第36話 ※一応ラッキースケベです。

 床に打ち付けた背中の痛み。


 そんなものがどうでも良くなるような衝撃が、唐突にトオルの脳内を駆け巡った。



 ──どういうことッ!!??



 思わず心の中で叫んでしまうのも仕方のないことだろう。


 何せ、今トオルの現状を言葉で説明するのならば、



 ──柔らっ……顔ちかっ……えっ!!??



 もはや思考がまともに働かないほどに、刺激的が過ぎる状況だったのだから。



 ──どうすればいいのこれっ……!?



 そう、仰向けに倒れる今のトオルの上には、あの石徹白さんが重力に引かれるままに乗っかってきているのだ。


 当然、その大きな胸の柔らかさは全力で伝わってくるうえ、だぼだぼのパーカーの胸元からは何故かブラウスで見えないはずの白い谷間が映っていた。


 さらに、脚に当たる柔らかい感触が何なのかと視線を向けてみれば、そこには捲れたパーカーの裾から覗く白いお尻。



 ──ウ、ウワァッ!?



 ブラウスの裾が辛うじて下着が見えないようにガードしてはいたが、思春期真っ盛りの男子にはいささかセンシティブ過ぎる光景である。


 トオルは顔を熱くさせつつ慌てて視線を逸らそうとするが、



「──〜〜ッ!!??」



 それは目の前の少女もまた一緒であったのか、茹でダコのように顔を真っ赤にした彼女は、声にならない悲鳴を上げていた。



「ぃやっ……見ないでぇッ!!」

「うぉ……おてぃとぅいべ……うぃとしおさ──」



 パニックに陥った石徹白さんは、とりあえずトオルの視線が自身に向かわないようにしようとでも考えたのか。


 宥めようとする声も届かず、トオルの顔面を掴んで無理やり横へ曲げてこようとする。



 ──痛い痛いっ!! 折れる折れるッ!!



 しかも、いったいその華奢な身体のどこからそんなパワーが出るのか、首が折れそうなほどの膂力を発揮していた。



 ──こうなったら仕方ない!



 命の危機を感じたトオルは女子の身体に触れるタブーを犯し、彼女の右腕を掴むことを決意する。



「なにッ!?」



 が、利き腕である自身の右手をもってしても、石徹白さんの腕はビクともしなかった。


 ならばともう片方の手も使ってみるも、これまた微動だにしない。



 ──や、ヤバイ……!



 目をぐるぐると回す石徹白さんは明らかに正常な思考ができておらず、このままでは本当に首が百八十度回ってもおかしくなかった。


 しかし、このまま死ぬわけにもいかないとトオルは懸命に足掻き、



「んひゃぁっ!?」



 幸運にも、ジタバタと暴れさせた脚が弱いところにでも擦ったのか、石徹白さんは可愛らしい声を上げながらようやく手を離す。



 ──今だっ!



