甘菓子物語《アマクダモノガタリ》

柚子樹翠

第一編

一 花のおめでとう

入学式の朝

 暑さ寒さも彼岸までと言うけど、四月になってもまだ肌寒い日はなくならない。昨日の朝などは冬の寒さだった。今朝も窓に手を近づけると冷気が纏いついた。そのため身構えて玄関を出たのだが、晴れ渡る空からは暖かな春の陽気が降り注いでおり、ほっと息をつけた。

 いまから向かうのは、桐時とうじ高校の入学式。僕もいよいよ高校生となる。新しい友達、環境。新生活への期待と不安が募る。いい緊張感だ。


 交差点で曲がり、大通りを道なりに進んでいく。まだ開店前の店が並ぶ閑静な街並みに、足どりもゆったりとしたものになる。あるいは、一歩一歩を踏みしめてと表現すべきか。よく利用する本屋、変わるまで長い信号。通い慣れた道なのに、どこか落ち着かない。新たな制服のせいだろうか。胸元に付けた「柿原悠太郎かきはらゆうたろう」の名札が光る。

 駅へと続く、陸橋から伸びた影に足を踏み入れると、それが引き金になったように頭上を走る列車が規則的な轟音を響かせ、体が縮む。

 背は伸びているだろうか。もう少しで一七〇センチになる。そのラインを越えないで成長が止まるのはもどかしい。

 今朝のことを思い出す。



 洗面所で歯を磨いていると、欠伸をしながら起きてきた姉さんが僕の頭に手を置いてきた。

「何?」

「んー。はねてるなって」

 鏡を改めて見直すまでもなく、頭の右の方で髪がうねりを打っていることには気づいていた。

 口を濯いでから言った。

「直らないんだよ」

 くせ毛なのだ。

「入学式なんでしょ? ちゃんとしていきなよ」

「母さんにも同じこと言われたよ」

 溜め息をつかれる。

「仕方ないなー」

 姉さんは棚から霧吹きを取り出し、僕の頭に吹きかけながら訊いてくる。

「担任、誰?」

 続いて櫛が出てきて、湿った髪を梳かされる。

「まだ知らない」

「ああそっか。一年は入学式で発表だっけ? 一昨年はクラス発表と一緒だったんだけど」

「ふうん」

 一昨年まで姉さんは桐時高校にいた。僕の先輩に当たるわけだ。


 姉さんは充実した薔薇色の高校生活を送り、体育祭などの行事において後世に語り継がれるほどの伝説を残し、涙ぐむ後輩に惜しまれながら卒業した。

 誇張的な表現をしたが、これは大方まぎれもない事実だ。姉の武勇伝はいろんな人から幾度となく聞かされ、そんな姉を特別慕う人は一人や二人ではない。

 それは自分を嫌う相手と打ち解けてしまえるほど社交的な性格によるものか、はたまた窓際最後列から覗くグラウンドの体育の授業なんてものにでも興味を示し楽しむ好奇心ゆえか……姉とは違い平凡な僕には計り知れない。

 とはいっても、やはり血筋か、僕も気難しい相手と話すことができたり、宿題もテストも楽しんで取り組めたりと、いろいろなことを楽しむ気持ちは人一倍豊かなほうだ。

 今日だって気合が入っている。

 姉にドライヤーをかけられながら髪を整えてもらっておいて、言えたことではないけれども。


「クラスは?」

「まだ知らない」

「クラス発表見に行かなかったの?」

「……何それ」

 ひょっとして何か見過ごしていたのだろうかと不安になる。

 ファンの音にかき消されてしまったのだろう、姉さんは何も言わない。

 声を張りあげてもう一度言う。

「何それ」

 ドライヤーが止まり、再び櫛を入れられる。

「学校始まる前に発表されるでしょ。掲示板に。見に行かなかったの」

「えっ」

 聞いていない。

「……あっ、クラス発表も一年は入学式のときだったか」

「えー」

 勝手に納得している。

 当日に不安を煽るようなことを言わないでほしいと心底思った。

「あの子と一緒なんだよね? 面白い話し方する子」

「慧?」

「そうそう、慧くん」

 泉慧いずみけいとは、中学三年間同じクラスでよく話した。気難しいように見えるけど、変わっていて面白く、理屈っぽい喋りが特徴的だ。

 同じ高校になったのは合わせたわけではなくただの偶然で、本当に驚いた。

「隣の席になれるといいね」

 妙なことを言う。

「まず同じクラスからじゃないの?」

 名前的に近くになることはありえないことではないが、いきなりそこまでは望みすぎというものではないか。

「同じクラスになるのは現実的すぎてつまらないでしょう? 夢は大きく」

 なるほど。随分小さな夢だね。

「でもそう期待すると、そうじゃなかったときの落胆が大きいじゃん」

 姉さんがふふと笑みを漏らす。

「そういうほうがむしろやる気になるでしょ。隣の知らない子と仲良くなってやろうって」

 ううむ、いかにも姉さんだなあ。

「それは、確かにね!」

 そしてそれに乗せられるのが、僕なんだよね。よし、隣が慧でありますように。

「桐時高校は席替えないから。一年中ずっと座席順」

 姉さんは人差し指を立ててそう言った。

「そうなの?」

「残念?」

「うーん、残念ってことはないけど」

 変わったほうが面白い気はした。

「ま、頑張りな」

 終わり、という合図でもあっただろう、背中を叩かれる。

「……ありがと」

「うん。後悔のないようにね」

 姉さんにしては普通のアドバイスだ。どうせなら数学の何某先生と仲良くしておくといいよとか、意味深なことでも言ってほしかった。

「そうだ、あとでいいものあげる」

 姉さんはいま思いついたというように手を合わせた。

「いいものって」

「あとのお楽しみ」

 今度は自分の髪に霧吹きをかけ始めた姉さんと、鏡の向こうで隣り合った。

 背を追い越していた。数字の上では知っていたはずなのに、でもいま初めて知ったというような驚きがあった。

 髪は直っていた。


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