第32話 ※雨の日といえばこれです。

 その少女を視界に捉えたその瞬間、トオルの脳は時が止まったかのような錯覚に陥っていた。



 ──これは、天使……?



 だが、それも仕方のないことのはずだ。


 今、目の前にいる少女の完成された美貌を目の当たりにすれば、トオルのような木っ端が如き陰キャ存在はただその御姿を脳裏に焼きつけるだけで処理限界を迎えてしまうのである。



「えっと……?」



 固まるトオルを見て小首をかしげるその仕草一つでさえ、神の寵愛を受けられるであろうほどの可憐さを放っており、それが自身に向けられているという事実だけでご飯三杯は楽々いけ……



 ──はっ!? いかんいかんっ!!



 そうして思考が迷走し始めたあたりでようやく、トオルは正気を取り戻すことができていた。


 このままでは、話しかけてきてくれた女子を前にひたすら固まるという、恐ろしく不審な人物になりかけていたことに気が付き、思わず冷や汗をかく。



 ──噂には聞いていたが、改めて目の前にするとヤバイな……。



 もちろん、そうなった原因である目の前の少女のことをトオルは知っていた。


 白銀色に艶めく雲のようにふわふわなボブカットに、同じく雪のように白くて柔らかそうな肌。


 空や海を想わせる青灰せいかいの双眸は視線が吸い込まれるほどに美しく、妖艶ささえ感じさせる長いまつ毛のラインは、柔和な性格を表すかのように丸く弧を描いている。


 背丈はやや小柄で庇護欲を掻き立てられるが、一方で胸部の発育は良く、シルエットはしっかりと女性特有の柔らかなそれだった。


 おまけに、頭に乗せたフリル付きのカチューシャは彼女にしか許されないだろうあざとさがある。



 ──石徹白いとしろエルナ。



 そんな、完璧なまでに浮世離れした少女を、同じ学び舎に通っていて知らぬ者などそもそも存在するわけが無かった。



「あ、ああごめん、えっとなんだっけ?」



 思考が固まっていたトオルはとりあえず何か言わねばと慌てて言葉を返す。


 彼女の発した言葉すら思い出せないので、本当に苦し紛れの質問だったが、



「もうっ、だから傘が無いのかなって聴いたんだよ?」

「ウッ」



 そんなトオルの発言に対する彼女の反応はと言えば、ぷくっと頬を膨らませたあざと過ぎる抗議であった。



「ご、ごめんっ、うん、傘、誰かが持ってちゃったみたいで!」



 大変に動揺させられながらも何とかその質問に肯定で返し、



「そうなんだ……ひどい人もいるもんだねっ」

「あははっ、ま、まあ、こういう日もある、よ?」



 彼女はトオルの代わりに可愛らしく怒りをぶつけてくれた。


 が、そんな彼女に、トオルはただぎこちのない喋り方で応じることしかできない。



 ──いや、無理だって!



 友戯や大好さんといった女子と会話を重ねていたことで慢心していたトオルだが、ここに来て所詮は相手が良かっただけであったことを思い知らされる。


 何せ、友戯は昔の知り合いでかつボーイッシュさがあり、大好さんは明るくてマスコット的なポジションであったのだ。


 一方、目の前の少女はいわゆるシンプルに可愛いタイプの女子であり、つまりトオルにとってはほとんど対面経験の無い類いの存在ということになる。


 そんな相手を前に、平静を保って応対することなどできるわけもなく、



「ま、まあ何とかなるよ!」



 進退窮まったトオルは、ひとまず話を切り上げてこの場を抜け出そうとするが、



「うーん、でも……」



 彼女は、悩む素振りを見せたあと、



「そうだ!」



 何かいいことを思いついたかのようにポンと手を叩いた。



「な、なに?」



 そして、躊躇いもなく距離を詰めてくると、上目遣いを向けてきながら、



「君の帰り道ってどっちなの?」



 そう、平然と尋ねてくる。



 ──あれ、この流れって。



 ふと、トオルは嫌な予感がしつつも、



「えっと、校門を出て──の方に──」



 黙っているわけにもいかず大雑把に家までの道のりを説明してしまい、



「へぇ! 凄い近いね!」

「う、うん」



 結果、



「それなら、大丈夫そうかな」



 はしゃぐ彼女にその勢いのまま、



「私が送ってってあげるっ」



 理解が追いつくよりも早く、とんでもない提案をぶちかまされてしまっていた。


 それを聞いたトオルは再び固まり、



 ──ラブコメで見たやつだっ!!



