隣の席

 一面に広がる天色の空を見上げたとき、春の陽気から逃れんとするかのような肌寒い風が吹いた。校舎を守るように林立する桜の木が揺らされ、花吹雪に見舞われる。

 宙で遊ぶ花びらに見入る。鮮やかな色合いは街の表情を一変させるが、人を魅了するその淡紅色の美を保てる時間は短い。一か月も経たないうちに、溢れんばかりに纏った花の衣は散ってしまう。なんと儚いことか。


 ……いつの間にか感傷的な気持ちになっていた。

 今日はハレの日だというのに、いけないな。この抜けるような青空と燦々と眩しい太陽にふさわしい顔をしようではないか。

 にこり。

 よし。


 通用門は開かれており、側に「桐時高校入学式」と書かれた立て看板がある。しかし敷地内に人の姿は見えず閑散としているためか、入るのがややためらわれた。

 正面の中庭を囲うように二つの校舎が構えている。左の方が一般棟で、右が特別棟。二階に渡り廊下が伸びている。俯瞰してみれば、おおよそコの字になるだろう。中央に銅色のモニュメント時計が立っていて、周りにベンチが並ぶ。午飯をそこで食べてみたい。


 現在の時刻は七時半過ぎ。入学式が始まるのは九時で、教室に集合するのが八時半だ。余裕を持ってきたわけだが、さすがに早すぎた。

 浅ましくも桐時高校を選んだ理由の一つは卑近であるからで、自宅から徒歩十五分程度で着く。普段の朝の予鈴は八時半なので、八時ぐらいに家を出ようか。

 中庭を進むと少し高くなったところに校舎への入り口がある。扉の間を縫うように傘立てが並んでいて、その上の白い柱にクラス表が貼られている。自分のクラスと出席番号を確認する。

『1年2組6番 柿原 悠太郎』

 六番か、惜しいように感じる。あと一つ後ろであればラッキーセブン、縁起がいいと思えた。

 あるいは八番でもよかった。浮かぶのは桃栗三年柿八年。「柿」が「八」を得たとなると、大成する前触れのようじゃないか。

 そういえば、思い出した。もう一度クラス表に目を走らせる。

「あった」

『1年5組1番 泉 慧』

「残念、外したか」

 慧と出席番号が一番になるかどうかで賭けていたのだ。

 僕は「あ」から始まる人がいる可能性の方が高いと踏んだ。反対に賭けた慧は「どっちに転んでもいいように」と言っていた。一番となればいろいろと先頭に立たされて手本にされることが多くなる。そうでない方がいいし、そうであれば賭けには勝てる、ということらしい。理屈っぽい慧らしい選択だ。 

 何か奢るということだったので、考えておこう。慰みの意味も込めて。

 あと願いが叶うとは微塵も思っていなかったが、慧と隣の席にはなれなかった。同じクラスですらない。

 小さな夢、潰える。

 期待はしていなかったけど望んでしまっただけに少しばかりがくりとなる。

「……隣の子と仲良くなれるよう、がんばるか」

 小さく呟いて気を取り直す。

 あらかじめ貰っていた入学式当日の流れを書いたプリントによると、自分のクラスを確認したあと、教室で集合とのことだ。まだ集合時間には早いが、ひとまず教室に行ってみようか。


 下駄箱は廊下を挟んでグラウンド側の方に寄って配置されており、しっかり一つ一つにクラスと番号が割り当てられている。自分の番号を探して、靴をスリッパに履き替える。

 一階から二階へ続く踊り場の掲示板に校内図が貼ってあった。それによると一年の教室は最上階の四階にあるらしい。さらに二組は端の方、つまりは昇降口から遠いところにある。

 軽い運動になると思えば……嬉しくは、ない。

 四階に上がってすぐ前の窓から中庭が覗けた。右手前の教室の頭上に1年5組と書かれたプレートが出ている。案内図で確認した通りだ。

 年季を感じさせる焼けた色の扉には座席表が貼られており、曇りガラスから中を見ることはできない。

 この時間にはまだ誰も来ていないだろう。


 と思っていたら、廊下の奥に人影があった。僕以上に早く来た生徒がいることに驚く。

 一人の女子生徒がスクールバッグを右肩で持って、二組の教室に背を向けて窓から外を見ていた。同じクラスかな。背は僕より少し低いぐらいで、肩まで髪が伸びており、大人びた雰囲気を醸している。

