第4話 こちら側、向こう側
ミカルの娘キララがやっとなついてくれた頃に、彼女の家を去ることは、ちょっと寂しかった。
ミカルも子供のように我が儘を言う。
「ねぇ、ねぇ、姉さん、もう一日いようよ。どこでも連れてく。今日はキララも一緒にさ。」
それはとても楽しそうな申し出で、とても有り難かったけれど、今日のうちに発たなければならない私には、時間がなかった。
「ごめん、ミカル。また来るよ。そのうちキララ連れて、あんたが来たっていいんだし。」
なんとかなだめて、駅まで送って貰い、列車に乗った。勿論、改札を通る前に、ミカルの熱いハグ攻めにあったけれど。
ノンストップで快速列車に乗って、大きな駅から特急に乗るつもりだった。
が、乗車駅で見つけた駅名を見て気が変わる。各駅停車の切符を買った。もう一度だけ海が見ておきたかった。
列車がその駅に近付くにつれ、窓から海が見えてきた。本当に、すぐそこだ。まだ太陽は真上ではなく、光が水面に反射してキラキラと輝く。
私は、近くの名も知らぬ駅に降り立った。
そこは海水浴場ではなく、普通の浜で、人もまばらだった。
鞄を置き、履いていた靴を脱ぐ。砂の感覚を確かめる。きめの細かいサラサラとした心地よい砂だ。もう熱くなってはいたけれど。
そのまま波打ち際へと歩き、水の冷たさに触れる。気持ちいいな、と思いながら海をぼんやりと見ていた。
「見つけた。」
不意に、背後から聞き覚えのある声がした。
「なんでわかったのよ?」
振り返らずに答える。
「ある筋からの情報。」
声の主が笑う。
「ミカルのお喋りめ。」
振り返ると、ルウがいた。
「久しぶり。元気?」
いつものルウだ。ちょっとカッコつけた感じも全然変わらない。
「あんたが元気なら。でしょ?」
「確かに。」
ふふっと愉快そうに彼は笑った。
ルウに出逢ったのは、ミカルとの出逢いと同じ頃だった。
出逢った、というより、「俺が見つけた」のだと彼は言ったけど。確かに、私と知り合ったルウの最初の言葉が「見つけた!」だった。変わった子だな、と思ったのを覚えている。
ほどなく、私はその意味を知ることとなったのだけれど。
「鞄置いて靴脱いで、海に向かって歩いてったから、『向こう側行く気ですか、お姉さん?』とか思っちゃった。」
「朝っぱらから?」
私が答えると、いたずらっ子のようにルウが笑う。
「ホントに行きたいと思えば、朝夕関係なく行っちゃう人でしょ、あなたは。」
掌で光を遮って水平線の方を眺めながら。
「人のこと言えないでしょ。」
彼の見ている同じ景色を見ながら言い返す。
「確かに。」
ルウは笑いながら、けれど静かに答えた。
知り合ってから(ルウに言わせれば彼が私を見つけてから)私たちは、毎日のように連絡を取り合った。チャットでのやり取りが殆どだったが、最初に驚いたのが、最初に呼び掛ける特殊な言葉も、使っていた記号も文字の色も全てが同じだったということ。
これにはルウも驚いていた。
「真似すんなよ!」
「もともとこれなの。あんたこそ!」
で、嘘みたい!って笑ったけど、こんなもんじゃなかった。
知り合った時、私たちは飛行機で半日以上かかる場所に住んでいたのに、生まれた場所は、信じられないくらい近くて、ルウが育った所は、私の生家から歩いていける距離だった。
私の仲の良い知人の遠縁に当たることも。
「奇跡だね。」
「奇跡かもね。」
どんなときでも、いつもタイミングが同じだった。
ルウが風邪を引けば私も引いていたし、
ルウが落ち込んでいる日は私も落ち込んでいた。
楽しかった日は、お互い「聞いて聞いて!」で、一緒に喜んだりもした。
そのうち、自然と惹かれ合ったし、ずっとずっと一緒にいたいと思うようになった。
ルウの方がずっと年下で、二人はそこだけ少し
二人で一緒にいれば、幸せは続くと思っていた。けれど、数ヶ月しかもたなかった。一緒にいると一緒に傷つけ合うのだ。一緒に傷つく。好きなのに好きなのに二人して心が血まみれになる。
耐えられなかった。お互いに。お互いのためを思ったら別れるしかなかった。
別れてからわかった。ルウも私も。
私たちは鏡なのだ。互いを映す鏡なのだ、と。
だから、いつも同じ。だけど、その境界をまたいだ側には行けないのだと。
とても現実のことだとは思えなかった。
世の中にそんな不思議なことがあるのかと思ったのを覚えている。
でも、そんなこともあるんだな、って思うようになってからは、たとえ会わなくなってもどこにいても、ルウの体調とかがわかるし、それはそれで便利だな、と思っている。
そして彼自身の幸せを願っている。
そんなことを考えながら、ずっと飽きることなく海を見ていると、ルウが呟いた。
「ミカルに『山吹色の魚』の話、聞いた。」
「そう。」
「別に魚の肩持つつもりもないけどさ、そいつらだって悪気があって生きてるわけじゃないんだよな。」
「あはは。魚の肩持つ人あんまりいないよね?」
「うるせえな。真面目な話だぞ?」
彼も半分笑いながら言った。
ルウの左手首に銀色の幅の広いブレスレットが光る。その下にある一本の傷痕を知っていた。私の左手首の時計の下にも同じものがあったから。
ミカルのように堂々と世間様に見せ歩くほど、私たちは強くない。
きっと網をかいくぐって普通の顔して生きていくのだろう。
「『普通』って誰が決めるんだろうね?」
「さあ?平均値なんじゃねえの?」
「じゃ、私たちはやっぱりホントは『普通』って網からは弾かれる口か。」
「あはは。だろうね。」
ふぅ。と私はため息一つ。
「それが不幸なことなのかどうかは、正直わかんないな、私には。」
「狭い網の中で安全に安心して生きてるより、自由でいいかもよ?」
茶化すようにルウが言う。
「たまに網の近くまで行って、捕まるかもよ?」
「みんな、未知の魚は怖いからな。」
あははははは。二人して顔見合わせて笑った。
「じゃ、元気で。」
駅までルウが見送ってくれた。
「どこまで行くの?」
彼が尋ねる。
「一番行きたいところ。」
笑って答える。
「あんたは?」
ルウはニッと笑って答えた。
「勿論、俺も一番大事なところに。」
「それがいい。」
「じゃ、気を付けて。」
お互い、行く場所はわかっていた。
だから、安心して、手を降った。
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