 他人事のように、そんなことを考えるのだった。












 雨がザーザーと降りしきり、車の水を跳ねる音だけが時折耳に届いてくる、そんな世界。


 そこはいつもの通学路でありながらも、まるで別物のような印象を受けてしまうほどに変わり果てていたが、



「へぇ、日並くんって言うんだ!」

「ウ、ウンッ」



 その原因は雨そのものなんかよりも、隣りにいる美少女の存在の方がよほど大きいことだろう。


 何を隠そう、雨に濡れぬよう直径一メートルあるかないかの傘の下にいるトオルの横にはもう一人少女がおり、当然肩が触れてしまいそうなほどにその距離は近いのである。


 そんな状況ともなれば甘い匂いはしてくるし、鼓動は早くなるし、頭の熱は高まるしで、まるで別世界にでも来たかのようにクラクラとしてしまうのが自然の摂理というもの。



 ──なん……えっ!?



 どうしようもないほどに緊張したトオルはパニックに陥る。


 記憶を遡れば、理屈自体はすぐに判明するだろう。


 だが、問題はそんな単純なものではなく、石徹白いとしろエルナという学校のアイドル的存在が、なぜトオルのような日陰の存在にここまでしてくれるのかという点にあった。


 漫画やアニメだと、『密かに恋心を抱いていて……』みたいなのが定番だが、あいにく現実でそれを信じられるほどトオルも馬鹿ではない。



 ──彼女は本物の天使だった……?



 そうなると、やはり最も可能性が高いのは彼女自身の慈悲深さゆえというものだろうか。


 あいにく、トオルはそこまで彼女に詳しくないので確証は得られないが、少なくともこの短い時間接した限りでは柔和で優しい印象を受けている。


 ならば、あながち的外れでもないだろうと一応の結論を導き出し、



「えっと私は──」

「い、石徹白さん、だよねっ?」

「──わっ、知ってるんだ私の名前」



 現実への対処に意識を戻した。


 しかし焦りからか、思わず目の前の少女──石徹白さんの言葉を遮るというやらかしをしてしまう。



「有名だから、石徹白さん」

「あははっ、うん、まあこの見た目だもんね」



 だが、石徹白さん自身にとっては気にすることでもなかったのか、特に変わった様子もなく自身の白い髪を細い指でいじってみせていた。



「やっぱおかしいかな?」

「そ、そんなことっ! むしろ、すごく綺麗だと思う、ますハイ!」



 少し言いにくそうに尋ねてくる彼女に、トオルはどもりながらもハッキリと否定する。


 確かに目立つ色ではあると思うが、トオルからすれば幻想的な感じがして素晴らしいという感想しか抱けなかったからだ。



「そっか……ふふ、ありがとっ」

「っ!」



 そんなトオルの拙い褒め言葉にも、石徹白さんは天使のような笑顔で神対応をしてくれる。


 無意識に心臓がトゥンクしたトオルは、彼女に熱を上げる者たちの気持ちが分かったような心地がした。



「あ、えーっと……」



 言葉に詰まったトオルは、何とか話題を絞り出そうとし、



「そうだ、マスクっ!」



 それ単体では意味の分からない呪文を吐いてしまう。



「ああ、うん。日差しの弱い日とかはつけてないよ。その、私って肌が弱くて」

「あぁ、そういうことなんだ……」



 が、本人にはちゃんと意味が伝わったらしく、そのことについて説明をしてくれた。


 というのも彼女、以前に何度か見かけた時の印象で黒いマスクを身に着けているイメージがあったのだ。



 ──と、いうことは。



 今までその理由など気になったことも無かったが、体質的な問題であることが判明するとその他のことについても納得が及ぶ。



「? どうしたの?」

「ああいや、その服装もそういうことだったんだって思って」



 もちろん、今の石徹白さんの服装はといえば、青いプリーツスカートに水色のブラウスと紺色のセーター、それから一学年であることを示す青のリボンを合わせた、いわゆる我が希台きだい高校の制服である。


