第116話 ※やはり想う者同士は惹かれ合うものです。

 風を切る音と、絶え絶えに吐き出される息の音。


 そして、痛いほどに拍動する心臓の音を耳に、遊愛は住宅街を駆ける。



「はぁ……はぁ……!」



 あの場を飛び出してからほんの数分、息をつく暇もなく走り続けた結果、気がつけば見慣れた玄関扉が視界に入ってきていた。


 しかし、手を胸に当てながら呼吸を整えようとするも、まるで落ち着く気配が見えてこない。



 ──ダメだよ、日並。



 無意識のうちに浮かんでくるのは、先ほどの光景。


 彼から感じた腕の温もりは、未だ明瞭な記憶として遊愛の心へと染み込んでくる。



「あ、お帰りなさい遊愛──」



 今すぐ落ち着ける場所に行きたい──そう考えた遊愛にはもう、母からの挨拶に返事をする余裕もなく、



 ──あんなこと、されたら。



 足早に自室へと駆け込んでいった。


 そのまま、着替えることも忘れてベッドの中に入ると、以前彼から貰ったぬいぐるみを胸に抱えて目を閉じた。


 もちろん暗闇の中に想像するのは、大切な友である彼の顔であり、



 ──期待、しちゃう。



 そんな彼の腕に包まれる、自分の姿でもあった。


 ハッキリと、彼の意思で掴まれ、抱き寄せられる──それを思い出すだけで、鎮めるべきものも鎮まらなくなり、



 ──ダメ、なのにっ……。



 高鳴る鼓動の音に任せて、その先を想像してしまう。


 それがどれだけズルいことなのか分かっていながらも、もしあのまま受け入れていたらと、そう思わずにはいられないのだ。



 ──ああ、ルナ……ごめん……。



 親友である少女の気遣いに甘える自分が嫌いになる。


 親友という立場を利用して、彼を独占しようとするそのやましい心が醜くて堪らなくなる。



「っ……ひなみっ……」



 それでも、今この時の想いを内側に留めておけるほど、大人でもなかった。


 布団の中にこもったまま彼の名を呼ぶと、遊愛は胸に抱くぬいぐるみを強く握りしめ、



「遊愛、何かあったの……?」

「っ!?」



 直後、意識の外からかけられた声に、これでもかというほどに肩を跳ねさせる。



「え、あ、なにっ……!?」



 先ほどまでとはまた別の理由で動揺させられた遊愛は、慌てて目を開きながら声を返すも、



「あっ、ごめんねっ! 遊愛もそういうお年頃だもんねっ……」

「っ……ち、ちがっ……!?」



 母は布団にこもって顔を赤くする娘に何を思ったのか。


 なんとも気まずそうな様子のまま、すぐに部屋を出ていってしまった。



 ──あぁっ……もうっ……!!