 左手に持つ巾着が目を惹いた。藤色の生地に水玉模様の入ったシンプルなものだ。

 中学のときポシェットを携帯する女子なら見たことがあったけど、巾着を持ってる人はいなかった。小学校の頃は僕も給食用のランチョンマットに使っていたな。懐かしい。

 普段使いなら良い趣味をしている。それとも浴衣に巾着を伴うようなお祭り気分で持ってきたのだろうか。気になる。


 初対面なので少し緊張しながらも声をかけてみる。

「おはよう」

 切り揃えられた前髪の下に備わった黒い瞳が僕に向けられる。それが随分鋭い目つきなので、たじろぐ。彼女はこちらを横目で見ただけで、何も言わない。

 笑顔でもう一声。

「来るの、早いね」

「……」

 頷いた、ように見えた。会釈かもしれない。依然口元は固く結ばれたままだ。

 とりあえず、自己紹介でもしてみる。

「僕、柿原悠太郎っていうんだ。どうぞよろしく!」

 静寂の落ちた廊下に、調子を上げた声はよく響く。

 少しの間があってから、ようやく彼女の口は開かれた。

「……わたしは、千日紅せんにちこうあや

 落ち着いた佇まいがそのまま出たような澄んだ声だ。

「センニチコウさん。珍しい名前だね。よろしく……はもう言ったね」

 そう笑ってみせるが、相槌はなく気まずい沈黙が下りただけだった。背中に汗が伝うのを感じる。

 教室に目を向ける。見たところ閉まっているが、ドアに手をかけてみる。

 おや。

「……開いてるんだ」

 様子を窺う千日紅さんに、驚いた様子はない。ずっと表情が変わらないので、感情の起伏が表に出ないだけかもしれないが、一度開いているかぐらいは確かめただろう。

 教室で集合となれば、普通は中で待つものだ。

「入らないの?」

 訊くと、彼女は囁くような声で答えた。

「……どこに座ればいいか、わからないから」

 はてな、と思って扉に貼られた座席表を確認する。隅に自分の名前がある。ざっと見た限りそこにはきちんと三十六人が左上から縦に出席番号順に割り当てられており、不備はないように思う。

 ……いや。

 教卓の記載がない。

 なるほど、六人六列の正方形型ということもあってどこが前となっているかを断定できない。直感的には上が教卓側だと思うけど。 

 少し考え、僕なら論理的に説明できると思い至った。

「あのさ、僕の姉もここの高校で、どの学年での話だったかは忘れたけど、一番後ろの窓際の席だって話してたんだ。体育の授業が見えるから面白いとも。ということは、グラウンドの見える……」

 指で教室の向こう、日の当たる窓を指す。

「あっち側だよね。ところでこの学校、席替えがないらしいんだ。これも姉さんから聞いた話なんだけど」

 席替えがないことを残念がる人も多いだろう。中学の頃は小さなイベントと見なされていた。

「つまり『柿原』って苗字が窓際最後列になるとすれば、この座席表の上が教卓側だったときだ」

 一つ咳払いして、座席表に手のひらを向ける。

「ということで、この通りに座ればいいと思うけど、どうかな」

 千日紅さんは切れ長の目で僕を一瞥してから、頷いた。

「そうする」

 彼女は座席表には目もくれず、迷わず自分の席へと向かっていく。自分の名前がどこにあるかすでに記憶しているようだ。

「さて」

 漫然とクラス表を眺める。

 偶然にも、僕は姉さんと同じ席位置になっている。窓際の一番後ろ。姉さんが一年のとき何組だったのか忘れたけど、もしかしたらまったく同じ席ということもあるかもしれない。

「……いや、ないだろうけど。というか、これって」

 僕の名前が書かれた右横に「千日紅」と書かれている。読み方は当然「センニチコウ」だろう。

 そして、この学校に席替えはない。

「なるほど」

 つまり彼女がこれから一年、僕の隣の席になるわけだ。

 緊張が一段と増す。姉さんとのことがあったからというだけでなく、楽しい高校生活にするためにお隣さんとはぜひとも仲良くなっておきたい。

 いままでのやり取りからすると、簡単ではなさそうだ。

 深呼吸して、拳を握る。

 いざ。

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