第18夜 誘い込まれた夢

 バターをたっぷり塗って焼いたトーストの香りが辺りに漂う。


「どうした? 朔夜」

「え、兄貴?」


 はっと気がつくと、俺の眼の前に座る兄が不思議そうに手を振っている。

 俺たちは二人で朝食を採っている最中だった。


「あれ、俺……?」

「寝ぼけてるみたいだね、まだ眠い? 二度寝する? でも二度寝した朔夜を起せる気がしないなあ。一人で起きられる?」

「兄貴、そろそろ俺を子ども扱いすんなって。二度寝もしないし、したとしてもアラームで起きられるからさ」

「でも朔夜、前は母さんに起こされても起きないし、ギリギリまで寝てたからね? それに最初のころはぼくが起こしてたんだからね?」

「う……でも今は頑張って起きてるじゃないか」

「うん、そうだね。朔夜は頑張ってるよね。それに一緒に朝食の準備もしてくれて、助かるな」


 兄が柔らかく微笑んで、熱で溶けたバターの香りがするトーストを食む。

 俺も食べかけだったトーストを口にした。


 父と母がいなくなって、俺たちは思い出に後ろ髪を引かれながら引っ越しをした。

 新たな居間は狭くなったが、二人だけの空間では焼けたパンがサクッと立てる音が少し寂しく響いた気がする。


「……もう母さんも父さんもいないからね。ぼくたち二人で生きていかないと」

「ああ……」


 懸命に働く兄を見ていると、いつか倒れてしまうんじゃないかと思い不安になることがある。

 そうしたら、俺はまた一人になってしまう。


「……なあ、兄貴」

「うん? なにかな朔夜」

「あんま、無理するなよ」

「うん。そういう朔夜も、バイトはほどほどにね。ぼくがちゃんと稼いでるんだから、心配しなくていいんだよ」

「兄貴はそうは言うけどさ……」


 俺だって兄を支えたいんだ。

 その言葉を口にすることなく抑えている間に、兄は食後のコーヒーを淹れていた。


「はい。朔夜、コーヒー」

「あ、俺がやろうと思ったのに」

「ふふ、寝ぼけてる朔夜が悪いんだよ? こういうのは早い者勝ちだからね」


 俺は立ち上がってカップを取りに行く。


「ありがとう、兄貴」


 椅子に座ってひとさじ砂糖を入れていく兄を見て、違和感を感じた。


「……兄貴」

「うん? どうしたの、朔夜?」


 コーヒーを飲みながら首を傾げる兄の様子は、普段と変わらない。


 だけど、ひとつだけ……不自然な箇所があった。


「お前……誰だ?」


 その違和感ただひとつだけで、俺は正気を取り戻した。


 これは現実ではない。

 夢だ。


「なにを言っているのかな? ぼくは朔夜の兄だよ」


 現実の兄はいなくなり、人間の夢を喰らう獏夜びゃくやという化け物になってしまった。


 だからこれはではない。


「お前は誰だ、と言ったんだ」


 兄の記憶を持たず、兄を演じる、兄の姿をしただけの別物だ。


「ぼくは……よ……」

「ッ!」


 嫌だ。

 兄ではない何者かが、兄のふりをして、兄の名を名乗ろうとしている。

 そのことが許せなかった。


 兄の姿をした何者かが名前を言おうとした瞬間、怒りが頭に血がのぼっていくのを感じた。


 黙って座っていられず立ち上がると、突然これまで俺の見ていた景色がぶれた。

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