2・新生物
街を飛び出したはいいが、この先どうすればいいのかわかっていなかった。人間には絶交された、あるいは絶交した。だとしたらこれからの仲間とすべきは人間の敵たる魔物か。その魔物たちはアマレを見て人間と認識するかしないか、アマレ本人は気が気でならなかった。素体は木製のマネキンだが変性術で人間と同じ見た目になっている。
人間は海に面した巨大な崖を背にして都市を形成した。今いるのはその反対側、だだっ広い草原だ。身を隠せるようなものは何もない。何もないから、動くものにはすぐ目が留まる。満月の夜ともなればなおさらだ。
ボロボロのマントを被った何者かが、街から遠ざかる方へ歩いているのが見える。
「どうされたんですか、街の外を一人で出歩くなんて」
深緑のフードに隠された顔がこちらを振り向く。それは人の頭ではなく、ナメクジやカタツムリが持つそれだった。思わず人形ながら息を呑む。
「なんだい、声をかけておいて失礼なやつだね。新生物を見るのは初めてかい……おっとあんたも新生物じゃないか」
飛び出た太い触覚の白や緑の縞模様をしきりに動かしながら、巨大なナメクジはそう言った。
「見知った魔物がいないものでして……新生物とは」
「なんだか厄介な話だねえ。新生物ってのはまあ、魔物の言い換えだよ。自分のことを魔なんて思ったことのない連中ばっかりさ。歩きながら話そう」
後ろを見ると、ナメクジの作った獣道が延々とここまで続いていた。
「その目、ナメクジらしくありませんね」
右目の模様の一部をぐるりとこちらに向け答えるに、
「カタツムリの寄生虫をモデルに私が作った、目の補助具だよ。私の意思で自在に動くようになっていてね。ところで、この短い会話でも十分にわかるくらい状況が不可解で複雑そうなのはわかった上で聞くが、あんたこそ街の外を一人で出歩いてどうしたんだい」
「宛もなく。生みの親が嫌になりました」
「まあそんなこともある。嫌だったこととは別に、生み育てられた結果得た幸福は忘れるんじゃないよ」
宛がないことを知ったナメクジは、そのまま勝手についてくるアマレをそのままひっつけて、自分の目的地へせっせと歩み(這い?)を進めていく。それでもアマレの普段の歩調に及ばない。
「何が幸福か、今はわかりません。あなたの行き先を知ればわかるかもしれませんね」
「違いない。行き先ってのは着けばわかるもんだろ。そこで幸福をじっくり探せばいいさ。私はムシン」
「アマレです」
ムシンが口の下、きっと胴体であろう部分から人間の腕を生やして握手を求めてきた。
「魔法を使った変装が得意でね。その気になれば人間になることだってできる」
気味悪いが、せっかくの握手を断ってはあまりに失礼だ。ナメクジから生えてきたのに一切のぬめりもない人間の右手を握り返す。
行き先はどこであれ、こののろまな足(ひだ?)に合わせていては恐ろしく時間がかかる。すぐに話題は尽き、闇夜に紛れて二人ただ沈黙して歩むこととなった。進んでいる方向に横たわる大きな影はきっと森だろう。
アマレが痺れを切らし尋ねる。
「……あの、私が担いでいけば早く着きますよ」
「待ち合わせには自分の移動速度を考慮して準備するだろう。早く着いたって誰もいやしないよ」
誰かと会うらしい。ナメクジの会合だろうか。ぞっとする。
「変なこと考えてるね。別にナメクジ同士で集まって線虫の交換会なんてしないよ」
「やっぱり寄生虫いるんですね」
「いたところで別に困らん。いくら人間様だろうと、ナメクジに寄生虫がいればわざわざ私を食べようだなんて考えないだろうさ」
草をかき分ける別の音が近づいてきている。街のほうを見ると、薄汚いオリーブドラブの野戦服を着た衛兵が草むらに身をかがめ、不意に立ち止まったこちらの様子を伺っているところだった。アマレは人間よりも目が良かった。
