狐の小話、後日談
むかしむかし。今よりもまだ幼い村雲は、よく他の妖の子らを眺めていた。
歯の隙間から舌を覗かせ、複数の手足を動かす。奇妙な笑い声を上げる。
村雲とは、別の姿をした子どもたち。
それは、同じ妖という括りではあったけれど、村雲とは違う存在だった。
近寄って話しかければ、遊びに誘えば、首を振って逃げていく。
【やだよやだよ】
【キミとは遊ばないヨ】
【遊べないよ】
雑音の交じったような返事は、いつも村雲を避けていた。
何でも、自分の親はとても強い妖狐らしい。
会ったことはないけれど、時々その威圧を感じることはあった。彼の把握する範囲に収まっているのを、村雲は知っていた。
伝わってくる雰囲気は恐ろしく、まるで嵐のような激しさ。到底敵わない強者として、生まれてきた時から身体に刻みついていた。
その強力な親は、村雲だけでなく多くの妖に畏怖を与え、支配している。
もし、その子どもに傷の一つでも付ければ、どうなるかわからない。
だから、村雲と関わろうとする妖は、誰も居なかった。
それで村雲が寂しい思いをしても、その妖狐は何も言わなかったからだ。
「拙者は、特別なのでありまするね」
例え心と呼ばれるものが冷たい水の中にいるような心地でも、そんな風に考えればなんともなかった。
自分は特別なのだ。他の妖とは違う。
だから、遥か彼方の高みにいる父親に負けないように、在らねばならない。
野山を走り、炎を吐いて、爪で抉り、蹂躙する。
弱い者たちを一掃してやろうと、小さな身体に分不相応な夢を抱いて、村雲は――失敗した。
はっきり言ってしまえば、まだまだ世間知らずの子どもであった。
いくら強者の子だとしても、世界は広く、また優しくなかった。長命のもしくは狡猾な悪辣をその身に宿した妖は多数存在し、歯向かう敵に容赦しなかった。
あの妖狐の子だというのならこちらから手出しはしないが、牙を向けるのなら別である、とまるで埃を落とす様に村雲を振り払う。
自分は特別だから、――だから遊んでもらえないの。
傷つき、荒れ地に倒れて動けない。それでも、ただの低級の妖と同じように扱われた事実は、到底受け入れられない。その諦められない見苦しさは、数十年、数百年続いた。認めてしまえば、自分が終わってしまうと理解していたからだ。
そして、孤独なままの村雲は、無謀にも人里に降りた。
自身の力を示すため、別の方法を考えて、人間を利用してやろうと思ったのだ。
いい匂いのする小娘が、呼んでいる。
繋がった世界の先で、微笑みながら手招きしている。どうやら、妖を使役したいらしい。あの小娘を食らえば、さらに能力も上がるだろう。取り込むには苦労する類の力だが、妖狐の子である自分なら耐えられる。
そう思って、知りもせぬ屋敷に現れて、後悔した。
狭い和室は、同じ考えに至った、他の妖で溢れていた。主人となる彼女の力は、陰陽師とは違う破邪の力。当然消滅の可能性がある低級の妖など、いはしなかった。
村雲を押しつぶした者がいる、村雲を突き刺した者がいる、村雲を焼いた者がいる。
自分はもっと強いはずなのに、まだ幼いから勝てぬのだと、いつか必ず追い越してやると避けてきた妖たちが集まっていた。
あまりの重圧に動けなかった。
情けなく尻尾を丸めて、震えるだけの弱い存在。
村雲が戦いを挑んだ時に本気など出されていなかった。ただ、遊ばれていた。だが、今は彼女を勝ち取ろうと、複数の妖が出す殺気だけで心が折れた。こんなところに来てはいけなかった。ましてや、自分が契約するだなんて、甘すぎる妄想だった。
帰ろうという意志さえ忘れて、ただ丸くなることでやり過ごそうとして。
「ぜんいんはさすがに式神にできないから、このこにするね」
誰かに優しく抱きしめられた。
それは、生まれて初めての経験だった。
部屋の妖たちの様々な思惑が、一斉に飛び交う。もちろん村雲への悪意もあったが、それは彼女の力によって弾き飛ばされる。
文句は言わせないと、手出しはさせないと。その少女は妖たちを黙らせた。
気が付けば、多くの妖たちは消え去り、村雲は彼女の式神となっていた。
「どうして、拙者を選んだのでありまするか」
食ってやろうとやって来たことをすっかり忘れて、主である人間に尋ねる。