 ただ、脚を包むタイツはまだしも、手指にまとった黒い手袋はかなり変わった風貌であり、そのどちらもが日光を遮るためのものだと考えると、確かに腑に落ちるのだ。



「うん、そうだよ。だから、外ではあんまり遊べないし、プールの授業とか海なんてもってのほかっ」

「それは、嫌かもね……ははっ……」



 そしてその予想は当たっていたらしく、石徹白さんはぷりぷりといった擬音がつきそうな怒り方で、愚痴をこぼした。


 彼女の体質は同情に値するものではあったが、本人の雰囲気が軽いものであったため、どう反応したらいいのか困ったトオルは乾いた笑いをこぼすことくらいしかできない。



「あ、ごめんごめん! あまり気にしないでね?」



 そんなトオルの内心が伝わってしまったのか、石徹白さんに申し訳無さそうな顔をさせてしまい、



「いや……うん……」

「あはは…………」



 案の定、トオルも微妙な返ししかできなかったため、二人の間に気まずい沈黙が流れ始める。



 ──いや、どうしろと!?



 しかし、あいにくこの状況を打開できるほどのコミュ力などあるはずもないトオルには、ただただ歩きながら時が過ぎ去るのを待つことしかできない。



「あ、俺の家ここだから……ありがとう」

「ううん全然! ここ通り道だからっ」



 結局、その後は一言も会話することなく、トオルは自宅マンションの前へと到達する。


 せめてもの代わりにと持っていた傘を石徹白さんへ返せば、



「じゃあ、またね!」

「う、うん、またっ」



 奇跡のような時間は呆気なく終わってしまった。



 ──う、うごご……!



 もっと他に言えたことがあったのではないか。


 めちゃくちゃキョドっていたように思われたのではないか。


 後悔を上げればキリはなかったが、少なくとも今夜は眠れぬほどに悶々とさせられることだけは確かだろう。



「はぁぁあぁ〜〜──」



 こんなことなら、傘を差さずに雨の中を突っ走った方がマシだったかもしれない。


 そう思い、トオルはこれでもかというくらいに長いため息をつき、



「──きゃあっ!!」



 直後、甲高い女性の悲鳴が聞こえてきた。



 ──な、なんだ!?



 まさか事件でも起きたのか。


 そう思い、石徹白さんが去っていった方を振り返ると、



「うわっ!?」



 正面から、ずぶ濡れになりながら少女が駆け寄ってくるのが見える。



「はぁっ……はぁっ……」

「い、石徹白さん……!?」



 全身から水を垂らし、息を切らすその人物は紛れもなく石徹白さんその人であった。



「ご、ごめんっ……傘、壊れちゃってっ……!」



 一体何があったのかは、彼女の手に握られているバキバキに折れた傘を見ればすぐに分かる。



「あ、ああ! じゃあ、代わりの傘とタオル持ってくるよ! ここで待ってて──」



 故に、トオルはすぐさま駆け出そうとするが、



 ──えっ。



 その直前、袖を引っ張られるような感覚に足を止めさせられる。



「そ、その……結構、中まで濡れちゃってて……」



 何事かと振り向けば、申し訳無さそうにトオルのブレザーの袖を摘む、石徹白さんの姿。



 ──え、えっ……??



 確かにブラウスはぐしゃぐしゃに濡れており、スカートの裾からは水が滴り落ちている。



「だから、えっと……」



 しかも、もじもじと上目遣いで見てくるその顔は、何かを恥じらうように紅潮しており、



 ──え、え、えっ……???



 それを見たと同時、嫌な予感が湧いてきたトオルが何かせねばと焦る中、



「シャワー貸してもらえたり、しないかな……?」



 無常にも、石徹白さんの口からはとんでもない一言が飛び出してきていた。



 ──え、え、ええぇぇッッ!!!!????



 その日、トオルの胸中では、人生で最大の心の叫びが響き渡るのだった。

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