悲しい口論
リュックからもうメモノートを取り出して、眺める。すっかり不要なものとなってしまったね。
自嘲的な笑みが浮かぶ。
大川さんたちは班行動する気で来ていなかった。
考えもしなかったな、その選択肢は。
僕は基本的にルールは守る人間だ。仮に思いついていてもそういう手段は選べなかっただろう。
問題なのは、弥一の班の事情は知っていたのに気づきもしなかったことだ。大川さん菅野さんが舞元さんと、千日紅さんが吉園さんと回れば仲良し同士で回ることができて楽しめる、ということに。
僕は班のためになることをしているつもりで、大川さんのほうがより気を配っていた。優しい提案だ――僕に突きつけられた。
力が全身から抜けていく。手に持っていたはずのメモノートが地面にはねた。
浮かれてたな。みんなに楽しんでもらうだなんて。張り切って失敗する、何とも僕らしいね。
さて、どうしようか。
大川さんは弥一たちと一緒に回ればと言ってくれたけど、ちょっとそういう気分ではない。
「柿原くん」
後ろから名前を呼ばれてはっとする。
振り向くと、千日紅さんが不安そうな表情を浮かべて立っていた。
「……千日紅さん」
「どうする?」
訊かれて、目を伏せた。どうすると言われても。
瞼を閉じ、千日紅さんと吉園さんが笑い合う姿を思い出す。より楽しめるのは……。
笑顔で言った。
「大川さんの言う通り、吉園さんと回るといいよ」
待った。古伊川で吉園さんの姿を見かけた覚えがない。
「吉園さん、今日来てるかな」
心配になったが、千日紅さんはこくりと頷いた。
「そっか。よかった。まだ川のところにいるかな。吉園さんも千日紅さんと回りたがってると思う」
笑顔を作った。
「楽しんできて」
そばに細い路地があるのでそっちに折れる。どこへ行こうというわけではないけど、その場から離れようとした。
とにかくひとりになりたかった。
「待って」
手首を掴まれ、引き留められた。驚いて振り返る。
「柿原くんは、どうするの」
真正面からそう問われる。
隠した心の内まで見通すかのような黒い瞳を向けられて、思わず視線を逸らす。
「僕は」
嘘を言おうとした。
僕も弥一たちと一緒に回ると。千日紅さんが吉園さんと回ることに何の憂いも持たせないように。後ろめたく思わないように。
せっかくの校外学習なんだ、楽しい時間を過ごしてほしい。吉園さんとなら、親しい友達と一緒なら、千日紅さんも楽しい時間を過ごせるに違いない。
だから笑って、僕も友達と回ると言わないと。
声を、振り絞る。
「…………ひとりで回るよ」
言ってしまった。
そんなふうに言われたら彼女は立ち去りづらくなるだろうとわかっていながら、僕は強がりを隠せなかった。
手首に、引き留めてくれた彼女の手の感触が残っていて、消えなくて、離れなくて。そこだけほのかに温かく思えた。その温かさに、縋りたかった。
千日紅さんは首を振り、かがんで僕の落とした小さなメモノートを拾った。じっと見つめ、口を開く。
「柿原くん、何か考えてくれていたのよね。わたしたちのために」
心臓が脈打つ。
ノートは開かれていない。なぜそうわかるんだ。計画のことは何も話していないのに。
「どうして……?」
少し声が震えた。
千日紅さんはゆっくりと答える。
「あの班で話す時間、柿原くんはみんなの希望を訊いていた。当日の回り方を決めるために。でも結局どうするかは不透明なままだった」
打ち合わせのとき、無関心そうに見えてしっかり話は聞いていたんだ。
「柿原くんなら、班のみんなを楽しませようと何か考えてるんじゃないかって思ってた。班長としての責任感、強いでしょう?」
「……」
責任感が強いと言われるほどではない。計画を考えていたことにしても、班長としての使命感なんてつもりは実際ほとんどなく、楽しませようと考えることが楽しかっただけだ。
「図書室でのことも。調べごとがあったって言ってたよね。そして観光ガイドのある書架に目を向けていた」
あのとき、千日紅さんの前の棚に観光の本が見つかった。
「図書室に行っていた目的は、河辺町のことを調べることだったんじゃないかしら」
本当に、聡明だ。
メモノートを手渡される。
「そこに、書いていたの?」
頷く。
「……悲しいよね」
目の奥が熱くなる。
一人で勝手に立てた計画だ。水の泡になったことも一人で受け止めるしかなかった。
それなのに、こんなふうに気持ちを汲んでもらえるなんて。
千日紅さんは胸の前でぎゅっと拳を握り低い声で、
「ごめんなさい」
「えっ」
困惑する。
「どうして千日紅さんが謝るの?」
「わたしがいたから、一緒に回りたくないって思わせた」
千日紅さんは手で自分を示しながら言った。
「大川さんたちに?」
そんなふうに思ってしまったのか。
「いやいや、そんなことないよ」
手を左右に振って否定する。
「わたし、打ち合わせ参加しなかった。話そうとしなかった」
千日紅さんは暗い声でそう言う。
「ううん、大川さんは千日紅さんを気遣って仲の良い吉園さんと一緒のほうがいいと考えたんだ」
「大川さんから昼食の誘いを受けて断ったこともある」