彼女は大須賀ミチルと名乗った。
「えー、だってふわふわしてたよ」
「ふわ、ふわ?」
「むらくもはキツネだよね? なにたべる? このくさとかどう、おいしい?」
「むぐう……び、美味ではありませぬ」
「じゃあやっぱり、おにくかなあ? おにくだよね」
「あのお、えーと?」
村雲の主は、無邪気でよくわからない少女であった。どう関わればいいのか質問されたし、聞かれる前に試されもした。そして、村雲を抱きしめてよく撫でてくれた。
「ほら、むらくも! おもちゃだよ、とびついていいんだよ?」
「主さま、拙者は飼い犬ではありませぬので」
「ほら、むらくも! こっちだよそこにねて!」
「主さま、拙者は枕ではありませぬので」
「ほら、むらくも! 病院行くよ、よぼうせっしゅ?打ってもらわないと!」
「主さま、良くわかりませぬが、拙者は妖なのでそれは絶対必要ありませぬ」
数百年生きたところで、子ども扱いされる妖の世界。それでも村雲は、人間よりは大人のつもりであったし、優れていると思っていた。
だが、数年しか生きていないこの少女に勝てる気がしない。
破邪の力はすさまじく、首を垂れたくなるのはもちろんのこと。会話や扱いがいつも想定外で、まったく支配下に置ける状態ではない。
わけのわからぬ主に混乱しながらも、村雲の自信は少しずつ回復していった。
数多くの妖の中から、選んでくれた強い人間。
彼女が、手を取ってくれたのだから、やはり自分は弱くないのかもしれない。
あの妖狐の子で、特別だから。普通の妖ではないから、選ばれた。まだまだきっと、強くなれる。今は勝てない相手でも、いずれ追い越して、力を見せつけてやる。
それまでは、彼女の傍に居よう。それこそが、他の妖とは違うのだという証明になるのだから。
村雲は主に逆らわなかった。
大体のことは受け入れた。彼女に気に入られていたかった。
本当のちっぽけな村雲を暴かれることが怖くて、有能であると示し続けた。上位の妖に敵わなくても、主が求めるようなことは器用にこなしてみせた。その程度の力はあった。
「ねえ、村雲。きいて」
「どうしたのでありまするか?」
彼女が、小学校という子どもたちの藩校や寺子屋のようなものに通っているのは知っていた。その『3年生』と呼ばれるころの話だ。
「あのね、ボクね。男の子に、告白されたの」
膝を抱いて、少しだけ頬を赤くしながら、彼女は村雲だけにこっそり教えてくれた。
「ほう、こくはく、ですか?」
「うん。ボクのことがね、――好きなんだって」
「好意を伝えられたのですね。それは、よかったでありまするね」
「うん。びっくりしたし、その子のことはあんまり知らなかったけど、嬉しかった」
人の恋情に理解は無かったが、不利益になるような出来事ではないと判断する。きっと、主は良いことを村雲と共有したかったのだと、そう思った。
「返事は、また今度でいいって言われたんだけど」
「どうなさるのですか」
「……どう、しようか」
彼女は感情を顔から消して、立ち上がる。
村雲と主だけの本家の一室で、誰も立ち入らないふたりだけの夜。肌寒い空気だけが、その場にゆっくり落ちてく。彼女の凍り付いたような表情は、遠くから主を観察しているとたまに見せるものだった。
数日思い悩んだミチルは、告白してきた男児へ断りの返事をしたと教えてくれた。
こうやって、彼女が心を語るのは、修行終わりの冷たい夜が多い。
「ボクね。大事なものは作っちゃいけないんだ」
「どうしてで、ありまするか」
「だって、どうせ全部なくなっちゃうから。全部ムダだし」
大須賀家の、八重の巫女という役目については何となくわかっていた。昔から、人のやることなど、変わりはしない。土地神に祈りを捧げ、朽ちていく人など星の数ほどいたのだから。
「あの子とずっと一緒にいて、勘違いするところだった。自分も、温かいところにいていいんだって、思っちゃうところだった。危なかったなあ」
あの子。
主であるミチルと同じ、もう1人の八重の巫女候補。
「……主さま」
「はあー、がんばろ。そこそこで生きていかないと」
村雲の答えなど期待していない、ただのひとり言。
手を伸ばして、傍らの自身の式神を抱きしめて、顔を埋める。
