二人の時間 その2

 秋人が最初に家に着いて出迎えの準備をしていると、雪菜もすぐにマンションへ着いた。雪菜は部屋に入るなり早々に料理の準備を始めた。昨日しっかりと掃除をしてもらったので、今日は夕飯を作ってもらうだけだ。


 カバンからエプロンを取り出すと、髪の毛をポニーテールに結わえてからエプロンを着た。


「そのエプロン、自宅から持ってきたの?」


「そうよ、やっぱり料理していると制服に汚れ着くのが気になるから」


 そう言うと雪菜は料理を始めた。食材を冷蔵庫からてきぱきと取り出す。この部屋のキッチンとリビングはつながっていて料理の様子が見られる。せっかくの機会なので秋人は見学していた。今日の晩御飯はカレーだ。


「肉じゃがとほとんど同じ食材だから買い足す必要がないし、一人分ならすぐ出来るわよ」


 料理音痴の秋人にはよく分からないが、カレーは煮込む必要があるので時間がかかるはずだ。食材の下処理にだって時間がかかる。そんな時間の要する料理を作っていたら勉強時間が減ってしまわないだろうか。


 だがすぐに杞憂だったと思い知らされる。雪菜は慣れた手つきで野菜の下処理を終え、十分もかからずに鍋に食材を入れて火を通し始めた。まるでライブクッキングでも見ているかのような鮮やかさだ。


 途中、「なにか手伝おうか?」と聞いたが、


「それじゃ等価交換にならないでしょ。というか基本中の基本だけど、人参の皮とかちゃんとむけるの?」


「え? 人参に皮なんてあるの?」


「……なにもしないで」

と言われてしまった。人参に皮があったことを秋人は知らなかった。


 そうこうしているうちにカレールーを入れる段階になった。あとは少し煮込んだら完成のようだ。調理開始からわずか三十分、そこには料理の神が存在していた。


「ものすごい手際が良いんだね、何年くらい料理やってるの?」


「う~ん、十二歳の時にお父さんが死んじゃって、それから家の手伝いをするようになったから、三年くらいかしら」


「三年、たった三年でここまでできるようになったんだ。すごい」


「三年もやればこれくらい簡単にできるようになるわよ。むしろカレー程度で驚かれるなんて、一体どれだけ自炊してこなかったの?」


「人生で自炊した回数何て片手で足りるよ」


「よくそんなんで一人暮らし出来たわね」


 そんな毒舌を聞いているうちにカレーが完成した。とりあえず一口だけ味見をさせてもらった。


「美味しい」


 とても三十分でできた料理とは思えない。


「よかった。既製品のカレールーだから味が酷くなりようがないけどね」


 自分だったら絶対できないと思いつつ、秋人は気になったことがあったので聞いてみた。


「てことは既製品じゃなくて、スパイスから作ったりもできるの?」


「できるけど面倒だから普段はしなわ。でも既製品のカレールーで作るときは色々と隠し味を足すようにしてる。例えばとんかつソースとか」


「とんかつソース? そんなもの入れて美味しくなるの?」


「なるわよ。味にもっと深みや複雑さが出て、ご飯に合う味になるの」


「へぇ~」


料理の世界とは実に奥深い。


「今回はとんかつソースが秋月君の家になかったから入れなかったけど、買い足したら今度作ってあげる。あっ、買い物は私も行くわ。秋月君に任せたらとんでもない量を買ってきそうだし」


 姫川さんは冷蔵庫の方に目を移す。よく分からず適当に全部特大パックでファミリー向けの量で買ってしまったため、同じ食材がかさばっていた。


「すみません、もちろん自分のお金で買うのでよろしくお願いします」


当分、食品の買い物は雪菜にご相談しようと秋人は心に決めた。



   ◆◇◆



「それじゃあ始めようか」


 雪菜の料理が終わると秋人は彼女の現状を知るべく、いくつか質問をすることにした。


 雪菜は秋人の向かい側、ローテーブルとソファーの間に座っていた。


「まずどの程度筆記が出来ているか知りたいんだけど、差支えなければ英語の授業でやった問題とかプリントを見せてもらっていい?」


「ん、もちろん。どうぞ」


 点数が書かれているものを見せるというのは人によって恥じらいがあるものだが、雪菜はあまり気にしていないようだった。カバンから一通り問題集やプリントを取り出す。


 どの問題も全体的に半分以上は当たっている。特段優秀というわけではなさそうだが、落ちこぼれではないらしい。


「うん、基本はばっちり出来ているみたいだね。特に文法と読解は完璧だと思う。でもリスニングは結構外してるね、リスニングが苦手って感じ?」


 ダイニングテーブルを挟んだ向かいに座る雪菜は、すこし億劫そうにため息をついた。


「そうなの、筆記は教科書に書いてあることを覚えれば良いだけだからそんなに苦労しないんだけど、どうしてもリスニングが苦手で。どうやって聞き取ればいいか分からないの」


