第15話 雨は不吉を連れてくる
早朝、なんとか大気中の水蒸気を押し止めていた鈍色の雲は、午前11時頃には堪えきれず天から雨を落とし始めた。
露払家の最奥にある板張りの鍛錬の間にも、高窓のガラス越しに雨音は伝わってくる。しとしとと降りしきる雫の音へ彼の呪文は溶け込むように心地良く響いた。
『締めし結びし、途切れぬ誓い。土地は満ち、整いたり。月華の名を楔とし、ここに御身を召喚す』
暦はすぅと、軽く息を吸い込み一拍空ける。
『来りて 探れ 卯月』
無言時間が続く室内にはわたくしと、露払、暦の3人のみ。
どれだけ待っても人数が増えることは無かった。
「みこっちゃん、ほんまに気配消しとる?」
「ええ、滞りなく。露払さんにも完璧とお墨付きをいただきました」
「じゃあなんでぇ? どう思うせんせ?」
鈍く細かな振動音が暦の問いを遮った。原因は露払のスマートフォンらしく「悪いな」と一言断った後、彼は電話に出た。
うるさくしていたわけではないが、わたくしも暦もなんとなく息を殺してしまう。そのため通話相手の声がやたらと部屋に響いた。会話内容までは不明だが、ひどく切迫した様子の男性が露払に何かを訴えている。
話は思ったよりも早めに終わり、作務衣のポケットにスマホを突っ込みながら露払は立ち上がった。
「露原せんせ、仕事?」
「いや違う。家から急ぎの報告がきたからちょっと行ってくる。午後は予定通り、護符の点検の依頼、頼むな」
「うん、みこっちゃんに説明してやっとく。ああ、でもせっかく久々の修行時間やったのになぁ。召喚ぐらい終わらせたかったー。まあ急ぎならしかたないけど……」
ここ数日、露払は実家や陰陽寮に行くことが多く暦からあまり修行できなくなったとは聞いていた。わたくしも陰陽寮からの仕事をこなす時間が増え、露払と共にしていた締結師や陰陽師の勉強の時間は完全に無くなっている。落ち着いたらまたお願いしたいと考えていたが、しばらくは難しそうだ。
「心配しなくても、もう卯月は呼べると思うぞ。この辺りにも下級の妖がだいぶ戻って来てたしな。慣れたんだろ櫛笥に」
「ほんまに?」
「様子を窺っていた奴が多かったが、害がないとわかれば元の住処にいたいだろうからな」
わたくしが今まで住んでいた環境からすると、東京やこの町はあまりにも妖が多い。それでも、わたくしを避けて数が減っていると教えられたときは驚いた。同時に元いた田舎町の、野山や空が綺麗に見えすぎる光景が異質なのだと気が付く。
おそらく破邪師と――八重の神のせいだ。
「櫛笥、右夜のこと頼むな」
「むしろわたくしの方が教わることばかりなのですが」
「仕事以外も色々な、こいつガキだから」
「みこっちゃんも大人やないけど!?」
頬を膨らます暦をいなす露払。そんな彼と少しの間目が合って、わたくしは軽く頷いた。ここ最近のざらついた不快感、露払の周りの慌ただしさは、言語化しようのない憂い事となっている。
「右夜もいつもの仕事だからって油断するなよ。もし何かあったら……今日は雨だしな、あいつのこと呼んでやれ」
「でもみこっちゃんきてから
「絶対来る。賭けてもいい」
「うちの契約しとる式神なのになんか露払せんせの方がわかった顔してる……」
「どれだけ妖見てきたと思ってんだよ。年季が違うんだ年季が」
こうして、昼食を共にすることもなく露払は実家へと出かけて行った。
午後から暦と2人で仕事をこなすことは元より決まっていたので、バスに乗って目的の場所へと向かう。雨だったせいでしょんぼりしていた村雲は、朝からわたくしのアパートの部屋で丸まっていたのでお留守番を頼んでいる。お昼過ぎに彼のために注文したアソーテッドチョコレートが届くので受け取ってくれるはずだ。
露払家より数十分移動してたどり着いた場所は、大通りから少し入った所にある使われなくなった貸しビルだった。1階には日によって文字が薄くなった学習塾の看板が掲げられている。
誰も顧みない灰色の建物に冷たい雨が降り注ぐ。本格的な冬とはまだ言えないけれど、空からの雫はわたくしたちの身体を冷やすには十分だった。
このビルへ妖よけの術を施したことのある暦から、簡単な説明を受けながら既に設置された護符に破邪の力を注いでいく。耐震の関係で一度取り壊すことが決まった建物だが、オーナー家族の間でその後の利用について揉め、現在行く末が確定していないらしい。