 力が抜けたこの一瞬が最後の勝機だと、トオルは彼女の両腕を掴み、



「おぉっ……!!」

「あっ!?」



 力任せに横に投げる形で、逆にマウントを取ることに成功した。



「やだっ、離してッ!!」

「ちょっ、暴れないで!!」



 腹の上に乗られ、両腕を床に押さえつけられた今の状態ではさしもの馬鹿力も発揮できないのだろう。


 石徹白さんはしばらく抵抗を続けるが、



「あ、ぅ……」



 やがて、目に涙を浮かべながら全身から力を抜いていった。



 ──ふぅ、何とかなったな。



 女の子を組み敷いているこの光景は傍から見たら犯罪的ではあるものの、とりあえず命の危機を乗り切ったことにトオルは安堵する。


 さながら、FPSゲームのラスボス戦を思い出す激闘だったが、現実のそれは比較にならないほどの緊張感であった。



 ──って、そろそろどかないとか。



 などと、余計なことを考えている場合でもない。


 流石に石徹白さんも落ち着いただろうと、すぐにその場を立ち上がろうとし、



「がッ!?」



 突如、後頭部に衝撃が走り、前のめりにさせられる。



 ──いったい、何が。



 ブレる視界と、揺れる脳みそ。



「っ、う、ぐ……!?」



 次の瞬間には天地がひっくり返り、視界には照明の光と白い天井だけが映った。



 ──意識、が……。



 だが、その理由を知る間もなく、首にかかる圧力によって意識は朦朧とし始め、



「──ごめんねっ」



 そんな、背後からの声を耳にしたのを最後に、闇の中へと落ちていくのだった。











「はっ!?」



 意識が覚醒したのは突然だった。


 目を開けば、見慣れた部屋の天井と、



「あ、日並くん!」



 こちらを心配そうに見下ろす石徹白さんの顔が映る。



「大丈夫?」

「うーん……いったい何が……?」



 寝起きだからか、頭にモヤがかかったかのようにハッキリとしない。



 ──確か、傘を返しに来た石徹白さんを部屋に上げて、頼まれた物を持ってきて、それで……。



 ゆっくりと上体を起こしながら、順番に記憶を辿っていき、



「そ、そうだ! さっきはごめん石徹白さん!!」



 やがて、石徹白さんが自分にもたれかかってきた時のことを思い出す。


 咄嗟に申し訳ないことをしたと感じたトオルは謝罪を述べるが、



「? 何のこと?」



 当の本人はポカンとした様子で小首をかしげていた。



「ほら、さっき身体がぶつかって……!」

「えっとその、よく分からないけど、ぶつかったりはしてないと思うよ? 日並くんが急に倒れたのはびっくりしたけど……」

「え?」



 記憶の通りに説明を試みるも、逆に覚えのない事実を教えられることとなってしまう。



「お、俺が急に?」

「うん……多分、貧血か何かだと思うんだけど……」



 続けて尋ねてみれば、石徹白さんは肯定するように頷いた。


 どうやら、彼女いわく、トオルは急に気絶してしまったらしい。



 ──とりあえず、パーカーを渡したところまでは間違いないみたいだけど。



 実際、今の彼女はパーカーを着てはいるが、下にはちゃんとスカートが履かれており、あんなことがあったとは思えないほどに落ち着いていた。


 そして、そうなるとあのラッキースケベからの一連の流れまでが全て夢であったことになるが、それはそれでおかしくもないだろう。


 あの柔らかい感触は実体験したかのように残っているが、よくよく考えてみれば現実感の無い話であるようにも思えてきたからだ。



「そ、そうなんだ。ごめん、迷惑かけたよね……」

「ううんそんな! 部屋に上げてもらって、上着まで貸してもらって……申し訳ないくらいだよっ」



 すると、今度はわざわざ看病させてしまったことが申し訳なくなり謝るも、流石は天使というべきか。


 許してもらうどころか、逆に感謝の言葉を授けられることとなった。



「…………」

「石徹白さん?」



 しかし、そんな彼女はふっと視線を逸らすと、



「あの、ほんとにごめんね……」



 改まった様子で心底申し訳なさそうに謝ってくる。



「え? ああ、いや大丈夫だよ! 女の子には優しくしろって躾けられてるから!」



 その姿を見ていると心が痛むので、トオルは少しおどけた感じで気にしていないことをアピールしていく。



「うん、ありがと……それじゃ、私行くね」

「あ、見送るよ!」



 それを聞いた石徹白さんは何故か、まだ少し落ち込んだ様子のまま立ち上がった。


 トオルも見送るために玄関まで付いていき、



「日並くん、今日は安静にしておいてね?」

「ああ、それはもちろん」



 石徹白さんから心配の言葉をもらいつつ、



「色々ありがと、またね日並くん」

「うん、またね!」



 手を振りながら去っていく彼女に、自身も手を振り返して別れを告げるのだった。












 とある住宅街の一角。


 すっかり見慣れたマンションを前にした少女──友戯遊愛は、それを見上げながら周りをうろちょろと歩き回っていた。



 ──いきなり行ったら、流石に迷惑かな?



 スマホをチラチラと見ては、そこに書かれている『今日はいけない』の文字にため息をつかされる。


 自分でその文字を打っておいてなんだが、本当は大した用事があったわけではないのだ。


 今さらになって遊びたくなったためこうしてここにいるのだが、事前に一度断っている手前、踏み出せないというのが現状であった。



 ──ご両親、いるかもしれないし。



 加えて、不確定要素まであるときたものだ。



 ──また、今度にしよっかな……。



 こうなると、もう大人しく諦めた方がいいかもしれない。


 そう思った遊愛は踵を返そうとし、



 ──え……?



 偶然、視界に捕えたものを見て、固まった。


 それは、日傘をさしながら件のマンションから飛び出してきた、とある人物で、



 ──なんで。



 純白の髪と蒼の瞳を持った、浮世離れした少女であった。



 ──ここに、ルナが……。



 そして、その少女のことを遊愛はよく知っていた。



 ──まさか。



 無意識に、親友のいる部屋のあたりを見上げる。


 男もののだぼだぼなパーカーに、気のせいかほんのりと上気していたようにも見えた、あの少女の顔。


 すでに遠くへと去っていった彼女と、親しい友の間に生まれた疑念に、鼓動が自然と早くなった遊愛は、



 ──違う、よね……?



 処理できない感情に苛まれたまま、呆然と立ち尽くすことしかできないのだった。

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