怨讐の罪火

巧 裕

プロローグ

 会社のロッカーで私服へと着替えて、外に出て腕時計を見ると夜の十時になっていた。

 これでも今日はまだ随分と早い方だ。だいたいは夜の十一時を過ぎて、帰宅する時は日付が変わっていることが多い。

 社員専用の駐車場まで行って車へと乗り込み、シートにもたれかかって宗馬正樹そうままさきは大きなため息をついた。

 正樹の働く会社は小さな企業で、今は主に業務をやらされている。ブラック企業とまでいかないが、ブラックに近いグレーといった所だった。

 上司が相当口うるさい男だった。コピー機の用紙がなければ、補充していないと怒鳴り散らし、正樹が提出した書類に誤字脱字があれば、小学校からやり直してこいと、何かにつけて文句を言ってきて、みんなの前で説教して恥をかかせていた。

 正樹は十二月の中頃に、中途採用でこの会社に入った。そして、正樹についた上司は、何故か中途採用の人材を嫌う傾向にあるらしかった。

 他の同僚たちは、言葉では正樹に気を遣って慰めてくれるが、上辺だけで本当に困っている時には助けてくれない。

 入社して五ヶ月たつが、もうストレスの限界がきていた。

「……やめるか」

 そう思うが、今辞めたら次の仕事があるかどうかといえば、その保障はどこにもない。資格も特技もないのだから、直ぐに就職するのは難しいだろう。それに、半年未満で辞めたとなると、辛抱のない人間だと思われ今後経歴にも多少左右する。

 やはり、もう少し頑張るしかない。

 正樹は今年二十六歳になり、一年前に結婚をして子供も欲しいと思う時期だった。そんな時期に収入がなくなるのは痛い。せめて、子供と妻を養うだけの収入は欲しかった。

 もう少し家庭が落ち着いたら考えよう。そう思い、車を動かし妻が待つ家に向かった。

 会社から自宅までは、車で三十分の距離だ。

 途中雨がぽつぽつと降り始めてきて、それはだんだんと土砂降りに変わっていった。

 雷も鳴り始めている。

 自宅に着いたのは、十時半過ぎだった。

 外は、地面に怨みでもあるかのように叩きつける雨と、天が怒鳴り散らすかのような雷鳴が轟いていた。

 傘をさして玄関まできたが、暴力的な雨の前には全く意味をなさず、全身びしょ濡れになってしまった。

「……最悪だな」

 愚痴りながら鍵を開けようとしたが、すでに鍵が開いていた。いつも妻は、用心のために鍵は必ず閉めるようにしているのに。

 吹き付ける雨風に気を取られ、とにかく正樹は逃げるように中に入った。

「ただいま」

 中からは返事がなかった。いつもはどんなに遅くても待っててくれているのだが。

 トイレかな? そう思い、靴を脱いで奥に行った。トイレの電気はついていない。

 とりあえず、上着を脱いで身体をタオルで拭きながら妻に声をかけてかけてみる。

「京子? 寝たのか?」

 そう言った時、二階の寝室から物音が聞こえた。

 二階に上がり、奥の寝室の扉を開けた。

「京子?」

 中は明かりがついていた。正樹は中で行われていた目の前の光景が、すぐには理解できなかった。

 妻に誰かが覆いかぶさっていた。男だ。黒シャツ姿で横顔しか見えなかったがまだ若い。二十歳前後だろうか。

 京子の方は顔が腫れ上がり、口から血を流していてぐったりとして動かなかった。

「何だお前は! 何をしている!」

 正樹は大声をあげて男に殴りかかろうとした。

 が、次の瞬間、轟音と共に、胸の辺りに衝撃が走り、正人は後ろへと倒れていた。

「うるさいな。いいところだったのに」

 男は銃を持っていた。それで、正樹を撃ったのだ。

 胸が熱くて痛くて声が出ない。体も動かない。だが、まだ意識はあった。

 京子の顔を見るが、やはりぐったりとして動いていない。気絶しているのか、それともすでに……。

 男が正樹を見下ろして言った。意識が朦朧として顔はよく見えない。

「何だ。まだ生きてるのか? まあ、その傷じゃすぐ死ぬだろ。しっかりと、自分の嫁さんが死ぬのを見てから逝きな」

 言って、また京子の元に戻り顔を殴った。

 飛び散った血が男の顔にかかり、男はそれを舌なめずりして、恍惚の表情を浮かべていた。

「アハハ、綺麗な顔がぐちゃぐちゃだぁ」

 正樹は叫んでいた。声は出ていなかったが、思い切り叫んでいた。

 憎悪と涙に溢れたその目で男を睨み付けるが、何もできなかった。

 男が京子の顔をさらに殴る。京子は殴られるままで身動き一つしない。

「あれ? もう死んだのかな。残念」

 男は興味をなくしたのか、京子から離れ正樹を見下ろした。

「あー、楽しかった。じゃあな。嫁さんとはあの世で幸せにな」

 言って悠々と外へと出て行く。遊びを楽しんだ後の子供のような軽い足取りだった。

 首筋にサイコロの四のような黒子があった。

 正樹は動かない妻を見た。半開きの目には光はなく、口からは血の混じった涎を垂らしていた。

「…き……こ」

 妻の名前を呼ぶことができずに、正樹は息絶えた。憎悪の目を見開いたまま。



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