第108話 ※恋は恥ずかしいことではありません。
練習を始めてからはや十数分。
「み、見て日並くんっ」
未だ手厚い補助はありながらも、石徹白さんの身体は少しずつ水の上に浮かぶようになり始めていた。
自身でもそれが分かったのか、純粋な笑顔を浮かべる彼女だったが、
──いや距離感よっ……。
改めて、水着の女の子と密着しているという状況にそれどころではなかった。
最初こそ勢いでどうにかできたものの、時間が経つに連れ落ち着いてくるのは必然。
トオルは手の上に走る柔らかな感触に意識を持っていかれ、油断をすればムニュっといってしまいそうなほどに動揺していた。
──み、見てもいいのか、これはっ……!?
さらに言えば、視覚的な方面でも刺激が強く、水面にプカプカと浮き出ているお尻には特に視線が吸い寄せられてしまう。
ただ、石徹白さんがうつ伏せ状態なこともあって、見るだけなら咎められる可能性も低いだろうと、そう慢心するも、
「……ねえ、日並くん。さっきから変なとこ見てない?」
「えっ!?」
そんな邪な考えを見透かされたのか、突如振り向いた石徹白さんに横目で睨まれてしまった。
「その反応、見てたんだ」
「う、あのですねっ……」
しどろもどろになったトオルは、まとまらない頭を必死に回し、
「石徹白さんがこんな格好で目の前にいるからっ……」
結果、出てきたのは何とも情けない責任転嫁であった。
実際その通りではあるのだが、これではただ自分がスケベであることを告白しているようなものだろう。
言った後に即後悔するトオルだったが、
「それは、だってっ……」
何故か、彼女は急に弱った声色でボソボソと喋り始めた。
彼女の顔は赤くなり、心なしかトオルが支える身体も熱くなったような気がしてくる。
「ひ、日並くんのえっち……」
そして、返す言葉が思いつかなかったのか、最終的になんともはた迷惑な捨て台詞を残してきた。
水着の品評をお願いしてきたのも、泳ぎの練習を頼んできたのも、こうして身体を密着させる許可を出してきたのも、全部彼女の方である。
これにはさしものトオルも納得がいかなかった。
「いやいやっ、今回は流石に石徹白さんが悪いって! むしろ頑張った方だよ俺!?」
一転して、攻めの姿勢に打って出たトオルに、
「そんなの知らないしっ……えっちな目で見てたの事実だしっ……」
石徹白さんは子どものように反論をしてくる。
そのいじけたような口調も可愛らしく、つい負けを認めてしまいそうになるが、ここで折れては男としての尊厳が傷つくことは避けられない。
「いやでもっ、わざわざ接触してきたのはそっちだった気がっ」
「ぐ、偶然いたから、話しかけただけっ……!」
「じゃあ、水着の感想求めてきたのはどういう意味?」
「客観的な感想がほしかっただけっ」
その後も、互いに引かない舌戦が繰り広げられ、
「だとしたら石徹白さんは純粋すぎ! それだけ可愛いしスタイルも良いんだから、もっと警戒しなきゃ!」
「うっ……」
「大変な目に遭ってからじゃ遅いんだよ? 俺、石徹白さんにそういう目に遭ってほしくないしっ……」
やがて、趣旨がトオルからの説教へと変わってきたところで、
「だいたい、俺が本当に変なことしだしたらどうするつもり──」
「も、もう分かったから! 私の負けでいいからっ……!!」
石徹白さんがワタワタとしながら降参の意を示してきたことで、一旦の落着となった。
「本当に?」
「ほ、ほんと!」
相変わらずトオルの両腕に抱えられたままの彼女が、真剣な眼差しに耐えかねてコクコクと頷くのを見た後、
「じゃあ、この練習はここまでということで──」
トオルはゆっくりと脚の方から彼女を降ろそうとし、
「ま、待ってっ……!」
不意に呼び止められる。
まだ何か言いたいことがあるのかと、ついため息をつきそうになるも、
「……いい、から」
「え?」
直後、ボソリと呟かれた照れくさそうな声に、その意図を測りかね、
「え、えっちな目で見てもいいから……続き、やって……!」
「……はい?」
とんでもない発言に、またもや思考回路をグチャグチャに混乱させられるのだった。
しょうもない論争から数分後。
言われた通りに手足を伸ばし、バタつかせる練習に励んでいた少女──石徹白エルナは、
──あぁっ……! 何言っちゃってるの私ィッ……!?
