第124話 ※この想いもまた、本物です。

 マンション故の短い廊下。


 奥の部屋に電気一つ点いていないせいだろう。


 薄暗くて不気味なそこを、エルナは一歩、また一歩と慎重に進んでいく。



 ──うぅ……明かりくらい点けてよもうっ……!



 ただでさえ、怒っている彼の所へ向かうには勇気が必要だというのに。


 その怖い雰囲気のせいで余計に歩みが遅くなってしまうではないかと、内心で不満を垂れるエルナだったが、



「ひ、日並くーん……?」



 こそこそとリビングに侵入したところで、なんとか声を絞り出す。


 ご機嫌を窺うようなか細いそれに、しかし反応は返ってこず、



「ぴ!?」



 代わりに伝わってきたのは、どこからか流れてきた冷たい空気だった。


 『ヒョオォォ……』と鳴る不愉快な音に釣られて見れば、ベランダへの窓が僅かに開いていることに気がつく。



 ──わざとなのっ……!?



 鳥肌が立つようなコンボに、微かに怒りが湧いてきたエルナは、ズカズカと前へと進んで行き、



 ──あ。



 窓に手をかけたところで、思わず動きを止めてしまった。


 もちろん、この期に及んで怖くなったからというわけではない。



 ──日並くん……。



 ベランダの方から、何者かがすすり泣く声が聞こえてきたからだ。


 流石に、それが誰なのかくらい分かっているエルナは、今までとは別の意味で尻込みしてしまう。


 彼が泣いたところを見たこと自体はあったが、それはあくまでもらい泣きだったりで、今の彼の心情とは全く別物だろう。


 わざわざ一人、こんな所で泣いているということは、それだけ見られたくないに違いなく、



 ──いいのかな。



 そんなところに、特段仲が良いわけでもない──しかも女子である自分が割り込んでいいものなのかと、エルナは頭を悩ませた。


 余計に彼を困らせるだけなのでは無いかと、ついネガティブな方向に考えてしまう。



 ──ええい、ままよ!



 とはいえ、ここまで来て引き下がる気も無かった。


 自分だって恥ずかしいところを見られているのだと、無理やり言い訳しつつベランダに勢いよく飛び出し、



「っ……!?」



 当然、来るとは思っていなかっただろう彼は、驚きに目を見開く。



「い、石徹白さんっ……なんでっ……」



 目もとを赤く腫らした彼は、それを隠すように慌てて顔を逸らした。


 その困ったような、恥ずかしいような、はたまた意地を張るような仕草に、



 ──うっ!!



 エルナは不意に胸を打たれていた。


 思えば彼は、いつも自分を取り繕っていたのかもしれない。


 故に、こうして弱い部分を見せてくれるのが初めてというギャップからか、愛おしさのような感情が芽生え始めてしまったのである。



 ──って、違う違うっ……。



 が、今はそんなことに悶えている場合ではないだろう。


 なぜここにいるのかという彼の疑問に、ひとまずどう答えたものかと逡巡したエルナは、



「……遊愛ちゃんと何があったの?」

「っ!」



 結局、面倒な問答をするよりも、単刀直入に尋ねることを選んでいた。



「そ、それは……」



 砂埃を被ったベンチに座り、相変わらず俯いたままの彼は、予想通り言葉を詰まらせる。


 そう簡単に言えるようなことならこんな風にはなっていないだろうと、当たり前のことを考えつつも、



「私には言えない?」

「っ、そういう、訳じゃ……」



 あえて、容赦なく攻めたてていった。


 二人座るのがやっとな小さいベンチに無理やり腰を下ろすと、肩が触れ合うのも気にせずに耳もとで囁く。



「じゃあ、教えてよ。私、遊愛ちゃんのこと知りたいんだけどなー?」

「うっ……」



 そして、自分には知るだけの権利があると、そう主張した。



 ──ちょっと意地悪かな……?



 これに、苦しげに声を漏らした彼に対し、ほんの少しの罪悪感を抱くも、



 ──でも、ちょっと楽しいかも?



