第四話


 ――ふと、居眠りから目を覚ますと、さっきまで授業を受けていたはずの視聴覚室は、既にもぬけの殻だった。

 クラスメイトは皆、教室に戻った後なのだろう。眠りこけている恭二は置いて行かれたというわけだった。

 それでもせめて、寅彦ぐらいは起こしてくれてもいいと思うのだが……と思った矢先。机の上に、ノートの切れ端を発見。


『疲れてるみたいだし、起こさないどく。キツかったら保健室行けよ。先生には適当に言っといてやるから』


 どうやら、気を遣われたらしい。

(……別に、いいんだけどな)

 ありがたいと思う反面、気持ちはどうしても、申し訳なさのようなものが先に立つ。

 体が弱いのは昔からだ。今でこそちょっとした貧血程度に落ち着いているけれど、小学校くらいまでは、まともに授業に出られない……どころか、そもそも学校に行けない日すらよくあった。

 そのたびに、自分は周りの人に心配を掛けて。迷惑も、掛けて。

 本来なら、気まずさなど覚える前に、感謝の気持ちを示すのが筋なんだろう。相手の真心を素直に受け取って、できる範囲で恩返しをする――申し訳ないと思ったところで、体質を変えられるわけでもないのだから、きっと、それが正解なのだと。

 でも、恭二は、そういう風にはなれなかった。

 人に気を遣われるたび。普通のことが普通にできない自分を、思い知らされるようで。

 だから、できるだけ、一人でいたいと思うのだ。そうすれば誰にも心配されない。誰にも迷惑を掛けない。多少不便なことがあっても、『こういう風に生まれたんだから仕方ない』と思えば……そうやって諦めれば、少なくとも、人に負担を掛けることはないのだから。

 そうやって何もかも飲み込んでいるほうが、誰かに助けを求めるより、恭二にはずっと簡単で――。

(……って、こういうこと考えんのもなんかアレだな)

 悲劇の主人公を気取っている場合じゃない。さっさと教室に戻ろうと、席を立つ。

 既に休み時間は半分以上過ぎた後で、周囲は静かなものだった。この辺は特別教室ばかりだから、授業がなければ生徒も通りかからない。


 ――が。教室の外に出るなり、恭二は目撃してしまった。人気の耐えた廊下、四つん這いでもぞもぞと蠢く、怪しい人影を。


 というか、柚月を。


「え……!? ま、真山くん!? そんな……どうしてここに!?」

 ドアの音に気付いたのか、床に這いつくばったまま、柚月が振り返る。

 ちょうどこっちに尻を向ける格好。スカートの裾が持ち上がり、なかなかきわどい事態になっている。恭二はさりげなく目を逸らしつつ、

「いや、普通に移動教室で……というか、まず立ち上がったほうがいいんじゃ」

「わわ、わかっています!」

 ぴょん、と、跳ねるように立ち上がる柚月。スカートの件は……多分、この顔は気付いていない。

 わざわざ『パンツ見えそうでしたよ』と指摘するのもアレだ。話題を変えがてら、素朴な疑問をぶつける。

「そういう先輩こそ、こんなとこに這いつくばって何を?」

「は、這いつくばってとはなんですか! 私は次の授業の準備を……って、それどころじゃないんです! 拾わないと……!」

 見れば、辺りにはプリントらしき紙が散らばっている。さっきの四つん這いポーズはこれを拾おうとしていたのだろうか。それにしたって、他にやりようがあったと思うのだが。

 慌てた様子で、プリントを拾い集める柚月(今度は普通にかがみ込んで)。

 この状況で、「じゃあ俺はこれで」ともいかないわけで。

「……これ、集めればいいんですか」

 足下。柚月から離れた場所に散ったプリントを拾う。

 慌てたように、柚月が顔を上げた。

「い、いえ。私が誤って落としたのですから、私がちゃんと――」

「別にたいした手間じゃないですし。二人でやったほうが早いでしょ」

 言葉通り、さしたる時間も掛からず、恭二はプリントを回収し終える。

「はい、どうぞ。見えてる範囲は拾いましたけど、一応、枚数合ってるか確認してください」

「あ、ありがとう、ございます……助かりました。次の授業で使うものだったので」

 言いながら、柚月は集めたプリントをペラペラとめくっている。汚れがないか確認しているみたいだった。

「へえ。先生に頼まれたとかですか」

「いえ。これは、私が自分で用意したものです」

「……先輩が?」

「次の授業で、前回の小テストが返却される予定で。でも、少し難しい内容でしたから……クラスの中にも、『わからない』と言っている人が多かったんです。だから、先生とも相談して、わかりやすいように解説をと」

