.end

タチバナメグミ

-


 父はいつも私に言って聞かせた。

「我が国の気高き第一皇女、ユーリカ。そして、私のお姫様。宝物。どうか誇りを忘れず、美しくあれ」

 そうしていつも決まって、父は私にあの指輪を見せてくれた。亡き母の形見の指輪。金の石座は錆びることを知らず、頂点に載せられた緑色の宝石が美しく光るそれは、父が母に贈った婚約指輪だった。太陽のもとでその指輪を掲げれば、深緑の貴石の内部は、きらきらと様々な色に光る。特別な宝玉なのだ、と父は言っていた。森林資源に恵まれて発展した町々には多様な文化が集う、我が国を象徴する宝玉なのだと。

 そして、その指輪は、父と私を繋ぐ唯一の希望になった。

 

祖国に革命が起こった。

 戦禍は突然訪れたわけではなかった。各地で上がった革命の炎はゆっくりと我が国の内部にも浸透し、少しずつ、「革命」という言葉で、階級や宗教、民族の差異から社会に分断が形成され、些細なきっかけで暴発した。

 私と父は、国を追われた。

 王家と、それに関係する全ては旧体制の象徴として否定され、破壊された。多くの家族が捕らえられ、処刑された。多くの宝物は奪われ、多くの建物が破壊された。なんとか父と私は首都を離れることができたが、追手から逃れる為にすぐに父と私は別れて逃亡することになった。

 「決して、この指輪は無くさないように」

 父と別れる夜に、こっそりと、父は緑色の宝石がはめられた指輪を私に託した。

 「この指輪はお前の母上と私を結び付けたものだ。そして、いつか、お前と私をも引き寄せる繋がりの糸となるだろう。決して人に知られないよう隠し、無くさぬように持っていなさい」

 「お父様……」

 「不安だろうが、気高くありなさい」

 掌に載せられた指輪は、とても重く、大きかった。

 「状況が落ち着いたら、必ず迎えに行こう。だから、それまで、約束を忘れず、待っていられるね」

 そう言うと、父は大きな手で私の頭を少しだけ撫で、夜の闇に消えてしまった。暗闇と静けさの中、遠くから街と人の焼ける嫌な臭いがしたのを覚えている。

 

         *


 ユーリカの故郷に、雪が降ったことは一度もない。皮膚をナイフで割くように強烈な寒さや、前も見えないほど吹雪きは、いつも、家庭教師の授業や書庫に忍び込んでは読みふけった物語の中だけのものだった。

 ユーリカが数人の側近たちと逃げ落ちたのは、古くからの親戚が持つ、別荘の城だった。別荘とはいっても、実際にここを訪れて利用することは殆どなく、厄介者の血縁者達をこの地域の領主として任命して長い冬の中に閉じ込めておくための幽閉施設だった。城の管理もずさんなもので、所々で壁や屋根が崩れて、朝起きれば城内の廊下に霜が降りていることもあった。深い緑に覆われた豊かな森も、異文化の交易品が並べられた市場の賑わいも、管理が行き届いた清潔な住処も、ここには何一つだって無かった。ユーリカは、まるで自分が、もうここに閉じ込められて一生出られないような気がして、心細くてたまらなかった。故郷に帰りたいと思わない日はなく、毎晩のように声を潜めて泣いてばかりいた。

 その度、ユーリカは胸ポケットの中の小袋に潜ませた指輪を取りだし、父との約束を思い出した。

 「この指輪を無くさなければ、きっとお父様はまた私を迎えに来てくれる」

 自分に言い聞かせるように唱えて、深緑に輝く宝石の表面を撫でると、いつも少しだけ心が安らぐように感じていた。

 けれど、現実は、ユーリカを決して憐れんではくれなかった。

 凍てつく城の冬は長く、厳しい。一年のほとんどが雪に包まれているこの地では、生き物は殆ど住み着かず、作物も満足に育たない。食料は遥か遠くに住む親戚を頼るしかないが、ユーリカたちがここに潜んでいることは決して他の者に知られてはならない為、物資の運搬はごく稀にしか無かった。寒冷な環境と貧しい食事、そして心細さから、ユーリカは体調を崩すことが多くなった。