 次から次へとやってくる問題に、何から対処すべき困惑した遊愛は、



 ──ええっと、とりあえずっ……。



 母を追いかけるためにベッドから降りようとし、



「…………」



 しかし、焦ったたまま行っても余計に混乱を招くのではと、結局その気にもなれず、一旦落ち着くために無言で布団の中へと戻っていくのだった。









 その後、時間も経って冷静さを取り戻した遊愛は、相変わらず布団の中にこもってはいながらも、改めて自分の置かれている状況について考え始めていた。



 ──やっぱり、このままじゃダメだ。



 今のままでは、遅かれ早かれ良くない結末になることは間違いない。


 少しずつ距離を取っていけば自然と適正な関係になれると思っていたが、今日のように向こうから招かれることもあるのだ。


 そうなっては、自身の薄弱な意思では抵抗することもできず、最悪の場合そのままいくところまでいってもおかしくないだろう。



 ──でも、どうすれば……。



 ただ困ったことに、恋愛相談に乗るという形ですでに了承してしまっている。


 そして、それを言い訳にあんな大胆なことを毎回されようものなら、うっかりその気になってしまうのもありえないことではない。



 ──そうだ。



 だがここで、逆に思いつく。



 ──恋愛相談。



 いっそのこと、この流れに乗っかるのも一つの手では無いかと。



 ──ルナにも協力してもらえば、私一人で会うことも無い。



 流石の日並も、彼女がいる前で同じことはできないだろう。


 さらに、必然的に二人が出会う口実を作れるため、彼女への恩返しとしても完璧。


 そこからどうなるかまでは分からないが、今の気まずそうな関係性よりかはよほどマシなはずである。



 ──よし、そうと決まったら。



 思い立ったが吉日というものだ。


 結愛は間髪入れずにスマホを取り出すと、何を迷うことも無く親友の少女へと連絡を試みるのだった。









 部屋の真ん中で一人坐禅を組み、心頭滅却していたその時、



「っ!」



 軽快な着信音が鳴り響いたことで、一時中断させられる。


 一つ息を吐きながら足を崩すと、自身のスマホを取るために手を伸ばし、



 ──遊愛ちゃん……?



 画面に映った名前に若干の違和感を覚える。



 ──日並くんの家に行ったんだと思ったけど。



 というのも、女子同士の会合中に突如、用事があるからと抜け出した少女からの連絡だったからだ。


 本人は隠せているつもりだったのかもしれないが、長年彼女を見続けてきた自分からすれば、明らかに浮かれているのが分かった。


 つまり、彼女は大好きな親友の少年に呼ばれたということであり、今もまだ二人で楽しんでいるのではないかと予想していたのだが、



 ──何かあったのかな。



 わざわざこちらに電話をかけてくるということは、相応の理由があるに違いない。


 故に、特に悩む理由もなくエルナは通話ボタンを押した。



「もしもし、遊愛ちゃん?」

『あ、ルナ。今大丈夫?』



 すると、当然ではあるが、耳馴染みのある少女の声が聞こえてくる。



「うん、大丈夫だけど……どうかしたの?」



 ひとまず要件の方を確認しておこうと、軽い感じで尋ね、



『えっと……実はさっき、日並に呼ばれてたんだけどさ』



 予想通り、彼の家に行っていたことを教えられた。


 もちろん、分かりきっていたことではあるが、心の方ではつい、彼と二人きりでいたのだということにモヤモヤとした感情が芽生えてきてしまう。



『その、景井くんの恋愛相談? みたいな感じだったんだよね』



 が、続く言葉を聞いていくうち、どうやら二人でしっぽり楽しんでいたという感じではないことを察し、



『それで、私だけじゃやっぱ難しかったからさ』



 段々と、電話をかけてきた理由に気がつき始めると、



『ルナも一緒にどうかな……って』



 一転して、どこか喜ばしいような、くすぐったい感情が心の片隅から湧いてきていた。



 ──って、ダメダメっ……!!



 しかしすぐに、それが都合の悪い案件であることを思い出したエルナは首を横に振る。



 ──断らないと。



 もしこの話に頷けば、日並くんと会う口実ができることは言うまでもない。


 ただし、それはエルナにとって危険な出来事であり、とても看過できるものではなかった。



「え、ええっと……」



 ところが、いざ断ろうとすると、何故か上手く言葉が出てこない。


 断るのが正解のはずなのに、心のどこかではそうしたくないという思いがあるのか、無意識に邪魔をしてくるのだ。



『……ルナ?』

「あ、うんっ、ちょっと待ってね……!」



 当然、そんな風に黙り込んでいれば不自然に見られても仕方がない。



 ──う、うぅっ……。



 追い詰められたエルナは、スマホを顔から離しながら小さく唸り、



 ──日並くんと……ああでもっ……。



 やがて脳の限界がやってきたのか、視界がグルグルと回り始める。


 そして、とうとう致命的なエラーを引き起こした思考回路は、



「……うんっ、もちろんいいよっ!!」



 何の恥ずかしげもなく、嬉しそうに大声を出すことを承認してしまうのだった。

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