村雲の小指の先ほどしか生きていない少女に、本人ではどうしようもない環境が絡みついている。そして、彼女は逃れることもできず、最後はきっと飲まれて消える。
誰にも、その運命が変えられない。
だから、彼女は大事なものはつくらない。
そうはっきりと、自身とこの世に区切りをつけているミチルであったが、例外はあった。
あの子――、櫛笥みことである。
「ねえ、むらくも。みことのようす見てきてくれる?」
そんなことを、式神契約をしてからよく頼まれた。
ミチルの用事がある時、傍らに控えていなくてよい時、別の少女を見守るよう頼まれた。
いつしか、みことと個人的な話をする様になった。村雲は、ミチルに命じられずとも、もうひとりの八重の巫女候補の様子を見に行くことが多くなる。
一度、みことの休憩中に訪れ甘味をわけてもらったのをきっかけに、よく現代の菓子を食べさせてもらうようになった。浮かれて飛び回りたくなり、これでは小童のようだといつも慌てて自身を戒めた。
自分が秘密にしておきたいことを省きながら、みことのことを主に報告する。普段の何でもない些細なことを、ミチルはほっとしたように聞いていた。
そんな日々が続いて、数年後。
親族の集まりがあった日から、ただ漫然と修行をして毎日を送っていたミチルの行動が変化してきた。
裏で修行を重ねながら、親族やみことの前で見せる力を調整している。勉学はみことの少し上ぎりぎりを狙って試験の結果を出し、破邪の修行も同じようにみことの少し上の成果を上げる。
「どうして、そのようなことをなさるのでありまするか?」
「こうやって、みことよりちょっと上ぐらいなら、あの子追いつこうと頑張ってくれるでしょ? そしたら能力値あがるじゃん」
「みことさまを、お強くされたいのですね」
「うん。ボクどうせいなくなっちゃうからさあ。その後とか、みことが優秀なら、どんな道でも選べるでしょ」
彼女は確実に、みことのことを大事にしていた。
持てないとわかっているものは、もたない。だから関わらない。
でもそれは、簡単ではないようだった。
みことと必要以上に親しくしようとはしない。でも、本当はしたい。
心のどこかで割り切れない部分がある。
だから、時折その行いに矛盾が生じる。
「ほらほら、見て村雲―! この間の文化祭の執事&メイド喫茶の写真。みことがさー、メイド服そこそこ似合ってるのに不機嫌顔だしさー、面白くない?」
「ほう。良く撮れておりまするね。主さまも、みことさまも、お似合いです」
「まあボクは当然だよね。クラスの男子よりも指名のあった執事だからね。No.1執事なわけよ」
「しめい? なんばー、えーとすごいでありまする」
「あ、良くわからないのに褒めたな! こうしてやる!」
「あ、主さま! 逆に撫でるのは! 毛と逆に撫でるのはいけませぬ!」
村雲をひとしきりいじった後、彼女は携帯端末の画面に触って何かを悩む。白い背景に黒字で『削除』と表示されていた。
「データだしね。いつでも消せるし、どうせ残らないから」
言葉にして、納得させる。その写真を持っておくための、彼女なりの言い訳だった。
そんな風に、近寄っては自分を律し、仲良くなりかけて後悔する。そんな繰り返し。
みことと話していて、主との距離感にもどかしくなる。
本当はもっと、もっと言いたいことがあるだろうに。
ミチルは、村雲を言い訳に使わないと、誕生日の花すら渡せない。
その日に届いた綺麗な花束から一本抜き取って、式神に銜えさせることしかできない。
村雲からってことにしてよ、とへらっと笑うだけ。
たくさんミチルと話をした。みこととも話をした。
過ごした日々が重なっていく。
そして、気持ちが変化していく。
ミチルとできるだけ長くいたい。
その思いを叶えてやりたい。
ミチルは、確かに特別ではあったけれど。
彼女のままならないことは、あまりにも多すぎた。
だから、主の最後の命令は、きちんと果たさなければ。
ミチルが死んだ後、いくつかの物品を回収すること。みことを屋敷から逃がすこと。
そして、持っていけないつげ櫛を返すこと。
そこにはもう、気に入られたいだとか、強くありたいだとか、特別になりたいだとか。そんな、自分の利益になるからなんて、利己的な理由は無かった。
