第2話 心と身体、過去と未来

バスがその店の近くに着いた頃には、もう薄暗くなり始めていた。初めての場所は夜は出歩かないようにしている。闇は方向性を失わせ、迷ってしまうからだ。

暗くなる前に彼女の店に着けて良かった。


「いらっしゃい。」

店に入った時、迎えてくれたのは、店長のルナさんではなく、猫を抱いて椅子に座った、私よりかなり年配の女の人だった。

「この子がね、『もうすぐ来るよ』って教えてくれたよ。」

そう言って、膝に抱いた猫を撫でた。猫は大きなあくびを一つした。


お店はお休みだと聞いていたから、お客さんではないらしい。その不思議な雰囲気に、どう答えていいのか迷っていると、

「ああ、いらっしゃい。遅かったね。」

ルナさんが奥から顔を出した。


私はちょっとホッとしながら、途中、海水浴場に寄ってきたことを話した。


「ああ、あの海岸に寄ってきたんだ。驚いたでしょう?」

「ええ、見たことのない光景でした。」

荷物を下ろしながらルナさんに答えると、

「知らないことは知らないままでもいい。知れば知らなければよかったと思うこともあるからね。」

さっきの女の人が猫を撫でながら言う。


「あの…あの方は?」

ルナさんにコソッとたずねる。

「姉なんだ。時々ここを手伝ってもらってる。いろんなものが見えるらしいんだけど、余り気にしないで。」

「いろんな…もの?」

女性の方を改めて見ると、確かにルナさんに面影が似ていなくもない。


「あんた、背負ってるねぇ。今までも随分背負ってきたけど乗り越えた。でも、まだ乗り越えなければいけないステージが幾つかある。」

「ステージ…ですか。」

私は、やっぱりどう答えていいかわからずに、ルナさんの顔を見る。


「姉さん、その辺で。この子困ってるから。」

ルナさんが少し笑いながら彼女をたしなめた。

「お腹減ってるだろ?あんたの好きなビーフシチュー、煮込んどいた。」

「わぁ!ホントに?嬉しい!」

ルナさんのビーフシチューはとびきり美味しい。どんな高級店のより私は好きだ。

 

「あんな魚が、いつの間に入ってきたのか、全然知りませんでした、私。」

食後に彼女が丁寧に入れてくれたコーヒーを頂きながら言う。

「そうだね。私も地元の漁師さんに聞くまで知らなかった。」

「知らないことって多いよな、って改めて思いました。」

そんな私の言葉に、ルナさんは笑う。

「ホント、随分改まるねぇ。どうしたの、今日は?」

「え…今日感じたこと、そのまんま…です。」 

若干照れ臭くなって、一緒に笑った。


「だけど、あんたの言う通りかもね。知らないことって沢山あるよ。」

片付け物を終えて、ルナさんがワインを一本取り出してくる。

「どう?」

「あっ、ごめんなさい。私、ダメなんです。」

「え?飲めたよね?」

「ええと…今はダメなんです。」

私は少しうつむく。

「あ、そうか、薬飲んでるからか。」

こくこくと私は頷く。

病気が重くなってからは、投薬が絶対必要になり、その上に週に一度の注射もしなければならなくなった。

「そっか。じゃあ、その間だけの旅行なんだね。」

「ええ。主治医からは、短期の旅行なら問題ない、って言われましたし。」

「そっか。楽しむといいよ。じゃ、ノンアルコールの何か用意するわ。」

ルナさんは優しく微笑んだ。


「姉さんも飲む?」

ルナさんがワイングラスを少し高く上げて、お姉さんに問う。

「ちょっとだけ貰おうかな。」

「こっち座れば?」

「その子が私を怖がらなければ。」

「あっ、だ、大丈夫です。」

ルナさんのお姉さんが、同じカウンター席に座る。一つ席を空けた隣側に。ちょっとドギマギした。


「姉はね、私の親類の中で、唯一、私の理解者なんだ。」

ルナさんがワインをお姉さんに手渡して言う。

「だから、私は本当の私のままで生きていけてる、っていうか生きてる。」

「そうなんですね…。」

皆が私の病気を知らないように、皆、ルナさんの事情も知らない。


ルナさんはとても綺麗な女の人だ。私も見とれてしまうくらいの。だけど、本当は男の人なのだ。そう、生物学上は。

でも、中身はれっきとした女の人で、私は間違いなく、ルナさんを女性だと思っていたし、今も思っている。

「本当のルナを知っても全く態度をかえなかったのはあんたが初めてだったし、

ルナがこんな風に自然に笑えて自然に喋ってるのを見るとね、とても嬉しいよ。」

お姉さんが少し涙ぐんだ目で私を見る。

「もう、やめてよ。ねぇ。湿っぽくなるじゃない。」

ルナさんは困りながら、それでも嬉しそうに笑った。


「姉はね、いろんなものが見えちゃうの。」

「いろんなもの?」

「例えば、人の過去とか未来とか、その人が背負ってるカルマみたいなもの。」

「あ、だから、さっき…。」

私は改めてお姉さんの顔を見た。

「ほらね、やっぱりこの子は驚かない。」

お姉さんはそう言って笑った。

「私がこの身体と心の食い違いでいじめられていたように、

姉もまたこの能力で随分苛められたらしいよ。」

だから二人はお互いに「理解者」同士なのか。なんとなく納得した。


「私の病気も世間には殆ど知られてませんし。」

「嘘?難病指定されてないの?」

「だって私くらいの症状だと普通に生活できてるように見えるじゃないですか。」

「そうだね…でも難病だよね。認めてくれって思うよね。」

「ええ、上の方の人たちは動いて下さってますが、まだ…。」

「一生治らないんでしょ?進行性ではないの?」

「進行性ではないって言われてます。皆、進行してますけど。」

私は情けなく笑って見せた。

「そうなんだ。なんか悔しいね。」

自分だって悔しい障害だろう。お姉さんだって好きでつけた能力じゃない。

「こんな人もいるんだ、あんな人もいる、それが当たり前なのに。」

「皆、あんたみたいに、瞬時に『当たり前』だとは受け入れられないのさ。」


「知らないから、わからないんじゃないですか?」

「そうかもね。」

「あ…。」

私の気付いたことが、二人にはわかったのだろう。


「私たちも、『山吹色の魚』なのかもしれませんね。」

私はうつむいて呟いた。

「かもね。」

ルナさんが、ふふっと笑って続ける。

「あいつらほど、世の中に迷惑かけてるつもりはないんだけどね。」

うつむいたまま、私は頷くことしかできなかった。


「それでもあんたは乗り越えるだろうさ。」

お姉さんが優しい声で言う。

私は、この「予言者」の言葉を信じようと思った。

こんな身体で生きる私でも、生ききることが誰かの勇気になるのなら。


顔を上げた私に、二人は笑って、うんうんと頷いた。

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