 とっさに言葉が出なくて、柚月が持つプリントを見やる。

 パッと見、それはしっかりした出来に見えた。教師が用意したと言われても頷けるくらい。

「……これ、先輩が一人で?」

「ええ、そうですよ? 私が提案したのですから、先生にご迷惑は掛けられませんし。……もちろん私はオトナですから、この程度の作業は簡単なことですが」

 ふふふーん、と、柚月の顔に、最近見慣れつつあるドヤ顔が浮かぶ。

 しかし心なしか、その顔色は優れない。目の下にもうっすらクマが浮いて、眠そうに見える。昨夜、夜更かしでもしたのだろうか。このプリントを作るために。

「ほら。私はともかく、真山くんはもうクラスに戻らないと。次の授業に遅刻してしまいますよ。……プリント、拾ってくれてありがとうございますね」

 自慢話をして気分が良かったのか、柚月は足取りも軽く、近くの教室に入っていった。『寝てないんじゃないですか?』って、『本当は簡単なんかじゃなかったのかも』って。過った疑問を確かめる暇もなく。




 ――次の休み時間。授業が終わると、恭二は早々に教室を出た。

 知らず知らずのうちに、早足で。向かったのは特別教室のある棟。柚月達のクラスが、授業を受けていたであろう場所。

「やっぱり、白瀬さんはすごいな。もう私に教えられることなんて何もないよ」

「いえ、そんな。私なんて、まだまだですから……でも、先生にそう言っていただけて光栄です」

 もう授業は終わった後のようで、教室のドアは開いている。

 にもかかわらず、教室の中には結構な人数の生徒がいた。その中心に、柚月の姿がある。

黒板の前に立ち、年配の教師からの賛辞を優雅な笑みで受け止めていた。手にチョークを持っているところを見ると、黒板を使って何か問題でも解いていたのかもしれない。

 柚月と話している教師は、恭二も知っている。何かと厳しく、試験でも難しい問題を出してくることで一年の間でも有名だった。それが今は、満面の笑みを浮かべて、柚月を褒めそやしている。

 そして、彼女に尊敬の眼差しを向けているのは、教室に残った他の生徒も同様だ。

 皆に敬われる、完全無欠の優等生。少なくとも勉学においては、その噂は決して間違いではないのだろう。

 教師に、同級生に、口々に褒め称えられて。けれど、柚月の反応は落ち着いたものだった。過剰に謙遜もせず、かといって驕りもせず、落ち着いた笑みを崩さない。それこそ、『大人』と呼ばれるに相応しい対応。

「卒業後の進路を決めるときはぜひ相談してくれ。君が理系に進むなら全力でサポートしよう。まあ、君ほどの頭脳があれば、私の指導なんていらないとは思うがね」

「ありがとうございます、先生。その時はぜひ、お力を貸してください。……あ、黒板はそのままで。私が消しておきますから」

 話は終わったようで、教室内に解散の空気が漂う。

 とっさに、恭二は近くの教室に身を隠した。別にやましいところはないけれど、盗み聞きをしていたと思われるのもいい気がしない。

 教師や他の生徒が去ったのを確認してから、再び教室の中を覗くと、柚月は一人、まだ黒板の前に残っていた。

 そして、一人で黒板を見上げる横顔には、最早、さっきまでの大人びた雰囲気は欠片も残っちゃいなかった。自分が解いてみせたらしい問題を眺めて、『ふっふーん!』と得意げな顔をしている。今にも、『さっすが私!!』とか言い出しそうな表情だ……と思っていたら。


「ふふふ……さっすが私!!」


(……本当に言ったよ、この人)

 しばらく観察していたら、今度は眺めるだけでは飽き足らず、いそいそとスマホで写真を撮り始めた。記念に残しておくのかもしれない。多分、後から眺めて、そのたびにさっきのふっふーん顔を浮かべるのだろう。『さすが私!!』と、そのたびに言っちゃうのだろう。

(……どうすっかな)