 リスニングはやはり聞かないと伸びない。ただ日本人はリスニング以前に、皆根本的な欠点を抱えていることが多い。


「それじゃあ次は、俺が英語でいくつか質問をします。それに対して英語で答えて」


「分かった」


 秋人は少し咳ばらいをすると、頭の中を英語に切り替えた。


【週末にはよく何をして過ごしますか】


雪菜は少し目を細める。おそらく聞き取れない単語がいくつかあったのだろう。


【えっと……、よく料理をします】


 このレベルであればとりあえず問題なさそうだ。もう少しレベルを上げてみる。


【アメリカとカナダ、旅行するならどちらへ行きたいですか。また、その理由を教えてください】


 すると雪菜は目を少し細めた。


【えっと……、ごめんなさい、もう一度お願いします。】


もう一度繰り返す。すると今度は聞き取れたようで、カナダが好きで森を見に行きたいと答えた。アメリカにも森はあるけど、今はどうでも良いのでつっこまない。


 その後も少しずつレベルを上げて、いくつか質問を繰り返した。


「オッケー、だいたい分かった。以上です」


 雪菜はだいぶ疲れた様子で、頭を押さえていた。


「やっぱり全然ダメ、聞き取れないしちょっと話しただけで疲れた」


「うーん……」


 秋人は思わず苦笑いする。やはり雪菜も大抵の日本人と同じ欠陥を抱えていた。


「一つ聞きたいんだけど、中学の時英語の授業でどうやって発音を教わった?」


 少し考え込んで、一言。


「特に教わってない」


 秋人の予想通りだった。


「強いて言うならカタカナでどう発音するのか聞いたかな。大学だったらユニバーシティーとか」


 日本人が英語を話せない理由はこれだと秋人は思っている。発音を教えないのだ。教える学校もあるそうだが、少なくとも海原うなばら高校では全く教えていない。その所為で雪菜の発音も、はっきり言ってひどい状態だった。


「それじゃあ出来なくて当たり前だよ。英語の発音とカタカナは全く別物だよ。例えば日本人には「あ」って聞こえる音は英語だと何種類もある。アイスやアップルの「ア」も、日本語では「ア」だけど英語の発音記号を見るとどっちも全く違う音なんだ」


「待って、発音記号って?」


「……そこからか」


秋人は立ち上がると、本棚に仕舞ってあった発音教本に関する本を取り出した。


「発音記号、英語だとIPAって言うんだけど、簡単に説明すると英語の発音方法を記した文字かな。日本語の読み仮名に近いかも」


 雪菜に本を手渡すと、ぺらペらとめくって中身を確認しだした。


「あぁ、見たことある気がする。たしか教科書に出てくる単語の横に書いてあったかも。これ発音を表す文字だったんだ」


 秋人からすると発音記号すら教えない日本の教育はいかがなものかという思いがあるのだが、今はそんな不満について語らない。


「じゃあとりあえず、今日はこの発音記号の読み方を練習しよう。まずは母音からね。この本の十五ページを開いて」


 秋人がそう言うと、雪菜は姿勢を正して指定されたページを開いた。

結局この日、秋人と雪菜は終始発音の練習をすることとなった。



   ◆◇◆



「じゃあ終わり。って、どうしたの?」


 本を閉じると、雪菜は何か思うことがあるのかじっと秋人の顔を見つめてくる。美人なだけに無言で見つめられるだけでもなかなかの迫力があった。


「いや、なんていうかここまでちゃんとやってくれるとは思わなくて。発音記号とか全然知らなかったけど、秋月君の教え方が上手いからすぐ覚えられた。昨日机の上にあった翻訳の書類を見て思ったんだけど、やっぱりかなり頭がいいのね。みんなが完璧優等生っていうのも納得」


「一応学年一位でもあるので。完璧と思われることについてもうれしいよ」


「完璧と思っているのは他の人だけね。私は家事が全くできなかったり人参の皮の存在を知らなかったあたりから秋月君のことは完璧だとこれっぽっちも思ってないわ」


「水川さんも上げて落とすのが上手いね」


 突然の上げ下げに思わず秋人はつっこんでしまった。


「でも私はいつも学校で優等生ぶっている秋月君より今の秋月君の方が親しみやすくて良いわ。やっぱり人間ってちょっと弱点がある方がホッとするものよ」


「……そうだね、もう水川さんには完璧じゃないところを知られている所為かな、あんまり気を使わなくて気楽に話せるよ。水川さんも毒舌だけど学校でとは違ってフレンドリーだし、毒舌だけど」


「毒舌は余計よ。でも確かに私も変に警戒しなくて良いから、秋月君といる時は気楽かも」


 事実、学校では完璧に見られようと秋人はいつもどこか気を張っていた。しかし雪菜の前ではそんなことをしなくてもいいと思うと、少し肩の荷が下りたような気分だった。

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