幕間・またの名を第五話

幕間・またの名を第五話



「……失礼しましたー」

 ぺこり、と室内に向かって頭を下げ、恭二は面談室を後にする。

 既に辺りは夕方を越え、日没が迫りつつあった。時刻は完全下校時間ギリギリ。じきに、帰宅を促す放送がかかるだろう。

 こうして放課後に、担任に呼び出されるのは珍しくない。授業を休みがちな恭二に対する特別措置だ。面談、という以外に補習も兼ねていて、時には課題なども渡される。

 面倒でないと言えば嘘になる。教師と一対一で長時間過ごすのは肩が凝るし、思わずため息だってつきたくなる。

 だが、自分が授業に出ていないのは事実なのだ――たとえそれが体質の問題で、恭二自身にはどうにもならないのだとしても。サボりと一方的に決め付けられないだけ、今の待遇は恵まれている。

 ……そこで、ふと、足が止まった。

 昇降口へと続く廊下、の、途中。保健室のドアが、わずかに開いている。

(不用心……でもないのか? 学校内だし)

 前を通り際、なんとはなしに室内を見やって、

(…………先輩?)

 通り過ぎかけていた足が、思わず戻る。ちょっと迷い、考えて。結局、中へ入ることにした。音を立てないよう、そろそろとドアを開けつつ。

 わざわざそんなことをしたのには理由がある。


「すー……」


 この学校の保健室は広く、部屋の一角にソファとテーブルが用意されている。悩み相談など、養護教諭が生徒の話を聞くためのスペース。

 そのテーブルに、突っ伏して。柚月はすやすやと、子供みたいに寝入っていた。

 テーブルには、教科書とノートが広げられている。そのどちらにもびっちりと文字が書き込まれ、付箋やマーカーもあちこちに。普段から、熱心に勉強していることが見て取れる。

 しかし当の本人は、その全てを下敷きにしてすっかり熟睡の様子だった。

 ノートに押し付けられた頬肉は、ぺっちょりと潰れて餅のよう。うに、うにゅ……と漏れる寝言。絵に描いたように隙だらけで、優等生のゆの字もない。

 ふと、思い出すのは先日のこと。難しい問題を鮮やかに解いてみせて、クラスメイトにも教師にも賞賛されていた柚月の姿。

 彼らは柚月を褒めちぎりながらも、どこか、『白瀬さんならこのくらいは当然』と、そう思っているような節があった。それは、柚月がそれだけ信頼されているということなんだろうけれど。


 ――でもきっと、彼らは想像もしないのだ。柚月がこうして、影ながら勉強していること。時には、うっかりと、無防備に、居眠りしたりもすること。普段の優等生然とした振る舞いは、ちっとも、『当然』なんかじゃないのだと。


「……先輩。先輩、起きてください。もう下校時刻ですよ」

 そっと声を掛けるも、柚月はもごもご寝言を零すだけで目を開けない。

 仕方がないので、肩に手を置いて軽く揺り起こす。

「先輩……先輩ってば」

「んー……?」

 ふるる、と瞼が震えて、それからゆっくりと持ち上がった。寝起きの瞳がぼんやりと、恭二を見上げる。

 仕草は子供そのものなのに、薄く開いた目はどこか濡れるようで、いつもの柚月よりもよっぽど『大人』らしく見えた。

 なんとなく、一人で勝手に焦ってしまって、恭二は手を引く。

「まやまくん……? ろうして私の部屋に……?」

「いや。ここ学校ですけど」

「が、っこー…………?」

 はて、と。寝ぼけ眼が右を見、左を見、恭二を見。ごしごし、と目を擦って、もう一度見る。

 次の瞬間、くわ、と、その目が限界まで見開かれた。ぶわー! と首筋辺りから赤色がせり上がってきて、柚月はそのまま茹で上がった海老と化す。ビチビチと跳ね回るように、その両手が慌ただしく上下した。

「ま、ままま真山きゅん!? ち、ちが……! い、今のは目を閉じて瞑想を! 集中トレーニングの一環で、決して寝ていたわけでは!」

 慌てた様子で言い訳を並べる柚月は、そこでようやく、広げっぱなしの教科書やノートに気付いたらしかった。「いやー!」とわりかし本気の悲鳴を上げて、彼女は飛び込むように再びテーブルに突っ伏す。広げられた教科書……正確には、そこにありあり残る『わからないなりに一生懸命勉強してます感』を、恭二の目から隠すために。

「あ、あの! これは、そう、実は私の教科書ではなくて! クラスメイトの! アドバイスを! 相談されて! だから!」

 最早柚月の顔面は熱した鉄だった。打てばさぞかしよく伸びて鍛えられ、しなやかで強い鋼に育つ、かもしれない。本当に何を目指しているんだろう、この先輩。

「……借り物なら、もうちょっと丁重に扱ったほうがいいんじゃないですか。ノートの端、折れてますよ」

 『え?』と、柚月がちょっと体を起こす。ノートを気にしたというより、恭二の言葉に反応して思わず、という様子で。

「なんですか、その顔。先輩が言ったんでしょう、『クラスメイトの』だって」

「そ、それは、ええ、そうですが! た、確かにこれはクラスメイトにお借りしたもので断じて私物ではありませんが! ……でも、だって」

 柚月の目は明らかに何か言いたげで、しかし、それ以上の言葉はいくら待っても出てこない。

 もちろん、それが嘘だと言うことは、言われるまでもなくわかっている。『何も隠す必要はないのに』、とも。


 ……でも、思い出すのだった。


 皆が帰ってしまった教室で。自分が解いてみせた問題を眺めて、満足げに目をキラキラさせていた顔を。『私はすごいでしょ!』って、褒められたくてたまらない子犬のような、満面の笑みを。


