつ貪欲に全国優勝を目指している―戦績はそこまでではない―スパルタ集団だったのである。速やかに退部届を提出するわけにもいかず、僕はほぼ毎日の放課後と休日を返上して練習に明け暮れることになった。
一方、教室では変化が差した。一度の席替えを挟み、二度目の席替えで、僕の席の真後ろに茂野ゆみかがきた。それまではろくに話したこともなかったけれど、間近で見てもやはり僕はかわいいと思った。
最初の会話はなんだっただろうか…。確か、何時限目かの授業終わり。僕は身をよじって茂野ゆみかの机の上を見た。そこには少年漫画誌に掲載されているスポーツ漫画の登場人物四人が描かれた下敷きが置かれていた。
「その漫画、好きなの?」おずおずと僕は尋ねた。
「うん。知ってる?」平坦な声だった。電話越しに自社のネット回線を勧めるような。
「名前だけ聞いたことはある」僕は答えた。
いや、待て。僕からではなかったような気もする。彼女のほうから、下敷きに描かれた四人の中で誰が最もイケメンかを僕に聞いたことが初めての真面な会話だったかもしれない。僕は(自信はないが)右下のキャラクターを指した。どうやら彼女も同意見だったらしく、色素の薄い唇を開いて「だよね」と同調してみせた。茂野ゆみかはアニメやサブカルチャーが好きな女子だった。その下敷きの作品は、原作漫画からではなくアニメから知ったらしい。消しゴムは謎の生き物―女の子がいかにも好きそうな二頭身のキャラクター―がケースに描かれたものを使っていたし、口を開けば「○○くん、かっこいいよね」と画面の向こう側に想いを馳せていた。
国語か社会の授業でのこと。四人一組でグループをつくり、机の向きを変えて、茂野ゆみかと隣り合ったとき、彼女のアイドル活動を対面に座る男子生徒―普段は隣席―から聞いた。思い返すとその頃から、僕はある意味、彼女を『意識』していたのかもしれない。事あるごとに僕は茂野ゆみかに「チビ」だの「バカ」だのと言い、からかっていた。思春期特有の、男子が気になる女子に対してとってしまう言動だ。当の茂野ゆみかは「ほんと止めてほしい」と言いながらも内輪のノリとして処理してくれていたが、ふとしたときに思い出すと恥ずかしくて堪らなくなる。
心のどこかに茂野ゆみかは自分のことが好きなのでは、という願望に近い推測もあった。事実、そうだった。夏休み期間、蝉はミーンミーンとかジリジリジリとか色んな鳴き声を響かせ、正門前のアスファルトには陽炎が立っていた日。体育祭の準備で教室を訪れた僕は、帰り際になり、生徒玄関の前で茂野ゆみかに告白された。どうしてその場所、その日、そのタイミングを選んだのかはわからない。あるいは、それは衝動的に、友人と別れるとき「じゃあね」と口を衝いて出てしまうように、ただ口からこぼれただけかもしれない。考察するような深い意味はないのかもしれない。しかし、頭では無意味だと断じていても、鼓膜はあのときの声を、告白を再生してしまう。かすかに震え、甘すぎず、塩すぎず、純粋な恋だけを包んだ上品な一言。
「あなたのことが好き」瞳は潤んでいるようにも見えた。それもそのはずだ、心のこもった告白には勇気が要るのだから。
しかし、僕は直後に返事をできなかった。「はい」か「いいえ」を選択し、口にすればいいだけなのに。たったそれだけのことで、僕は逡巡し、目を逸らし、「答えは待ってくれ」と言い残して去ってしまった。なにも心地よい熱にあてられて二枚目を気取ってしまったわけではない。自信を持てなかったのだ。彼女に対する自分の『意識』が本当に恋なのかどうか。…ああ、違う。実際は分かっていた。認めたくなかっただけだ。
僕は生まれてから一度も恋なんて経験したことはない。
小学六年生から中学一年生(夏ごろ)までの間に、僕は四回ほど告白されたことがある。いずれも相手から。自分から誰かに好きだと伝えたことはない。手前味噌になるが、顔はそこそこ良いほうだったし、身長は十代前半の平均身長を超えていた。足だって早かったし、男女分け隔てなく話すことだって出来た。小学六年生のときにされた一度の告白で、僕は自分の魅力に気づいた。そのせいか、僕はしばしば悪い癖を起こすことがあった。ナンパをするとか、格好つける、などといった表立ったものではなく、相手を『意識』するのだ。心の内でそっと、蝋燭に火を灯すように。
意識とは内面的なことであり、あくまで僕の身体の中だけで完結することである。ただ、頭に相手を思いうかべるだけ。好きになってもらえないかな、と願いながら。そうすると不思議なことに、脂汗に似た見えない何かが頭から染みだしてくる。顔からも、胴体からも、四肢からも。全身のあらゆる毛穴から噴き出たそれが、液体を冷やせば固体化するように、外気に触れて一本の線となり、『意識』に留められた相手と僕を繋げるのだ。現在の自分にもまだ魅力はある、と豪語するのは憚られるが、少なくとも当時の僕はそんな男だった。
僕の意識はほとんど無意識に発せられることのほうが多かった。生物が呼吸をするように。だから意識を自覚したときに自分は相手を好意的に思っているのだと気づくし、気づいたときにはもう意識しているのである。いうなれば、好みのタイプだから好きなのではなくて、好きだから好みのタイプなのだ。そうすると必然的に好みのタイプにずれが生じる場合もあるし、実際、告白してくれた女子四人はそれぞれ外見も性格も全く違う。最初と最後の彼女たちに至っては真逆と言っても差し支えないだろう。(最初に告白してくれた女子―小学六年生―は一週間のうちに髪型が被らないように気を使い、ファッションに興味を示していたが、最後に告白してくれた女子―茂野ゆみか―はだいたい同じ髪型だったし、前述した通りサブカルチャーに心酔していた)
しかしながら、四度の告白を受け取ったところで僕は一つとして決定的な答えを返していない。「はい」と答えれば、その先が億劫だと感じるし、かといって「いいえ」と答えるのも気が進まないからだ。蛙化現象なんて言葉があるが、そういった類のものではない。相手への『意識』はある。仄かな熱を帯びている。だが、そこには成就したときに擡頭するはずの喜びや高揚感は全く以ってなかった。多少の動悸はあったにせよ、それは部活でひとっ走りしたあとような感覚だった。
先に進みたいわけでも別の道に逸れたいわけでもない。現状維持。彼女たちは僕に対する好意を抱いたままでいてほしい。そう考えると、僕は第三の選択をしていたともいえる。「はい」でも「いいえ」でもなく、僕はその境界線上にある願望を力強く握っていたのだ。
手を繋ぐことも、おっぱいを触ることも(性欲がないわけではない)、僕にとっては二の次だった。優先されてしまうのはいつだって、どっちつかずの選択肢だった。だからきっと、僕にとって個人はそこまで重要ではないのだと思う。根幹をなしているのは相手ではなくて、自分自身なのだから。僕は生まれてから一度も恋なんて経験したことがない。それは恐らく、恋でも、性欲でもなくて、もっと野性的な出口のない本能が他を食いつくしてしまうからだろう。承認欲求をこじらせた矮小な男のバカみたいな自意識。
ただモテたいだけ。満たされないと理解していても身体が勝手に動いてしまう。まるで糸に吊られた傀儡のように。あるいは、自分の身体から伸びた糸が僕自身に絡みついているのかもしれない。
結局のところ、茂野ゆみかに返事をする日はこなかった。夏休みを機に、僕が不登校になってしまったからである。(部活での無理が祟ったのだ)それからは一度も会えていない。もはや彼女は僕のことなど忘れているだろうが、それでも茂野ゆみかが内面を掘り下げるきっかけを与えてくれたことは事実だ。この場を借りて彼女に感謝を捧げるとともに、充実した日々を過ごしていることを祈る。
そしていつか、数奇な縁でまた彼女と巡り会えたならば、僕はなんと言えるのだろう。
答えは未だ見つかっていない。空欄のテストが目の前に置かれているように。
ただモテたいだけ 擬木真作 @modoki0301
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