貸しビルの今後が決定するまでの間、変なものが寄り付かないようにしてほしいと一般人ではあるが妖の存在を認知しているオーナー家族から露原家が頼まれたようだ。
「元はおんなじ力なんやし問題ないと思うけど、1週間ぐらい空けてもっかい見に来てくれる? ここの担当みこっちゃんに任せたいって、せんせが言うてた」
「ええ。お任せください」
綺麗に貼られた露払家製作の護符に白く輝くわたくしの力を込めていく。
今回案内と説明をしてくれた暦はその場にしゃがんで、わたくしの所作を黙って見ていた。彼はいつものセーラー服姿だが、ハイソックスは黒のタイツに変わっていたし、上にはオレンジのラインの入った大きめのジャケットを着用している。出会った時よりも季節が進んだことを、彼の服装が否応なしに感じさせた。
「なんか、陽炎ちゃんから話聞いて仕事やっとったうちが、こうやってみこっちゃんに教えてんの変な感じやな」
ぽつり、と暦がそんなことを言う。言葉には寂しそうな響きが少し交じっていた。
「巌乃斗さんとは一緒にお仕事をする機会が多かったのですか?」
「うん。姉弟子やから色々勉強させてもろたし、助けてくれた」
懐かしむように、暦の頬が緩む。彼にとって巌乃斗天莉は姉のような存在なのかもしれない。
「ほんま、カッコよかったんやで陽炎ちゃん。初めて会った時はうちが小学生で陽炎ちゃんが中学生やったんやけど、黒の学ランやったし髪ももっと短かって」
「締結師の、異性装ですか」
「それそれ。詠唱とかもすごい様になっとったのに、最近あんまり堂々としてくれへんようになって」
「まあ」
たれ目の少しのんびりした印象の彼女からは乖離する昔話を、暦はいくつか語ってくれた。巌乃斗には初対面で遠慮なく蹴られているため、戦闘での容赦のなさはわかっていたが、振る舞いは今とは異なっていたようだ。
妖よけの仕事を終え、暦が自慢げに語る『陽炎伝説』に耳を傾けながらビルを後にする。わたくしたちは雨の中帰ろうとして。
【ぴぅううう!】
うすぼんやりと黄色く光る塊が、暦の顔面に飛んできた。
「ぶッ……なんや、う卯月ぃ? 午前中呼んだときはこんかったくせに!」
【ぴうぴぅうう!】
以前から話には聞いていた、暦の式神。
卯月という名の妖は、手のひらですっぽりと包めそうな大きさでウサギによく似ていた。迷惑そうに暦は卯月を摘まんで引き離している。
主の行為に反発するかのように、兎の式神は短い4本の手足をぱたぱたと必死に動かし鳴き声のようなものを上げていた。
「は? なんか変、河童?」
わたくしにはわからないが、契約している暦には伝わるものがあったらしい。
こちらへ軽く手招きすると傘をさして彼は歩き出した。今までいたビルよりも奥まった住宅街へ、わたくしも後ろを付いていく。
どうしてか嫌な予感がして、背負っていた鞄から鈴串を取り出していた。
ざあざあ、ぽつぽつと雨が地を傘を空気を叩き、雨音以外は消えている。まだ陽が沈む時間ではないが、土曜の住宅街は薄暗く近くに闇が迫っているような気味悪さがあった。
誰もいない、雨しかない、そんな道を若い女性が歩いている。
わたくしたちがやって来た道とちょうど丁字路となって接している目前の別の道。そこを視界の右側からやってきた女性が左側へと歩き、戸建ての住宅の陰に消えようとしていた。
普段ならなんてことはない、ただの通行人。
――けれど。
わたくしよりも少し前にいた暦が、顔を強張らせる。
びしょ濡れの布を何度も落とすような気持ちの悪い音がする。ぐしょぐしょと融解するようなそれは、足音だった。
灰緑の皮膚に、頭の皿、くちばしのような口。
河童だ。
大須賀家にいた頃にお目にかかったことはないが、さすがに有名でわたくしでも知っている。各地に伝承の残る、名有りの妖。
その河童が、今目の前を通り過ぎた女性を追う様に右側から現れる。
『なあ、あんた……』
暦が比較的穏やかな調子で、河童に話しかけようとした。妖に思念を通す独特の声は、何かを確認しようと発せられたものだった、が。
暦に答えることもなく、河童の姿が歪む。口から、目から、ぶよぶよとした黒の根のようなものが飛び出した。水分をたっぷり含んだ根が向かう先は、前方を歩く女性だ。
結果を確認する前に、鈴串を握り締めわたくしは駆けだしていた。
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