二人の時間 その5
「シャワーありがとう」
秋人は仕事の手を止めて振り返ると、シャワーを浴び終わった雪菜が秋人のジャージを着てリビングへ入ってきた。百七十五センチある秋人の身長に合わせたサイズのジャージではぶかぶかで長袖のジャージが指先まで覆われており、所謂萌え袖状態だった。
「おかえり。さすがにジャージ大きすぎたね」
「大丈夫。明日確か体育あったよね? 家に帰ったらすぐ洗って明日一番で返すから」
「いや別に気にしなくていいのに」
「私が気になるの。一度自分の着た服をそのまま返すのはちょっと」
確かに秋人も一度自分の着た服をそのまま返すのは匂いとか色々抵抗があった。女の子ならなおさらそう思うだろう。
「なるほど、じゃあ明日の体育前にお願いします。それと今日は掃除の方しなくて良いから。せっかくシャワー浴びたのにまた汚れたらいやでしょ」
「えっ、でも」
「水川さんのおかげで随分部屋がきれいになったし一日くらい大丈夫だよ。普段こっちが尽くしてもらいすぎなくらいだし」
「……そういうことなら」
不服そうではあるものの了承した雪菜を見ると、秋人はすぐにパソコンへ視線を戻した。
「じゃあ、ソファーで適当にくつろいでて。もう少しで今日の分の翻訳終わるから」
秋人は再びキーボードをたたき始めた。だが雪菜はソファーへ行かず、秋人の後ろでじっと仕事の様子を見ていた。
「あ、あの、なにか?」
耐えきれなくなり質問すると雪菜は感心した様子で画面を見つめていた。
「今日も難しそうな英文……。翻訳のお仕事、頑張ってるんだね。結構な量あるのに」
「え、あ、あぁうん。まぁね。叔父さんに迷惑はかけられないし」
気まずさを抱えながら秋人は返答する。実を言うと今日の分の翻訳はすでに終えていたのだが、先ほどのアクシデントを忘れようと無我夢中でやっていたらいつの間にか今日のノルマは達成してしまい、中途半端なところで切り上げるのは落ち着かなかったから残りも手をつけようとしていただけだった。そんな中普段は毒舌しか吐かない雪菜に褒められたせいで秋人は後ろめたさを感じていた。
「本当にそういうところは尊敬する。汚部屋で家事出来ないところは全く尊敬していないけど」
「……よかった、いつもの水川さんだ。安心する」
「……秋月君ってMなの?」
後ろめたさが消えて安心する秋人とそれを見てドン引きする雪菜。そんな中、秋人のスマホに通知音が鳴る。
『前回行けなかったカラオケ、今度こそ一緒に行こ?』
莉緒からのメッセージだった。
秋人は思わず苦笑いした。いつも一緒にいる友人たちとはメッセージアプリ上でグループを作成している。それなのにわざわざ個人宛てに送ってくるということは、あわよくば二人で行きたいという意思が見え隠れしていたからだ。
「随分とおモテになるようで」
雪菜が冷たい目で冷やかしてくる。
「う~ん、莉緒は何て言うか、分かりやすい方だから」
「莉緒って、あぁ、あの茶髪でいつも私を睨んでくる人ね」
「睨んでくるの?」
「……気づいてなかったの?」
呆れた目つきで秋人を見つめる。
「なんで水川さんを睨む必要があるの?」
「それはもちろん、私と秋月君が最近学校で話すようになったからでしょ。彼女からすれば「泥棒猫がやってきた」って気分でしょうね」
言われて秋人が「なるほど」と納得する。莉緒が秋人に気があること自体は気づいていたが、裏でそんなことになっているとは気が付かなかった。
「むしろよく気が付いたね。水川さんって普段クラスの人とほとんど交流がないのに」
「こういう異性がらみのあれこれで同性から嫌われるのはよくあることだから。ちょっと敏感になっているだけ」
「……ご苦労様です」
「いつもの事だから気にしてないわ。あくまでも聞いた話だけど秋月君狙いの女子は水面下でバチバチやっているみたいよ。それを考えれば小田島さんの睨みなんて可愛い方だから」
正直女子同士のいざこざを甘く見ていたのかもしれない。自分の見えないところでそんなことになっているとは秋人自身全く気が付いていなかった。
「いっそのこと小田島さんと付き合ったら? そうすれば余計な争いは起こらないわよ」
「それはないね。莉緒と付き合うことは絶対にない」
思った以上の強い拒否に今度は雪菜が驚いた。
「小田島さんのこと、嫌いなの?」
「嫌いじゃないよ。友達としては好き。でも莉緒が見ている俺なんて所詮「完璧優等生の秋月秋人」だよ。それは俺じゃない。あの子は俺に完璧な男性像を求めて憧れているだけ。そんな状態で付き合っても完璧じゃない俺を見た時幻滅するだけだよ」
例えば好きな男性アイドルと結婚したいと語る女性がいたとする。バラエティー番組でのトークや歌が完璧で、ルックスも彼女好み。だが実際に会ってみたら性格が最悪で歌も機械で調整しているだけだったら彼女はどう思うだろうか。当然幻滅する。あこがれは恋愛から最も遠い感情だ。莉緒が秋人に抱いている恋心も、そういったあこがれに過ぎないと秋人は考えていた。
「まぁ、俺が完璧なフリをしているのがそもそもの原因なんだけどね」
秋人は肩をすくめて自虐する。完璧にしか振舞えない自分に原因があるのも自覚していた。
「小田島さんのことは詳しく知らないけど、少なくとも私は秋月君のダメなところ見ても幻滅しなかったわ。むしろ安心感を覚えたくらいだし。案外そんなにみんな完璧な人を求めているわけじゃないわ」
「……そうかもね」
これっぽっちもそう思っていなかったが、話がややこしくなるのでとりあえず肯定した。
「でも確かに秋月君って家事が出来なくて放っておくと汚部屋を精製するっていう欠点に目をつぶれば本当に完璧優等生ね。その欠点をどうにかすれば一人で生きていけるんじゃない?」
「汚部屋精製って……。最近は自分で掃除もある程度できるようになったよ」
「この間床の水拭きをしようとしてバケツの水を床にぶちまけた人はどこの誰?」
「その節は後始末をしていただきありがとうございました」
深々と頭を下げる。自分でも頑張って掃除できるようになりたいと努力してみたのだが結局余計に床を汚しただけになってしまい、後から来た雪菜に怒られたのは記憶に新しい。
「ま、まぁその話はともかく、一人で生きていけるってのは違うよ。お金さえあれば人は自立して生活できるって言いうけど、実際には服や食品を作ってくれる人がいなければお金があっても生活は出来ない。前に水川さんは「人間関係は等価交換が基本」って言ってたけど、あれは俺もそう思う。一見して一人で生きていけるように見えても、案外助け合って生きているものだよ」
両親が死んで路頭に迷っていたところを叔父に助けてもらった秋人にとって、この部分に関しては本当にそうだと実感を持って言えた。
「前にちょっと話しただけなのによく覚えているわね。あくまでも私は恩を受けたらそれを返すって意味で言ったのだけれど、確かに助け合いをしているとも言えるかも」
雪菜は違う角度から見た自分のモットーの解釈に感慨を覚えていた。
「だからまぁ、いくら俺がいろんな分野で完璧だからと言って、一人で生きていけるとは思っていない。人と関わることの重要性は理解しているよ」
少し臭いことを言ってしまったと照れる秋人を横目に、雪菜は最後に秋人が言った言葉について考えていた。
『人と関わること』
それは雪菜にとって、一番足りていないものだった。
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