第01夜 最後のリンゴ
兄の病室に見舞いに向かった俺の耳に入ったのは、非情な一言だった。
「陽太。私たち、別れましょう」
「……そう、だね」
兄とその彼女の声だ。
穏やかでけれど力をなくしたように弱々しい声色の兄に対し、相手の女性は突き放したように酷く冷たい。
「……きっとその方が、きみのためになる」
じゃあ兄のためになることは、誰が考えてくれるんだ?
・・・
俺、
車に引かれそうになる子どもを助け、重傷を負ってしまった。
生死の狭間にいた兄は何とか一命を取り止めたが、下半身が動かなくなり今はベッドの上での生活を強いられている。
医者は手術をすれば歩けるようになる、そのためにリハビリをしましょう。と告げた。
そんな医者と俺に、兄は力なく頷く。
頷いたものの兄がリハビリに励む様子は見られなかった。
元彼女が平然と立ち去る姿に怒りを感じ睨みつけながら見送った後、俺は病室を覗き込む。
事故が起きる前は穏やかな顔立ちに真っ直ぐな瞳がとても眩しかった兄は、今ではほとんどの時間を死んだ魚のような目をして過ごしている。
今窓の向こうに向けているのは……また未来への希望をなくしてしまった表情なんだろうか。
「兄貴!」
まるで目に見えない存在に誘われた様子で今にでも消えてしまいそうな兄に強く呼びかけると、兄の肩が跳ね上がった。
「あ、ああ……朔夜」
兄の瞳にほんの少し光が戻り、俺を映し出したことにほっとする。
「来てくれてありがとう」
「バカ。水臭いこと言うなよ」
「それでもぼくは嬉しいんだ」
泣きそうな声色で語る兄からは涙は出てこなかった。
もしかしたら、俺の知らないところで涙を枯らすくらいに泣いたのかもしれない。
「ぼくなんかのために来てくれると言うことが」
「来て当然だろ!」
兄はこんなに自暴自棄になる人間ではなかった。
数年前に社会人入りした兄は忙しそうにしながらも、日々活発に動いていた。
自分を卑下することもなく、やりたいことを楽しそうに口するような活発で、優しくて穏やかな人だった。
そんな兄がいまでは気力をなくしたように虚ろで、口調もどこかたどたどしさを感じる。
兄をこんな風にしてしまったのは、事故なのか。
それとも……事故後の環境か。
追い打ちのように彼女から別れを切り出され、絶望してしまっているんだろうか。
けれども、俺は……俺だけは兄のそばにいる。
それだけは絶対に変わらない。
先の彼女の様に見捨てることなんて、絶対にするものか。
「朔夜。負担をかけてごめんね」
「負担なんかじゃない! それに、俺だって兄貴にいつも世話になってるだろか!」
俺たち兄弟は両親がいない。
数年前に……なんの因果か交通事故で亡くなってしまった。
そのとき高校卒業間近であった兄は急遽伝手を辿って就職し、親代わりのように俺を養ってくれている。
そんな兄を俺も支えたいと日々思っていた。
交通事故が、俺から両親と兄の笑顔を奪っていく。
「なにもできないことは、ひどく歯がゆいものだね」
「なにもできないなんてバカなこと言うなよ! 俺の兄貴は出来る奴だ!」
苦笑して見せる兄に、俺は言う。
声を荒げて言う俺に兄は目を見開いて驚いた様子を見せている。
「兄貴はこれまでちゃんと働いて、俺のことを食わせてくれていた。兄貴を支えられたらってずっと思っていたし、俺は不甲斐ないって思ってたくらいだ。だから俺のこと頼っていいくらい、兄貴は頑張っているんだ! 頑張りすぎなんだよ……!」
段々と泣きそうな表情になっていく兄の手を握り締めた。
いつも暖かかったはずの兄の手は、どこかひんやりとしているように感じる。
病人であることを思い知らされる兄の体温に、俺は悲しくなった。
「少しくらい休んだって良いんだ。ひとしきり休んで気持ちが落ち着いたら、リハビリして。それでまた元の生活に戻れるようにしていこう。その間は俺が絶対に支えてみせる! な、兄貴」
「朔夜……」
兄は表情に切なさを潜めて俺に手を伸ばす。
頭を撫でたそうにしていたので、思わず頭を差し出してしまう。
「ありがとう……」
「こ、子ども扱いすんなよ」
それでもこうなった兄に子ども扱いされるのは久しぶりで、こそばゆい気持ちになる。
しばらく話を続けていると、兄の腹の虫がぐうっと鳴った。
「はは。お腹が空いたみたいだ」
「じゃあリンゴ食おう。昨日持ってきたやつ。兄貴と一緒にどうぞってバイト先のオバちゃんからもらったんだ」
俺が机からリンゴを取ると兄は俺に手を伸ばした。
「たまにはぼくがやりたいな」
俺は兄にリンゴとナイフを渡す。
歩けなくなっても手は動かせる兄が、しゃりしゃりと小気味良い音を立ててリンゴの皮をむいていく。
思い出すのは俺が宿題をするそばでリンゴをむく兄の姿。
待っていると出来上がったのは皮付きリンゴのうさぎだ。
「はい、朔夜。うさぎさんだよ」
「相変わらず器用だよな」
「ぼくには、これくらいしかね……」
いくら褒めても最近の兄は自分を卑下してしまうことをやめない。
「頂きます」
しゃくっと音を立ててリンゴをかじると、口の中でリンゴの甘酸っぱい味が広がる。
「んっ、これ貰い物なのに蜜がたっぷりで旨いな」
「うん。美味しいね、朔夜」
感傷的になったのか、つう……と兄の頬を涙が伝う。
「あ、ああ」
「おまえと食べるご馳走は美味しいだけじゃない。楽しくて、ぼくはとても幸せだよ」
そんな泣くほどかと思ったが、事故に合ってからというもの兄と食事を共にしていなくて、はっとさせられる。
「じゃあ明日は違う果物買ってくるから、一緒に食おう」
「ありがとう」
兄が力なく頷き、残りのリンゴを咀嚼する。
「……おかしいな」
「ん?」
「こんなに美味しいものを食べているのに、不思議だよ。なぜか、まだ食べたりない気がする」
リンゴを食べながら兄はまるで空腹が止まらないようなことを口にしていた。
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