そんなことが。
「関係ないよ」
しかしそう言っても納得してくれる様子はない。
「二人と仲良くする気がなくて、距離を取ろうとした」
「誰と仲良くするかは千日紅さんの自由だ。無理に仲良くする必要なんてない」
「でもそんなわたしなんかと回りたいと思うはずない。嫌だって思うでしょう?」
「それは……」
口ごもる。
大川さんたちが千日紅さんをどう思っていたかなんて正直わからない。そういう経緯があったのなら、確かに良くは思っていないかもしれない。
「そのせいで柿原くんを傷つけた」
千日紅さんは慧と似たような超然としたところがあると思っていた。ひとりでいい、周りにどう思われているかなんて気に留めない。
でもそうじゃなかった。
本当は人一倍、周囲の自身を見る目を強く気にしていた。
千日紅さんは班で打ち解けなかった。ひとりが楽だから。
打ち解けられなかった。人付き合いが苦手だから。
そのことでずっと自分が和を乱しているのではと気にかけていたんだ。そしていま、僕のことがきっかけでその気持ちが溢れ出てしまったのだろう。
「千日紅さんのせいじゃない」
そんなに自分を低く見て責めることない。
「僕が間違えただけだ。自業自得。何の相談もしなかったから。大川さんからすれば、僕が何も考えていないように見えたんだ。だから気を利かせてくれた」
僕が計画のことをあらかじめ話していれば、大川さんたちも別行動したいとは言ってなかっただろう。
「柿原くんは間違ってなんかない」
すれ違いとも言える。
しかし仮に僕が計画を伝えてその通りに行くことになっていたとしても、それではみんなが楽しめる校外学習にはならなかった。三班と九班にとって、一番楽しめるのは結局大川さんの提案だ。
だからやっぱりこれで良かったんだ。
「千日紅さんが気に病むことないから。僕が上手くいかないのなんて、いつものことだ」
「そんなことない」
本当に僕はいつも失敗ばかり。中学のときと、入学式のとき、図書室のとき。
「空回りしてた。自分がみんなを楽しませるなんて思い上がって」
班長になったのだって別に選ばれたわけじゃない。みんな嫌だったから。僕にはそういう損な役回りがお似合いだ。
「僕だけがひとり張り切って、余計なことばかり考えて」
馬鹿みたいだ。
「そんなこと言わないで!」
僕の言葉をかき消して、千日紅さんは声を荒らげた。
「柿原くんがそうやって自分を責めるなら、わたしもわたしを責めるわ」
悲痛な表情で言われ、口をつぐむ。
普段大人しい彼女の、強い感情的な言葉が胸を打った。
青い空の下、眩しい街を走る車の音が耳に入る。観光客が楽しそうに笑いながら前を通り過ぎていく。
気づかされた。
せっかくの校外学習で、僕らはどうしてこんな悲しい言い合いをしているのだろう。
一番の目的は、楽しむことだったのに。
自信なんて持てなくて、自分を低く見る。それは、僕もだった。
千日紅さんに自分のせいだと思わせないように、自分が悪いのだと言った。いつも上手くできない自分が嫌でたまらなくて、余計に自分を責めた。
でもそれで千日紅さんが楽になれるはずないじゃないか。彼女もまた、僕が思いつめないように自分を責めていたのだから。
同じなんだ。
相手を思った結果傷つき合うなんて、そんな辛いことはない。
「……わたし、いままでこういう行事を楽しみにしてたこと、なかった」
千日紅さんは視線を落として、小さく呟くように言った。
知っている。いつかの朝の時間、そう聞いていた。
「今日は、楽しみだった」
はっとして目を見開く。
千日紅さんはゆっくりと顔を上げ、穏やかな表情を見せた。
「柿原くんが、言ってくれたから。楽しんでもらえるようにって……。わたしに、言ってくれたから」
唇を強く結ぶ。何気なく言っただけの、あんな言葉を信じてくれていたのか。
声が出せない。
嬉しい……。
僕が立てた計画を楽しみにしてくれていた。それでどれだけ報われるか。彼女の気遣いに心が温かくなる。ありがとう。
息を吐いて気持ちを落ち着かせる。
「僕もさ、今日が待ち遠しくてたまらなかった。見るからにそうだったと思う。みんなに楽しんでほしくて、姉さんに観光ガイド借りたり図書室で見たりして、良いお店を探したんだ。ネットとはまた違う紙ならではの見応えとか楽しさがあったね。どこをどう回るのがいいか、計画することがもう目的なんじゃないかってぐらい楽しんで考えたよ」
恥ずかしいけど、千日紅さんの気持ちに応えて、自分の胸中を明かした。
「柿原くんらしい」
千日紅さんが相槌を打つ。
そうだね。僕らしい。
「みんなに気に入ってもらえるかドキドキして、頭で何回もシミュレーションしてた」
息を吸い込む。
「千日紅さんにもね、とっておきの場所を見つけたんだ。だからさ、一緒に河辺町、回ってくれないかな」
彼女の目を見て、そう言った。
「ええ、もちろん」
長閑な街の中、僕らは屈託のない笑顔を交わした。
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