第04夜 獏然とした者
「兄貴……?」
振り返ると、確かにそこにいたのは兄だった。
しかし、俺が見たことのない和服を何故か着ている。
白地の和服の足元近くに太陽を模したオレンジ色の刺繍が施されている。
腹部を隠すほどに幅の広い帯には、象に似たキメラのような不思議な獣の姿が描かれていた。
顔色は血が抜けたように色白で、黒髪を染めたことのなかった兄の髪もどこか薄く白みを帯びているように見える。
その上に素足で死装束のごとく清められた白さの和服に、俺は兄が死んでしまったのではと衝撃を受けた。
しかし、前の合わせを右前にしており、死人ではないようで安堵する。
もっとも、この夢が現実に即したものなのかは定かではない。
ただ唯一分かることは、背格好は同じだというのに、兄の趣味が一つも含まれていないことが、彼を兄ではない別人のようにも見せている、ということだった。
「誘われて来てみれば……」
顔も声も、兄そのものだ。
しかし、やけにたどたどしい口調と子どものようなおぼつかない歩き方に違和感を覚える。
これは兄ではないと、しかし夢であっても兄に出会えて嬉しいと。
二つの思いが俺を悩ませ、どう声を出すか考えあぐねていた。
兄がゆっくりと手を伸ばす様子を、俺は呆然と見守る。
「きみは……」
違和感が頂点に達したのは、俺に対する兄の呼び方だった。
「
思わぬ言葉にびくりと肩を震わせて兄だと思っていた人物の顔を凝視すると、彼は俺の見慣れぬ笑みを浮かべる。
「とても美味しそうだよ」
伸ばされた手は頬に届き、ゆっくりと撫でられる。
開いた口から八重歯が覗いて見えた。
まるで獲物を目の前にした捕食者のような発言と表情に俺の足が震える。
こうして目の前で彼の目を覗き込むと、俺の知る兄とは異なる色をしていた。
まるで行方不明前に一緒に食べたリンゴのように真っ赤な瞳が目を引く。
視線を横にずらすとピアス穴を大量に空けたように穴だらけの痛々しい耳が目に入り、俺は息をのんだ。
「お前……兄貴じゃないのか?」
「アニキ?」
彼は不思議そうに首を傾げると、事故前に良く目にした穏やかな笑顔を見せる。
「きみがそう呼びたいなら、アニキと呼んでもいいよ」
しかし返ってきた答えは、兄であることを否定するようなものだった。
「そのほうが、とても好い夢がご馳走になれそうだからね」
「っ!」
これは悪夢だ。
兄はこんなことを言わない。
兄の顔と声をした別人が、俺を惑わせようとしている悪夢に違いない。
「お前はなんなんだ? これは俺の夢だろう? 俺に何を見せようと言うんだ」
俺は彼の手を振り払い、距離を取る。
手から逃れられた頬を名残惜しそうな目で見つめる顔に思わず罪悪感を覚えてしまう。
「なにも見せていないよ。ただぼくは、きみが見る夢に誘わてやってきただけだからね」
「通りすがりとでも言うつもりか。嘘をつけ。やってきただけなら、お前はなんで兄貴の姿をしているんだ」
「さあ。それは分からないな。もしかしたら、ぼくがきみに引きつけられた理由と関係するかもしれないけれど、ぼくには分からないよ」
「もう一度言う、お前は何者だ」
「ぼくに名前はないよ。きみが望むように、アニキと呼んでもらうのも良いね。なぜか心がふわふわとする気がするよ」
「じゃあ、なんのために俺のところにやってきた」
彼は一歩、俺の方へと距離を詰めた。
「ぼくたちは餓えているんだよ。夢がほしくてたまらない。ぼくたちはひどく空っぽなのに、きみたちはとても満たされた夢を持つね」
彼は俯いた姿で帯の獣に触れるように腹を擦った。
「ぼくたちだって、満たされた世界に漂いながら、いろんな夢を貪ってみたい」
それはまるで、事故で健康な体を失い恋人に見捨てられた兄の悲観した姿と被る。
「羨ましいよ」
兄の形をした者に俺の家族の思い出を差し出せば、この男は兄の記憶を得るのだろうか。
「だからきみのその夢を、ぼくに分けてくれるかな?」
そうすれば、兄は俺の元に戻ってきてくれるんだろうか。
「……」
そう思わせてしまうくらいに、男の姿は兄を彷彿させずにはいられない。
俺が呆然としている間に、距離を取ったはずの彼がいつの間にか目の前に立っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます