第107話 ※秘密の特訓みたいです。
水面に波紋が広がるその中心。
軽く抱き合う形となった二人の少年少女の間には、しかし甘い雰囲気はまるで漂っていなかった。
「…………」
「あ、その、これはっ……」
それもそのはず、トオルの前にはまずもって出会うはずのなかった少女──石徹白エルナの姿があったのだから。
──変装までして、いったいどういうことだ……?
もちろん、責めているとかそういうことではない。
単純に彼女の行動が理解できなかったのである。
故に、困惑から固まってしまったトオルは、ただただ彼女の整った顔を眺めることしかできず、
「い、言いづらくて! 一回断っちゃったし!」
プレッシャーを感じたのか、慌てた様子で弁明をしてくる。
ただ、なおも目が泳いでおり、いかにも何かを隠しているように見えた。
「本当に?」
「ほ、ほんとだってっ!」
とはいえ、ここで正面から詰めたとてマトモに取り合ってくれる彼女ではなかった。
わざわざ変装をして、同じ日にプールへとやって来て、ことあるごとに絡んできたのだから、そこには何らかの思惑があるはずだが、仕方がない。
「そっか……それじゃ、とりあえず離れてもらっても……?」
「え、あっ!?」
意識を切り替え、実は先ほどからずっと気になっていた柔な感触をどうにかしてもらうことにした。
藁にもすがる思いということわざはある通り、溺れた彼女はよほど怖かったのだろう。
何の躊躇いもなくしがみついてきていたため、必然的にその胸や太ももが密着してしまっているうえ、加えてこの薄着である。
ほとんど裸のような格好で抱き合うこととなったトオルは、表向きは平静を保っていたが一周回って思考回路がショートしていただけだった。
「っ……あ、ぅ……!」
そんな気持ちは石徹白さんも同じだったのか、パッと身体を離すと、自身の身体を抱きながら耳まで沸騰させると、
「ぶくぶくっ……」
熱くなった顔を冷ますためか、はたまた隠すためか。
ゆっくりと水の中に沈めていくと、ジトっとした目だけを残してこちらを睨んできた。
──いや、俺は何も悪くないよね……?
どう考えても彼女の失敗が引き起こした結果であり、助けたことを褒められはしても、抗議の目線を向けられる筋合いは無いはずである。
「えっと、じゃあ友戯待たせるのもあれだから……一緒に行く?」
ここは流石に謝らず、あまり放置をしてもいられないもう一人の少女のためにそう提案するが、
「…………」
途端に、今度は視線を逸らし始める石徹白さん。
「あの、石徹白さん?」
返事を待たずに置いていくこともできずに再び声をかけるも、
「ぶぽぴぷあい、ぐぴあっぺうえぺぼ……」
水中で泡を立てるばかりで何を言っているかは全然聴き取れなかった。
だが、今の提案に何か不満を抱いていることくらいは分かるので、
「……じゃあ、少しここで遊んでく?」
ダメ元で、親戚の子どもにしていたような台詞で話しかけると、
「び、びぱぴぷんば、ぽうびぷぱぱ……」
相変わらず水中にこもったままではあったが、確かにこくりと、小さく頷いてくれるのだった。
それから少しして、
「それじゃあ、泳ぎ方を教える感じでいいかな?」
「う、うん」
まだほんのりと顔が赤いものの、多少落ち着いた様子の石徹白さんと話し合いをしたトオルは、彼女が泳げるように手伝うこととなっていた。
友戯を待たせるのはあれだが、お冠な彼女にはクールタイムが必要だろう。
その間を埋めるのに、石徹白さんの泳ぎ練習に付き合うのは言うほど悪くはないはず。
「じゃあ、まず手を握ってもらって」
「ん」
そう思ったトオルは石徹白さんへと両手を差し出し、彼女の細い手を掴むと、
──手、可愛いな……。
その柔らかくてスベスベな感触に、やはり女の子だなと今さらながらドキマギしつつ、
「じゃあまずはそのまま浮いてもらっていい?」
とりあえず水に浮く感覚を掴んでもらおうとする。
長時間教えるわけにもいかないので、簡単な部分だけでもできるようになってくれればという程度の発言だったのだが、
「う、く……?」
石徹白さんは真面目な顔で汗を一滴流すと、知らない言葉のようにそう呟いてきた。
「うん、だからプカーって水面に浮いてみてほしいんだけど」
「ど、どうやって?」
まさかと思い細かく説明してみるも、やはりそれすらやり方が分からないらしい。
「……ちなみになんだけど、最後にプールというか水に入ったのって?」
「それってお風呂は……は、入らないよね……」
念のために確認すると、どうやら一度も入ったことがない説すら出てくる始末。
「うーんと……こう、全身から力を抜いていく感じってできる?」
「…………」
こうなると、水泳のプロでもなんでもないトオルには曖昧な感覚を言葉にすることしかできず、
「…………」
「……あの石徹白さん、今やってる?」
「や、やろうとしてるっ……」
案の定、両手を繋いだ二人の男女が、プールの際でピタリと止まる謎の光景が繰り広げられることに。
「ええっと……あ、俺が持ち上げてみるってのはどう?」
「! それ、やってみよっ」
ふと、無理やり同じ体勢にしてしまえば、何となくコツがつかめるのではと思い提案してみる。
これに石徹白さんも感銘を受けたようで、ノリノリで受け入れてくれるが、
──あれ、これってもしかして。
自分で提案しておいて、色々と問題があることに遅れて気がついた。
「どうしたの?」
「いや、身体触るのはあれかなって」
「あっ」
首を傾げる石徹白さんに、頭をかきながら説明すると、彼女も気づいていなかったのか顔を微かに上気させる。
「他の方法考えないと──」
ひとまずこの案が没になることは確定したので、改めて思索するトオルだったが、
「い、いいよっ……」
「え?」
意外や意外、彼女は許諾を出してきた。
「泳げるようにっ、なるかもだしっ……」
若干声が震えていたような気もするが、少なくとも覚悟はできているらしい。
トオルにはまだ抵抗があったが、そこまでして泳ぎたいという彼女の意思を無碍にもできない。
「うん、分かった。やってみようか」
「!」
結果、考えている時間も勿体ないという答えに至ったトオルは、その覚悟を汲むことに決めた。
「よし、いくよ」
「う、うん」
再度の確認を得たところで、トオルは石徹白さんのお腹へと手を回し、
「んっ……!」
びくっと跳ねる感覚を指先に感じながら、彼女を両手で水面へと持ち上げようとするも、
──お、おもっ……!?
その柔らかさを堪能する余裕もなく、予想以上の負荷に思わず腰をやりそうになる。
見れば、僅かに持ち上がってきた背中に対して、頭と手足は沈んでおり、見事なまでにくの字に曲がっていた。
──な、なんのぉっ!!
このままでは彼女が息を吸えないのはもちろんのこと、男としてのプライドにも傷がつくことは避けられない。
腰を沈め、腕に力を込めたトオルは、
「んぶぶぁっ!?」
しかし、バランスをとるために両手の幅を取ろうとしたことが災いしてしまった。
──やべっ!?
お腹から左右に手を広げていけば当然、片腕は下乳に、片腕は下腹部へと向かってしまう。
驚いた石徹白さんは息を大量に吐き出し、後でお説教を受けることも決定してしまうが、
──こうなったら……!!
このまま成果が出ないよりはマシだと、持ち上げる方に集中することにした。
胸をまたいで奥の脇まで片腕を回し、もう片方の腕でも腰をがっちりとホールドすることでようやく安定を得たトオルは、今度こそとばかりに踏ん張ると、
「ぷはっ……けほっけほっ……!!」
何とか、石徹白さんが息を吸えるだけの位置まで浮上させることに成功する。
「ど、どこ触ってっ──」
これに、喜びよりも怒りが勝った彼女はすぐに眉を釣り上げるが、
「石徹白さん、力抜いてっ……!」
「──え、あ、うんっ!?」
至って真面目な声色でゴリ押すことで、やましい気持ちは無いように思わせ、
「こ、こう?」
「そ、そうそう、いいよ、どんどん浮いてきてる!」
内心ではめちゃくちゃ役得を味わっていることに、トオルは罪悪感を覚えていたのだった。
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