心の中で一人、自身の奇っ怪な発言に慟哭させられていた。
──えっちな目で見ていいって、そんなのもうっ……。
それもそのはず、先ほどの言葉は考えようによっては一線を超えていたからだ。
一応、どうしても泳ぎたいからと慌てて理由を付け足してはいるが、勘が良い者なら真意に気がついてしまってもおかしくはない。
──いや、真意って、別に深い意味は無いけどねっ!?
そんな風に憂うエルナが、内心で誰も聞いていない言い訳をする一方、
「うん、良い感じじゃないかな」
今のところ、特に変わった様子も無く指導を続けてくれている彼だが、
「っ、あっ……!」
少なくとも一つ、エルナの方では問題が起きていた。
──ゆ、指がっ……。
それは、彼の指が時折、自身の肌に触れるようになったということだった。
「ど、どうかした?」
「ううんっ、なんでもないっ」
おそらく、変な許可を出してしまったせいで、本人は無意識なのだろう。
先ほどまでは指先が触れないよう意識していたようなのだが、今は腰に回された手がエルナの尻を掴む行為がしばしば発生してしまっていたのだ。
当然、これは怒って然るべきことだったのだが、
──日並くん、私のことっ……。
彼にそういう目で見られていると思うと、不思議とその気になれなかった。
むしろ、こうして意識されていることを思うと、冷たい水の中にいるにも関わらず、身体が火照っていく一方で、
──あぁっ……だめなのにっ……!
頭の中はおかしな感情で埋め尽くされそうになる。
──日並、くんっ……。
もっと、彼に見てほしい。
もっと、自分を求めて、触れてほしい。
そんな本心とは真逆のはずの欲望が、心の内を支配しようとした、その時。
「こ、これくらいで大丈夫かなっ……!?」
「え、あ……」
熱を冷ますように、彼の腕が、身体が離れていく。
足がつくまで、そっと降ろしてくれるその優しさに心が温かくなりつつも、やはり貴重な時間が終わったのだという寂しさが勝ってしまう。
「もう、終わり……?」
故に、つい甘えるような声で尋ねてしまうと、
「うん、その、そろそろ俺も限界というかっ」
顔を赤くしながら視線を逸らす様子に、純粋な彼への愛おしさと、自分がそうさせることができた嬉しさで胸がいっぱいになり、
「それに友戯も待たせてるしっ」
しかし、続く言葉を聞いた時には、チクリと痛みが走っていた。
それは、親友に迷惑をかけている事への不安か、はたまた彼女に対する嫉妬心か。
──日並くん、行っちゃうんだ。
ただ唯一分かっていることは、彼がこれから他の女の子のもとに戻ってしまうということ。
それも、自分よりずっと長く一緒にいて、趣味も性格も合って、優しいうえに可愛いという、非の打ち所が無いほどに運命で結ばれた少女の所へと、である。
──ああ、嫌だな……。
彼が遠くへ行ってしまうことも、そんなことを考えてしまう自分のこともそうだ。
らしくもない感情に揺さぶられ、どれが本心かも分からず、有耶無耶にしてしまうことが、果たして本当に自分のすべきことなのだろうか。
その先に待っているのが後悔であることくらい分かっているはずなのに。
『余計なお節介かもだけど、恋は恥ずかしいことじゃないよ?』
ふと頭の中に浮かんできたのは、大して仲良くもない少女にかけられた、本当にお節介な台詞。
──ああ、そっか。
皮肉にも、今はその言葉が何よりの救いであり、心を動かす原動力となった。
「それじゃ、俺は行くから。石徹白さんも来たかったら来て!」
最後にそうとだけ残し、背を向ける少年の声にハッとなったエルナは、
──これが、そうなんだ。
僅かな逡巡さえ振り切って彼を追いかけると、
「え──」
その勢いを殺すことなく、硬い背中へとぶつかった。
──ほら、やっぱり。
戸惑う彼の声に、ほんの少しの優越感に浸りつつ、そっと前へと両腕を回す。
そうすると、彼の鼓動が跳ねるのが聴こえてきて、ついでに自分の心臓も痛いくらいに跳ねて、より一層、近づけたような気になれて、
──また、温かくなった。
今までのモヤモヤとした感情も、もどかしいような恥ずかしさも、全部どうでも良くなるくらいに、心が安らいでいくのだった。
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