 父からの便りも無く、故郷の様子も知れぬまま、しんと凍える城で時間だけが過ぎた。 

いつからか咳が止まらなくなり、体は日ごとにやせ細っていくだけになった。

 「この指輪を無くさなければ、きっとお父様はまた私を迎えに来てくれる」

 指輪と約束だけが、ユーリカの魂を体につなぎ留めていた。

薄い布団を被り指輪を握りしめて約束を反芻するほど、父と故郷との繋がりを強く感じることができた。深く豊かな自然は国民に絶えず恵みを齎し、賑やかな市場には異文化の交易品があふれる。様々な人種と宗教が入り乱れた玉虫色の国家。そして、その国家に君臨する、優しく聡明な父。いつかユーリカも、父のように人々を導き、支えられるような統治者になりたいと思っていた。高潔で聡明な、美しい人。きっと父は、祖国を革命という分断の炎から救い、ユーリカを迎えに来てくれるはずだ。きっとそうだ。父が嘘をついたことなど、無いのだから。


 ユーリカの寂しさを分かち合える人間が身近にいなかったこともまた、ユーリカを苦しめた。ユーリカと共に城に逃げのびた側近たちは皆、ユーリカに対して、どこかよそよそしく接する者ばかりだった。「父からの便りはあるか」と毎朝起きる度にユーリカは側近達に確認をするが、答えはいつも「いいえ」と憐れみを含んだ微笑みだけだった。

 けれど、あの朝は今までと違った。ユーリカの運命を決定づけた、あの朝だ。

 「父からの便りはありましたか」

 朝の挨拶を済ませ、近くにいた側近の男にいつものように尋ねると、男はいつもと違う答えを返した。

 「えぇ、お姫様。あなたのお父様について、伝言を預かっていますよ」

 男は口の両端を釣り上げて不気味に笑いながら応えた。

 ユーリカは、この男が嫌いだった。この城に来る前から、痩せぎすで卑屈な笑みばかりを浮かべて父のご機嫌取りばかりしていた男。そして、この城に来てからは仕事をさぼってばかりで、毎日ぷんぷんとアルコールの匂いをさせている。ユーリカも、ユーリカの父も、酒が好きではなかった。もちろん、父は社交界などの必要な場面では酒を飲んだが、それ以外の場面だと全く飲まなかったし、アルコールの匂いをさせた人間を近くに置くことを避けるようにしていた。そんな父に倣い、ユーリカも、酒飲みに対しては嫌悪感を抱いていた。

 アルコール臭い息を吐きながら、男はユーリカに目線を合わせるようにしゃがみ、その顔を覗き込んでくる。異様に近づけられた顔が気色悪く、思わず後ずさりしそうになる。しかし、ここで怯えてはならない、と何とか両足に力を入れて男を睨みつける。ユーリカの姿が気に入らなかったのか、男は一瞬だけ眉をひそめた後、わざとらしい身振りで語った。

 「あぁ、お可哀そうなユーリカお姫様!

あなたのお父様は内戦に敗け、処刑されたとのことです」


 父が処刑された。


 信じがたい言葉だった。ユーリカは体中の力が抜け、肺が苦しくなるのを感じた。

 

お父様が敗けた。処刑された。お父様は、もう迎えに来ない。

 

 「……嘘よ」


 なんとか絞り出した言葉は、とても小さく、震えていた。男は、弱々しく震えた声を聴くと笑みを深めて、ずいっと体を寄せてユーリカの耳元でこう語った。

 「えぇ!そうです。お父様は死んでなどいません!

ただ、敗けたのは本当にございます。お父様は今、追手から逃げ、身を潜めているところでございます」

 男はそう言うと少しだけ体を離して、ユーリカの小さな両手を、骨ばった手で包み、安心させるように撫でる。


――暖かかった。


ずっと忘れていた。暖かな、素肌の温もりだった。自分の両手を包む、骨が歪に変形した手指は父のそれとは似ても似つかないが、人の温もりは、忘れていた父の大きな手を思い出させた。

父に、会いたい。

張り詰めた心は決壊し、涙が止まらなかった。

「父に、会いたいわ」

えずきながらユーリカは何とか言葉にする。父に会いたい、どうすればよいか、と。

「なんと憐れな姫君か!