 別に、知らないふりで通り過ぎてもいいのだ。というか、そうするのが無難な選択だとも思う。

 だけど、柚月は黒板眺めたまま一向に動く気配がなくて、このままだと、休み時間が終わるまで延々と『ふふふーん』してそうな気がした。

 ……それに。辺りに人気はないけれど、忘れ物をしたとか、そんな理由で、柚月のクラスメイトが戻ってこないとも限らない。

 そうなったら、多分、柚月は困るだろうから。

「……楽しそうなとこ悪いですけど、あんまのんびりしてると、次の授業遅刻しますよ」

 次の瞬間、柚月はガンッ、と黒板に頭から突っ込んでいった。予想できたリアクションだったので、恭二はもう驚かない(呆れないとは言ってない)。

「ま、真山くん!? どうしてここに!?」

「いや普通に移動教室で。今から戻るとこでした」

 廊下から話すのもなんなので、とりあえず中に入ってみる。

 廊下にいたときは見えなかったけれど、黒板はびっしりと文字で埋め尽くされていた。無数の数字と、見たことのない記号や単語。正直、恭二には何が書いてあるのかさっぱりわかりはしない。

「全然わかんないっすね」

「当然じゃないですか。二年生の内容ですよ。私たちのクラスにだってわからない人が多いのに……。まあ? 私はこうして解いてみせたわけですが。どうですか、真山くん。少しは私の偉大さがわかりましたか?」

「はい」

 否定する理由もなかったから、素直に言う。

 でも、柚月が『バッ!』とすごい勢いでこっちを振り返ってきたから、思わずたじろいだ。

「な……なんすか」

「べ、別に、なんでもありません。ただ……いつも失礼なことばかり言う真山くんでも、素直に人を褒めるときがあるんだと思って」

「俺は客観的な事実を口にしているだけで、別に先輩を馬鹿にしようとか思ったことは一度もないっすよ」

 普段の柚月があまりにもあれなだけで。

「……先輩が頑張ってるのは、知ってます。ちゃんと」

 それは、難しい問題が解けたからとか、そういうことではなく。


 皆のために、って。睡眠時間を削ってまで、わざわざプリントを用意して。


 缶コーヒーが飲めたくらいで『どうですか!?』なんて言ってくるくらいなのに。そういう努力はちっとも、褒められようとはしないこと。


「俺、嫌いじゃないですよ。先輩のそういうとこ」

 またドヤ顔するかと思ったけれど、意に相違して、柚月は無言だった。くっ、と、何かを堪えるみたいに、柚月の唇がわなわなする。ついでに肩もぷるぷるする。

「わっ……わかれば、いいんです。そうです、私は、オトナなんですからね! 真山くんより、一年も長く生きているんですから! このくらい当然ですっ」

 腰に手を当てて、『ふん!』と勢いよく胸を反らす柚月。

 ……が、勢いがつきすぎたみたいだった。それとも、これも寝不足のせいなのか。柚月は仰け反った拍子に体勢を崩し、そのまま転びそうになる。

「ちょっ、危な――」

 とっさに柚月の手を掴み、倒れないように引っ張り起こす。


 ……でも、力加減を間違えた。

 それは焦ったからというのもあるけれど、単に恭二が未経験で。

 女の子の体が、こんなに軽いものだったなんて、知らなかっただけ。


 気付いたら、想像よりもずっと柔らかな感触が、腕の中に。

 驚いたようにこっちを見上げる、柚月の顔を直視できない。距離自体なら、この前の『きしゅ』未遂のほうがよっぽど近かったはずなのに。

「えっと……大丈夫、ですか?」

「え、ええ……ありがとうございます」

 微妙に視線を逸らす恭二をよそに、柚月は見た目冷静だった。何事もなかったように体勢を立て直すその横顔を見ながら、ちょっとだけ「あれ?」と思う。

「なんですか? 意外そうな顔をして」

「いや……なんていうか、思ってた反応と違ったんで」

 ここ最近の柚月であったら、こういう場面は大抵、ぷるぷるしてわなわなしてブワーッみたいになっていたのに。

「……ふっ」

 訝る恭二をチラ見して、柚月は唐突にキメ顔。

「当然です。私はオトナですから。ちょーっと男子に抱き留められたぐらいで、慌てたりビックリしたりドキドキしたり、まして真っ赤になったりなんてしませんとも。ええ、この程度なんでもありません。オトナですから」

 『では』と、無駄に得意げな顔のまま、柚月は教室を出て行った。まだ中に恭二がいるのに、ピシャリとご丁寧にドアまで閉めて。

(よくわかんないな、あの人……)

 どうもスッキリしない気持ちを抱えつつ、恭二もいい加減、自分の教室に戻ろうとドアを開ける。


 そして発見した。


 ドアを開けて、すぐ目の前の廊下。せめてどっかに隠れたらいいのに、その余裕もなかったのか。真っ赤な顔を隠すみたいに蹲る、誰かさんの姿を。


「~~~~~っ!!」

「やっぱ照れてるんじゃないですか」

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