第12話 夕刻の平穏
「高地湖とはどんな妖なのですか?」
「うちこないだ会ったばっかやからそんな知らんへん。公園行っても出てきたことないし」
「……そうですか。では装填のメルヒェンツァウバーってご存じですか?」
「ああ、マンガアプリで連載しとるやつ?」
「え、漫画なのですか?」
「うん。魔法とかあるファンタジー系のやつやな、どしたん?」
「……いえ、ますます訳が分からなくなりまして」
簡易契約が結局上手くいかなかった暦と共に露払家へと帰る道中。
少し日が傾きかけた住宅街を2人並んで歩く。暦がスキップするように動く度、わたくしの肩ぐらいの高さで赤茶っぽい髪と二つに結った髪が跳ねていた。
わたくしの質問に暦は不思議そうにしているが、その気持ちはこちらも同じだ。
高地湖が突然会話を断ち切って去ってしまうぐらいその漫画に重要な秘密でもあるのだろうか。
暦に装填のメルヒェンツァウバーの内容を聞きながらしばらく歩き、ようやく露払家の前まで帰って来る。庶民的な日本家屋の玄関先では、なぜか芳醇なトマトソースの香りが漂っていた。
「あ、陽炎ちゃんや!」
暦は一気に破顔すると、いつものように玄関を無視して家の左側、つまり庭へと走っていく。わたくしも同じように後を追うと、ガラス戸の開けられた居間で見覚えのある女性がスマートフォンを操作しながら座っていた。
オリーブ色の丈の長いパーカーと、足にピッタリ沿った黒のズボンを着用し、髪はキャラメルブラウンのボブ。初対面のスーツ姿も良く似合っていたが、この服装も彼女の雰囲気に合っている。
名を、
締結師としての仮名は陽炎。本名は後日露払家を訪れた時、彼女本人から教えてもらった。
「おかえり。右夜、櫛笥さん。――もう、陽炎って呼ぶのやめてって言ったよね」
「かっこええのに」
暦はつまらなそうな顔をするが、それでも巌乃斗が来ていたことが嬉しかったのかすぐにローファーを脱いで屋内へと上がる。
「ただいま戻りました。巌乃斗さん。いらしてたんですね」
「うん、ちょっと用事があってね。露払先生から聞いたよ、右夜の修行に付き合ってくれたんだって? ありがとうございます」
「お礼を言われるほどではありません。わたくしはただ座っていただけですから」
「いやいや、時間割いてくれてありがとね」
「なぁなぁ、天莉ちゃん。むっちゃええ匂いするけど、何?」
「煮込みハンバーグだよ。露払先生が、お金くれたからいい肉買って――」
「っしゃあ!!」
暦は嬉しそうに台所へと走っていく。もう夕飯の事しか頭にないらしい。
巌乃斗は暦と同じく露払の弟子で、大学に通いながら締結師の仕事をこなしている。見習いは卒業済みでこの家で修行することはないそうだが、度々やって来ては師匠から現金を頂戴して食事を作ることがあるのだとか。余ったおかずは持ち帰っていいと言われているので、1人暮らしの彼女は喜んでご飯を作っているようだ。
「櫛笥さんも、晩御飯食べていくよね? それともおうちにご飯用意してた?」
「いいえ。まだ夕食をどうするか決めていなかったので、巌乃斗さんさえよければありがたくいただきます」
「もちろんだよ! あ、そうだ」
そこで思い出したように、机の上に置かれた細長く分厚い箱を巌乃斗に手渡される。
「これ、露払先生が櫛笥さんにって。専用のアプリとか、通信隠匿の術とか準備に時間かかって渡すの遅くなってごめんって」
わたくしが受け取ったのは、開封済みの新規スマートフォンだった。以前仕事用に露払が準備すると言っていたので、それだろう。
「ありがとうございます。それで、露払さんは?」
本来ならいるはずの家主はいつまでたっても姿を現さない。暦と高地自然公園に行く前は、居間のデスクトップパソコンの前で仕事をしていたはずだ。
「なんかね、急なお仕事入って出て行っちゃった。だから私がご飯作ることになってね」
「そうでしたか」
露払は基本的に忙しそうにしている。
暦が学校に行っている日中、わたくしは彼から締結師のことについて学んだり、彼が陰陽寮から受けた任務に同行したりして過ごしていた。その間も、電話やら式神での伝達やらで、露払には引っ切り無しに連絡がくる。
来週以降はわたくしに単体で仕事を任せるようにする、と言っていたので少しは彼の手が空くだろうと思っていた。けれど、それならそれで露払は別の仕事をするだけなのかもしれない。
ともかく夕食をいただこうと、暦と共にテーブルの準備や食器の用意を手伝った。居間の座卓に巌乃斗特製の美味しそうな次々と料理を並べる。
トマト缶を使ったソースと、煮込まれた肉厚のハンバーグ。新鮮なサラダには柑橘と胡椒の手作りドレッシングがかけられ、パンかご飯かを選べるようにしてくれている。
「最近は、スーパーのお弁当かカップ麺ばかりだったので、出来立ての料理が食べられてとても嬉しいです。巌乃斗さんは本当にお料理が上手なのですね」
飲み込んだハンバーグがあまりにも美味しくて褒めると、ぎょっとした表情で暦と巌乃斗が固まっていた。
「みこっちゃんそんなお嬢様みたいな顔してカップ麺とか食べんの?」
「顔は関係ないと思いますが……節約しないといけないのでできるだけ安いものを購入しています。近頃はお値段以上に美味しいものが多いですよね」
もちろん、大須賀家の屋敷や櫛笥家で食べていたものに比べると質は落ちるが、値段を考えれば十分すぎるほどの味だ。
「その、櫛笥さん。ご自分で作ったりとかはしないんですか?」
巌乃斗になぜか遠慮がちに聞かれた。
「挑戦したのですが、なぜかシンクの所で爆発してしまって……村雲もやる気だったのですが、なぜかコンロが爆発したのです。不思議ですわ」
「……不思議だねぇ」
「みこっちゃん、家庭科の実習とかどないしとったんや……」
「同じ班の方がとてもお優しい、というか過保護でしたわね。お肉を切ろうと包丁を握ったら、二度としなくていいから調理器具とか食器を洗って準備する役をしてほしいと言われました」
「わぁお」
「そうとうや。そうとうやでこれは」
幾分か青ざめた顔で、夕食を再開した暦と巌乃斗。
彼らの表情が強張っていた理由は、なぜだかわからなかった。
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