「
ムシンは落ち着いて体ごと振り返り、およそ十メートル、その男に這い寄っていく。慌てて男が長銃を構え、その深い引き金を引いた。
長い弾頭が二本の目の付け根のちょうど間に食い込み貫通した。フードに開いた穴を中心に、その深緑がさらに深くなっていく。ムシンの頭部から体液があふれていた。
しかし。
「なんだい、あんたも早く動かんかね。このノータリンの衛兵に撃ち殺されたいのかい」
ムシンは少しも動じず、男のほうに進んでいた。
「さあ早く。ナメクジに人間は捕らえられんよ」
その様子にたじろぎながらも、男は走り出し、ムシンの胴に銃剣を突き立て押し倒した。そのまま傷をえぐりながら引き抜いて、二突目を見舞う。
そこでアマレはようやく動き出した。町の酔っぱらいの喧嘩から見様見真似で覚えた回し蹴りを男の側頭部に打ちつける。体勢が入れ替わり、ムシンが男に馬乗りになった。
「売国奴め、どういう―――」
「気づいたんなら戻って報告すればよいものを。あの距離でその銃を取り出したことも含めて考えるに、人間様の軍もずいぶん質を落としたね。まるで愚連隊じゃないか」
男の顔を水気たっぷりの腹に埋めて数十秒、彼は動かなくなった。
「ムシンさん、頭」
「平気さ。なんせでかいナメクジだからね」
「私の知っているナメクジは怪我したら丸くなりますが」
その後は口角を上げるばかり。きっと笑っているのだろう。フードをめくって傷を見ても、しわだらけの粘膜のどこに穴が開いているのかよくわからなかった。
「ま、君の知っているナメクジくらい再生能力は高いんだよ」
死んだ衛兵にすっかり興味をなくし、また森へ向かってのろくさと這い出してしまった。でかいナメクジにとって銃創はかすり傷らしい。
「やっぱり脳に当たったら無事じゃすまないんですか」
「脳に当たった奴を知らないけど、きっと死ぬんだろうねえ。人間はふつうナメクジに対しては塩か熱湯を使ってくるものさ。塩はよほど多くなけりゃ表面の細胞が死ぬくらいで済むが、熱湯をかけられちゃねえ。浸透圧のせいで熱い水分が深く入り込んでそりゃあ大変よ」
やはり体の大きさは違えど弱点は同じ浸透圧らしい。
「どうしたんだい、変な顔して」
ナメクジが衛兵を殺した。ナメクジに衛兵が殺された。院長が子供を殺した。子供が院長に殺された。同じ一つの命が他者の手で奪われたことに変わりはないのに、今回は胸がそれほど痛まない。前者は互いに敵意があって、後者は一方的な殺人だった。敵意あるものが殺されると、なぜか仕方ないと思ってしまう。これは、院長が自分を設計する段階で思考部分を人間に寄せたから生まれた感情なのだろうか、だとしたら人間というのは本当に面倒くさい生き物だ。アマレは思った。
「……殺人を是とした自分が嫌になりました」
「殺さなければ殺されるのなら、殺せばいい。何が正しいとかって話はいつだって理由をつけられないもんだが、生き物は当然生きているのだから、生きることを続けていることが正しいと私は思うよ」
返す言葉がなかった。ナメクジも、人間、あるいは人間に似せて作られた自分と同じだった。しかし自分と一つ違う点といえば、ムシンは己の生と他者の死、また他者の生と己の死についてきちんと答えを出していることだ。
「あいにく私は生きているとは言えないものでして」
「死霊術だかなんだか知らんが、意思を持って行動できている状態を『生きている』というんじゃないかね。だとすればあんたは生きているよ。間違いなく。生みの親のことが嫌になって、それで飛び出してきたんだろう?立派なことじゃあないか」
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