あれほど執着していた、『特別だから強くあること』は、人里での出会いが、言葉が、体験が、洗い流していた。抱き上げられてから今までの短くて長い時間で、あんなに大切にしていたことがちっぽけなものに感じる。
村雲はただ、ミチルの希望を聞いてやりたかった。
何百年も、血反吐を吐いて走り回った荒野は遥か彼方。
今ならあの頃の幼い自分へ、もういい、と言える気がした。
そして、彼女がどれほど強大でも、別れの日はやってくる。
「よてーどおり、ここから出て。みことには、怒られる、だろう、けど」
「……はい」
「さいごだから、もんくとか、あるなら、……いってもいいよ」
「主さまがお決めになられたことでしたら、拙者に進言できることなど無く……」
「いいこだね。ありがとう」
血まみれの格衣と白衣、土で汚れた緋袴。
巫女として全てを捨て去るはずだった村雲の主は、見事に八重の神を打倒してしまった。村雲もここに至るまで気が付けなかった恐ろしい妖に、親である妖狐と近しいものを感じる。
そして、変わらぬミチルの命令。状況は予想とは変わってしまったが、みことは結局連れ出す他にない。大須賀家にいるよりは、ずっとましだろう。
だが、今はそんなことよりも。
「あとね、村雲がさ、飽きるまででいいから、みことのそばに、いてやってよ」
「飽きるまで、でありまするか?」
それは、一生や何年までと期限を設けたものではなく、村雲の気持ちに委ねたお願いだった。その言葉の重みから、命令ではないと感じ取る。
ミチルから破邪の力、すなわち生命力をもらうことでこの契約は成っている。事前に言いつけられていたこととは違い、ミチルにはもう村雲に渡す命がない。
だからこれは、ただの村雲とただのミチルの会話だ。
「主さまとはここでお別れです。この後のことなど頼んで、拙者がそれを律儀に守ると本当に思っているのですか?」
そんなことを聞いても答えなどわかっている。それでも、らしくない、試すようなことを言ってしまったのは、少しでも彼女と話をしていたかったのかもしれない。
「ううん、そ、だね。守ってくれる、とかじゃなくて……いいんだ、村雲なら。そのまま去っても、いてくれても、どっちでも。君の選択ならボクは受け入れられる」
苦しそうに息と言葉を吐く。僅かな生気が失われていく。
「こうしてくれとはお願いするけど、でも結局は……みことと、きみが、自由で、好きにしてくれたら、それでいいんだよ」
感覚もなく、もう自分の存在すら希薄だろうに。
この少女は、いつものように微笑もうとする。
「好きに、ごはんをた、べて。好きに、で、かけて。好きに、……すきに、すごして、好きに、生きて――以上、じゃあ、よろしくね」
「はい。はい……主さま。これにておさらばでありまする。拙者は幸せ者です。主さまの式神であったことは生涯の誇りです」
そして、最後の一片がこぼれ落ちた。
「さようなら」
血と傷と土で塗れた主の頬を、一粒の水が伝う。
中途半端な口の開け方をして、動きが止まる。
いなくなってしまう。
優しく村雲を抱き上げた腕は、二度とそうしてはくれない。
小さな仔狐はその場で泣いた。
自分のためではなく、人のために流した初めての涙だった。
これが、村雲がその生涯で契約した唯一の主との、さいごの別れだった。
村雲が主の残したつげ櫛をみことに渡してから、何日か経過した。
残された彼女はそれからミチルの話をすることはなく、ただ淡々と入院生活を送っている。
八重の神の祝福が無くなり、大須賀家を守護し高める能力は無くなったはずだ。治癒能力の低下の他にも、悪い影響が出るのではないかと心配していたが、これといって変化はなさそうだった。
毎朝決まった時間に起き、病院食を食べ、時々検査に行って、消灯の時間になれば就寝する。暇な時間は、ぼうっと窓の外を眺め、村雲が院内の図書室から借りてきた本を読んで過ごす。
そして、ひとりで考え込むように白いベッドの上でずっと座っている。みことは、そんな状態を数日続けていた。
最低限の会話は交わすものの、以前のように仲良く話すことはしない。
村雲はみことからの拒絶を感じ取り、自分から距離を取っていた。
だが、ずっとはこうしていられない。