 本心では、なぜだか悪くない気分だった。


 いつも散々な目に合わされているからか、それとも、単純に困る彼のことが可愛く思えてしまうからか。


 たぶん、どっちもなのだろうと、どこか他人事のように考えていたその時。



「分かった……話すよ……」



 エルナからの圧に耐えかねたのか、彼の口から諦めたようにぼそりと呟かれた。



「……友戯とはその、夏休みの終わりあたりから距離感ができてきてさ」



 そして、幾度か深呼吸を繰り返すと、やがて訥々と語り出してくれる。



「最初は偶然かなとも思ったんだけど、少しずつおかしいって気づき始めたんだ。それで、もしかして友戯の方から構ってもらってばかりだったから、愛想を尽かされたんじゃないかって、思ったんだよね……」



 一度動き出した舌は止まることなく、あるがままのことを素直に伝えてきて、



「そしたら、景井に上手く言いくるめられて、ちょうど良い機会だと思ったんだけど……ははっ、まあこうなっちゃったわけだよ……」



 自虐的に笑う彼の姿は痛々しく、こちらまで心苦しくなってしまう。



「そう、だったんだ……」



 話に区切りがついたのを悟ったエルナは神妙に頷き、



「でも、なんであそこまで……?」



 なおも残る疑問を、正面からぶつけた。


 距離を取られ、努力が上手くいかなかったのは分かるが、それだけにしては些か過剰な反応だったように思えたからだ。



「…………」



 しかし、流石にこれは核心に迫り過ぎたのか、彼は急に黙りこくってしまう。


 これは踏み込みすぎたかもしれないと後悔するエルナに、



「…………から」



 彼は聞き取れないほどに小さな声をこぼした後、



「友戯が俺に、隠し事してるのが、なんか嫌だったからっ……」



 泣きそうに歪んだ表情をしながら、震える声でそう明かした。



「そんなに言えないことなのかってっ……」



 目の前にエルナがいるにも関わらず、激情を隠しきれていない。


 きっと、それほどまでに辛かったのだろう。



「そんなに俺と、話したくないのかってっ、そう思ったんだよっ……」



 様々な想いの乗った言葉は、他人であるはずのエルナの心さえ震わせてきて、



「それにっ……」



 ふと、何かを思い出したかのように言葉を止めた彼は、とうとうそのまなじりから雫を流してしまった。


 まだ、何かある。


 そう思ったエルナは、これ以上は深入りするべきでないかもしれないと考えながらも、溜まった唾を呑み下し、



「……それに?」



 己の心に従うまま、静かに尋ねた。


 そして、ほんの数秒、音が止まった後、



「友戯、に……」



 彼は今まで一番、落ち込んだ声色で親友の名を口にし、



「好きな人ができたかもしれなくて……」

「っ!」



 エルナにとっても、想定外の言葉を続けた。



 ──遊愛ちゃんに……?



 考えなかった、ということはない。


 彼女とて年頃の女の子で、そういった気持ちに目覚めるということもありえるとは思っていたからだ。


 ただ、もしそうなるとしたら目の前の少年に対してだと思っていたため、彼の言葉は意表を突くものになっていた。



「ははっ、おかしいでしょ? 別に、俺はただの友達なのにさ……心のどこかで、嫌な気持ちになるんだよ……」



 乾いた笑いをこぼす彼は、自分で気づいているのかどうかは分からないが、心の裏側を垣間見せてくる。



 ──やっぱり。



 不意の情報にズキリと心を痛めるエルナだったが、すぐに雑念を振り払うと、



「そんな資格、どこにも──」



 自嘲するように吐き出された彼の言葉を、



「あるよ」

「っ……!」



 躊躇うことなく遮った。



「小さい頃から仲が良くて、高校生になっても変わらなくて。それこそ、最近なんかそこらの恋人よりイチャイチャしてたんだもん。これでいきなり他に好きな人がいますーなんて言われても、納得いかなくて普通でしょ」



 自然と溢れ出した言葉には、どこか自身の羨望も含まれていた気がしたが、このくらいは許されて然るべきだろう。



「だいたい、私にも何にも話してくれてないし、今回は流石に遊愛ちゃんにも悪いところあるって」



 そもそも、そんな情報はエルナ自身も初耳であり、そういう意味では彼とあまり変わらない気持ちだった。



「石徹白さん……」



 あけすけと話すエルナに、何となく思っていることを読み取ったのか、彼は僅かに安堵したような感情を見せ始め、



「そう、なのかな……」



 最後に、念押しとばかりに再確認してくる。



「そうだよ、きっと」



 もちろん、エルナの答えは決まっていて、



「だからほら、ガツンと言ってやって、それで──」



 一瞬、このまま放っておけば彼への想いが成就するのではと、邪な企みが浮かんでくるが、



「──仲直り、しよ?」



 そんなもの、大切な彼らのためなら些細なものだと、心からの笑顔を浮かべながら手を差し伸べるのだった。

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