実は、私はあなたのお父様の隠れ家を知っているのです」

 ユーリカははっと顔を上げて、男に詰め寄る。

 「教えて!なんでもするわ!」

 男はその言葉を聞くと、またユーリカの耳に口を寄せて声を潜める・

 「では、裏取引をしましょう。あなたが持ってらっしゃる指輪を、私に譲ってはいただけないでしょうか」

 「えっ」

 「あなたが指輪を持っているというのは、知っております。それを譲っていただきたいのです」

 なぜ指輪のことを知っているのか。なぜそんなことを言うのか。

 「なんのこと……」

 「とぼけるなよ!お前が高価な指輪を持ってるのは知ってんだよ。毎晩毎晩、めそめそ泣きながらいじってんのは、その指輪だろう!噂には聞いていたんだ。お前が宝物を持っているってな。どうせ、そのこれのことだろう。こそこそ隠してるってことは、それだけ価値があるってことだ!」

「なんのこと……」

 「お前の父親の居場所と引き換えなんだ。安いもんだろう」

男はユーリカの両手を強い力で握りしめ、低い声で怒鳴りつける。

どうしてそのようなことを言うのか。ユーリカは意味が分からず、茫然としてしまう。

 「さぁ、指輪をよこすんだ!」

 「……でも、これは無くしてはいけないの」

 「お前の親の命がかかってるんだぜ。お前は、親を見捨てるのか」

 「見捨てる?」

 「そうさ。お前は我が身可愛さに指輪を独り占めし、親を見捨てるって言うんだな」

 お父様を見捨てる。指輪を渡さなければ、お父様を見捨てることになる。

 「でも、これは大切なもので」

 「父親の命よりも、か?」

 「違う!」

 「じゃあ、早く渡しな!」

 男はユーリカを引きずり倒し、服をはごうとする。

 「どこに隠した!出せ!!」

 「いや!やめて!!」

 ユーリカは暴れて抵抗をするが、大人の力には敵わず、どんどんと服を引きはがされてしまう。

 「誰か!助けて!」

 ユーリカは叫び声をあげるが、周囲に誰もいないのか、冷えた廊下に男の怒号とユーリカの叫びが響き消えていくだけだった。

 誰もいない。父もいない。助けてくれる人はいない。

 どれだけ耐えても、誰も来てはくれなかった。

 ――父に、会いたい。

 「指輪をあげるわ……だから、お父様の居場所を教えて」

 もう、涙も流れなかった。空しくて堪らなかった。これが早く終われば良い。早く父に会いたい。故郷に帰りたい。

 ユーリカは胸元の小袋を取りだし、男に差し出す。男はそれを荒々しく掴み取ると、あっさりとユーリカから手を放し立ち上がった。

 「ガキが手間取らせやがって」

 「……お父様の場所を教えて」

 「あ?あぁ。そうだったな」

 男は目的を果たして満足したのか、指輪が入った小袋の中身も確認もせずに仕舞い、面倒そうにユーリカに応える。

 「この城を出て、西に二日ほど歩いたところに小屋があるから、そこに行ってみな」

 「……わかったわ」

 そう言うと、ユーリカは破り捨てられた服をかき集めて、その場を後にした。もう少しだって、ここにいたくなかった。


         *


 雪が降っている。白く、世界を塗りつぶしている。手足の感覚はもう無くなり、ただ、体を動かしているだけだった。ユーリカは歩きながら、ずっと、父と、故郷のことを思い出していた。白い雪景色はキャンバスのようで、ユーリカが心で描くどんな景色でも、その上に描き出すことができた。

 「ここは大河のほとり 美しき緑の大地」

 今は亡き、祖国の歌だった。

 「あぁ愛しき祖国 空が朝焼けに染まるとき 我らは思い出す」

 ユーリカの目の前には、祖国の姿があった。ユーリカの名を呼ぶ声がする。父だ。父の指には、あの指輪があった。

 「ごめんなさい。お父様。私、約束を守れませんでした」

 「何を言っているんだい、ユーリカ。左手を見てごらん」

 父に言われ左手を見ると、薬指には、男に渡してしまった指輪があるではないか。指輪は記憶の中にある通り、虹色を内包する深緑の貴石が厳かに輝いている。

 「気高いユーリカ。すべてに耐え抜いて見せた、我慢強い子よ」

 ユーリカは夢見心地で、父の声を聴いた。もう、疲れ果てていた。

 「お前に、愛で報いてあげよう。愛おしい子よ。お前の目から涙が落ちれば、それをぬぐい取ってあげよう」

 そこには、死はもはや無いだろう。悲しみも、叫びも、痛みもない。すべてが過ぎ去っているのだから。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

.end タチバナメグミ @poujiking

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る