第16話 雨は救いを連れてくる

 若い女性が左にある住宅の先に歩いて行く。

 わたくしたちのいる道からは見えなくなってしまう、そんなギリギリのタイミングで彼女に黒く粘着質な根が絡みつく。それは女性の背後にいた河童から吐き出されたものだった。同時にこの身体はもう走り出している。


 わたくしに残された猶予は、ほとんどない。

 僅かに許された思考と行動は優先すべきを咄嗟に判断した。


 彼女だ――。


 詠唱もなく破邪の力を注いだ鈴串を、女性へと思いっきり振り下ろす。

 わたくしの捨てられない、生まれついての真白の光。鈴串から飛び出したそれは、想像通り女性には何の効果もなく、周りにある黒い根を焼き消した。

 そのままの勢いで、女性と河童の間になんとか割り込もうとする。

 わたくしは被害をゼロにするために彼女の身を優先した。攻撃しようとした妖へは何もしていない。だから破邪の力を再度込める前に追撃がきてしまう。


 それを防ぐために差し出せるものは、わたくしの身体しかなかった。



『来りて 落ちよ 長月ながつき



 ひどい雨音の中でもよく通る、凛とした呼び声。


 暦が式神を召喚したのだ、と理解した直後。

 閃光と爆音が落ちた。


 妖の見苦しい絶叫と風圧。こちらを襲おうとしていた河童の行動は、激しい電により阻害されていた。びくびくと痙攣し何も為すことができない。

 あまりの眩しさに目を閉じそうになるのをなんとか我慢しながら、束の間の隙に鈴串へと力を向ける。手先だけなら無詠唱で吹き飛ばせても、破邪区域の無い場所で本体を滅しきるのは難しい。

 そういえば、前にもこんなことがあった。

 あの時よりも妖の格は劣る。ならば文言は短くても、間に合うはずだ。


『ねがいますは このすずぐしに めぐりて ささげる』


 本体を薙ぐために、祭具である鈴串を引いて構えた。


『――破邪収束』


 最後に見た妖は、河童というにはその姿は崩れ過ぎていた。虚ろな双眸や半開きの口からは長い根が飛び出し、びたびたと暴れ回っている。それら全てを滅するために、わたくしは鈴串を振る。


 後に残ったのは、雨に濡れた杭とどす黒く濁った染み、抉れたアスファルトの地面だけ。


「みこっちゃん、いける!?」


 慌てて駆け寄って来た暦は、傘をさすのも忘れてずぶ濡れだった。わたくしも最初に走り出した時点で傘は放り投げていたので、濡れ鼠なのは同様だ。


「ええ、大丈夫です。お怪我はないようですわ」


 雷が落ちた余波で倒れ込んだ女性の息と身体を確認する。気絶しているようだが、命に別状はない。


「いや、それはよかったけど、そうやなくて……みこっちゃんは、平気なん?」

「はい平気ですよ。月牙さん、妖の足止めありがとうございます。本当に助かりました」

「うん、うん……どういたしまして」


 どこか歯切れの悪い暦の足元に、茶色い何かが纏わりついている。狼とイタチの中間といった顔の、複数の手足と大きめの尻尾を持つ獣に似た妖。

 雷獣だ。こちらも初めて見た。

 雷と共に落ち、雷を操るという妖は、わたくしをちらりと見て顔を背けた。


「露原さんが言っていたあいつ、とは雷獣だったのですね」

「あーうん。雨とか滝とか水が上から下に落ちるような場所でしか来てくれへんのやけど、ほんま天気悪くてよかった。長月呼ぶような状況になるなんて、露払せんせの言うことが当たってむっちゃ気持ち悪いけど」


 会話もそこそこに、倒れてしまった女性を暦と共に支えて元居たビルへと引き返す。誰にも騒がれず雨を凌げる場所としてここが一番近かった。

 戻る前に落ちた傘や荷物を回収したが、暦は河童のいたあたりに転がっている杭を拾っていた。以前教えてくれた、暦の祭具の押さえ杭だ。破邪師とは違い霊力を込めることで物理的な力を持たせることができるらしく、戦闘時目印によく使うと彼は言っていた。今回も雷を落とす先として活用されたようだ。




 使われていない1階学習塾の階段横にて。

 わたくしは鞄から取り出したタオルで、気を失った女性の髪や服の水分を吸い取る。完全に乾くわけではないが、少しでも寒くなくなればいい。

 隣で、暦はジャケットを外に向けて振るっていた。撥水性のある上着のおかげか、彼のセーラー服はあまり濡れていない。雷獣の長月は暦の足元に寄り添ったままで、異変を知らせた卯月は暦の肩に乗って震えている。