 立派で、完璧で、大抵のことはサラッとこなせてしまう――そんな『自分』でいることで、柚月があんな風に、心から嬉しそうに笑うのであれば。


「……先輩がそう言うんなら、別に、疑ったりはしませんよ」

 ――ただ。それはそれとして、だ。

「でも、すごいですね。その『クラスメイト』の人」

「え?」

「いや、だって……熱心に勉強してるの、見ればわかるんで」

 教科書は開き癖がついて、すっかりくたくたになっている。まだ一学期で、渡されて間もないはずなのに、だ。広げられたページ以外にも付箋がびっちり貼られて、昨日今日、付け焼き刃で勉強しただけでないことがよくわかる。

「先輩も知ってるだろうけど、俺、授業休みがちじゃないですか。だからあれこれ言われないように、自習だけは昔からそこそこやってたんですけど……でも、勉強なんて退屈だし、全然続かなくて。普通にサボってばっかですよ」

 少なくとも恭二は、こんなにひたむきにがむしゃらに、何かに取り組んだことなどない。

「だから。すごいなって、思います」

 柚月にとって、『優等生でいること』が重要だというなら、それを否定しようとは思わない。他でもないそのために、きっと彼女は努力を重ねているのだろうから。

 けれど、その結果として、柚月の積み重ねた努力が、誰にも知られず、理解されず、最初からなかったように扱われるのは、嫌だと思うのだ。

 それは、柚月にとっては水面下で必死にバタ足するようなもので、人には絶対見られたくないものだったのかもしれない。


 でも自分は、見付けてしまったから。


 だったら、無視はできない。したくない。


「……いや、まあ。そんだけ、ですけど」

 勢いは最後まで続かずに、締まらない言葉が口をついて出る。視線の置き場が定まらず、柚月の顔を見たり、意味もなく時計を確認したり。

 二人を静寂から引き上げてくれたのは、下校を促すチャイムだった。柚月は『ハッ!?』と腰を浮かし、わたわたと教科書を閉じる。

「あ……と。じゃあ、俺も行くので……」

「え、あ――」

 それは。多分、反射的に、だったのだろう。

 控えめに袖を掴まれて、恭二は振り返った。引き留めたはずの柚月は一瞬目を丸くし、続いてようやく自分の行動に気付いたらしい。せっかく普通に戻った顔色を再び真っ赤にして、『ばっ!』と、放り出すように手を離す。

「あ、え、あの、こ、これは、あの……!」

 あばば、だか、ひょわわ、だか。とにかく奇声の類いを唇から漏らしつつ、柚月は両手を彷徨わせたり、かと思えばピーン! と伸ばしたり。

 そうしてひとしきり不審な動きをした果てに、

「い、っ……一緒に、帰りませんか……? その、昇降口、まで……」

 それは一緒に帰るというんだろうか。恭二は思い、けれど、言葉にまではしない。

 だって、言った柚月は本当に、今にも倒れそうなほど頬を紅潮させていて。これ以上何か言うのは、さすがに意地が悪いと思ったのだ。

「あー……じゃあ、そこまで」

「は、はい」

 カバンを手にする柚月と、二人並んで、廊下へ出る。

 柚月は何も言わない。その顔は例によって、見慣れた赤色。日はとっくに暮れているのに、夕焼けの中に置き去りにされたみたいに。自分達の周りだけ、時間が止まるように。

 でも、そこに浮かぶ表情は、いつもの、目を回すような照れ方とは違う気がした。


 気がするだけかも、しれないけれど。


「……真山くん? ど、どうかしましたか……?」

「いえ。なんでも」

 視線に気付いたのか、柚月がこっちを見てきた。目を合わせていると考えていることを見透かされそうで、恭二は顔を背ける。

 途端、柚月は何かに気付いたかのごとく、「ハッ!?」と息を飲み込み、

「な、なんですか!? まさか顔に、ノートの痕でも!?」

「違いますよ。大丈夫です、なんもついてないですから」

 ぐしぐし顔を擦りだす柚月、その横顔を見つめる。見て、知らず知らずのうちに、口元が緩んでいる自分に気がつく。


 できるだけ、一人でいたいと思っていた。そうすれば誰にも心配されない。誰にも迷惑を掛けない。

 上手に人を頼ると言うことができないまま、見た目ばっかり成長して。それが、いわゆる『弱さ』なんだということは、指摘されるまでもなくわかっていた。わかっていても変われなくて、できないものは仕方ないじゃないかと、開き直りのように思ったりもしていた。


 でも、目の前のこの先輩は、こんな自分に輪を掛けて、人を頼ることがきっと下手くそだ。

 それを弱さだとか、不器用だとか、そんな風には思わない。自分だって偉そうなことは言えないって、知っている。


 知って、いるから。


 似たもの同士、不器用同士。もしかしたらできることもあるのかも、なんて。ずっと助けてもらうばっかりだった自分でも、誰かの助けになれるかも、って。


 淡く浮かぶ思いは気恥ずかしく、心の中でさえ上手く形にはできずに。柚月の横顔も、視界には入れられないまま、ただ、とっくに沈んだ夕日だけを、窓の向こうに探していた。

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