「とりあえずみんな無事でよかったし、えーと、露払家に連絡入れなあかんのと、妖除け完了報告と、それから道路削ってもうたから直してもらわなあかんし、人襲ってる妖の報告と事後処理と、えぇ……この人家に送り届けて……あ、うまいこと説明せんといかんかな?」

「月牙さん」

「どないしょ……うち、記憶操作できるような式神おらへんし、いつも陽炎ちゃんのキミドリがやってたから。……あ、みこっちゃんそういうのでき――」

「暦さん、落ち着いてください」


 ぽたぽたと、暦の前髪から雫が垂れた。

 怖がっている、というよりはやることが多くて戸惑っているのか、口数が多い。


「このままだと風邪をひいてしまいます。まずおうちへ帰って着替えてください。それから、妖除けの仕事を持ってきた露払家の担当者の方に連絡を入れてもらえますか? その時に今遭遇した出来事を合わせて報告していただけると助かります」


 仕事を受けてからのやりとりは暦の方が慣れている。ここは彼に頼んだ方が早い。


「わたくしは、この女性の精神状態と体調を確認してから家にお送りしてきます。終わり次第合流しますので、露払本家に直接報告へ行くというのならお供いたします」


 ビルに戻ってきた際に、すでに連絡用の式神を飛ばして村雲を呼んである。式神契約をしていなくとも近場に居て思念を込めて呼べば村雲には聞こえるが、わたくしの住むアパートからここまではさすがに届かない。

 彼ならば来られなくとも、無理なら無理と返事をくれるはずだ。

 わたくしに他人に暗示をかける力はない。けれど露払から事後処理部隊があると聞いている。女性が何か覚えていて拒否反応を示すようなら、彼らか村雲にお願いすればいい。


「うん、わかった……」

「時間があれば、お風呂に入った方が良いですわ。お気をつけて」


 もう1枚残っていた未使用のタオルを暦に渡す。彼は一言お礼を言うと、式神たちと共に、傘を広げて走って行った。

 わたくしも濡れていたタオルを一度絞って、自分の髪を拭く。

 そろそろ、村雲から返答ぐらいは来るだろうか。


「お待たせしました、みことさま!」


 返事どころか、本人が来た。


 妖狐の毛並みを想起させる黒髪と、少し糸目で優し気な瞳。想像していた以上に早くやって来た村雲は人の姿に化けていた。こちらの姿になられるとわたくしよりも身長がかなり高いのでいつもと違って見上げることになる。


「は、早かったですわね。村雲」

「そうでありまするか? ――こちらが、連絡にあった女性の方ですね?」


 意識のない雨に濡れた女性を、村雲は肩を引き寄せ抱き起す。許可を求めるようにわたくしを見つめるので、彼の思惑を察し黙って頷いた。

 村雲が自身の妖力を軽く流し、底に沈んだ女性の意識を驚かせ救い上げる。ゆっくりと瞼を開けた彼女は、村雲と視線が合いすぐに虚ろな表情となった。


「こんにちは」

 柔らかく温かく、心をほぐすように村雲は語りかける。


「何か覚えていることはありますか?」

「わ、私、私……帰る途中で、そこから記憶がなくて」

「ふむ。何も覚えていないようですね。特に何かする必要は無いと思いまする」


 ぼんやりとしたままの女性を立ち上がらせ、村雲はわたくしへと振り向いた。


「ありがとうございます。では、わたくしは彼女を送ってきますので、もう一つ仕事をお願いできますか」

「周辺の確認でありまするね」

「ええ」


 人を襲おうとしていた河童は滅した。あの場にあった邪悪な気配は消失している。だが、知識としてある河童の挙動としては違和感しかなかった。わたくしが感じられる脅威は無いが、念のため村雲にも確認してもらった方がいい。


「お任せください! 先程配達のちょこれいとを受け取りましたので、その分働いてまいりまする!」


 笑顔を浮かべた村雲は、即座に雨の中へと戻って行く。

 今日届く予定だったチョコレートは前回の仕事のお礼の分だ。今回の褒賞はまた別に用意しなくては。


 軽く手を叩き、女性の意識をはっきりさせる。急に倒れた彼女を偶然助けた一般人として振舞ったわたくしは、ひとまずこの場を立ち去った。

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