身元などの情報はいくらでも誤魔化すが、もう体調に問題がないのなら退院しなければ。それをどう告げようかと迷っていれば、良く晴れたある日みことに用があると呼び出された。
立ち入り禁止の病院屋上へ、鍵を開けてこっそり忍び込む。
もう8月も終わっていたが、夏の暑さは過ぎ去らず、コンクリートにその熱を反射していた。近くの山で喧しく蝉が鳴いている。冷ややかで恐ろしい八重の山とは全く違う、生を訴える声で溢れた場所だった。
白い塗装の剥げかけた手すりに触れて、空と街をみことは見下ろしている。
そんな彼女の隣まで歩んで行って、村雲は景色ではなく彼女を見下ろした。病院でみことの世話をするのに、本来の妖の姿のままでは不便だ。そのため、人間の男性に化けたまま生活していた。言い訳として、みことの兄という体を装っている。
「村雲、目覚めてからずっとわたくしの傍にいてくれて、ありがとうございます。ミチルさまからの命令だと思いますが、とても助かりました」
彼女の話は、まずはお礼から始まった。
「……主さまからの命はありますが、拙者は好きでこうしていますので」
「そうですか。……ありがとうございます」
みことが、村雲と視線を合わせて、ぎこちなく微笑む。以前の彼女のように、何とか取り繕おうとしているのがわかる。
「それで、今後のことを色々と考えたのですが、もう本家には戻れませんし、……東の陰陽寮を訪ねてみようかと思っています。土御門の一族に知り合いもいますし、何とかなるかもしれない、ので」
八重の神を失うきっかけを作り、大須賀家におめおめと戻れるなどと、みことは甘い考えをしていないようだった。
本家の様子を探ってはいない。だが、代々大切にしていた神というまがい物が死に、八重の巫女も立ち去り、祝福を受けられなくなった親族たちの有様は、さぞ混沌としていることだろう。一族の嘆きや怒りは、おそらく生き残ったみことに向けられる。
どんな目にあわされるか、わかったものではない。
「陰陽寮に連絡を取ったが最後、大須賀家に突き出される可能性もありますが、あまり本家とは仲良くは無かったので、そうならないことに賭けてみます」
そもそも、自身が受け入れられない可能性があることに、みことは気が付いているだろう。けれど、それでも、と彼女は力強く語る。
ベッドの上で孤独に思い悩んでいた少女は、今ようやく立ち上がって進もうとしていた。
「馬鹿なことをしたわたくしを生かしてくれたミチルのためにも、――生きなければ」
人々の喧騒が近く、どこかで工事の音もする。そしてますますうるさく蝉が鳴く。
誰も彼もただ生を謳歌している。
彼女はもう一度そこへ加わって、進み続けようと決めていた。八重の巫女を目指すという生きることへの断絶を諦めて。後悔も何もかも飲み込んで、次へと。
そのための支えを村雲が何かした訳ではない。彼女自身で、かみ砕いて、じっと耐えて、鬱屈したものを抱えていこうとしている。
「みことさまが、前を向いておられて、良かったでありまする」
ほっとする。空想の中の主が、にやっと笑った気がした。
「……ここで、立ち止まれませんから。それに、以前よりも、思考が明瞭になったのです。ずっと迫ってくるような焦燥感がなくて、やっとまともに考えられるような」
おそらく、八重の神の影響から逃れたせいだろう。
受けた傷や、忘れられない関係はあっても、彼女の精神を縛るものは、既に消え去っている。
「ですから、村雲。わたくしは、回復しましたし、もう大丈夫ですわ。ミチルさまからの命令は、わたくしの身体の無事を見届けて、とかそんなところでしょう。主人との契約は果たされたのですから、あなたのいるべき場所に戻っても構いません」
みことは、屋上の柵から手を離すと、村雲へ向かって丁寧に頭を下げた。
「最後までミチルさまに仕えてくださって感謝しています。本当に、今までありがとうございました」
「みこと、さま」
いつも綺麗に巻かれていた黒髪は、入院生活で満足な手入れもできず、無造作に結ばれている。それでも彼女の気品は損なわれることはなく、まっすぐなもので。暫し、村雲を黙らせた。元より決めていたことだが、彼女へ気持ちを返す上手い言葉がなかなか見つからない。
「あの、……これでお別れ、みたいな空気なのですが?」
「あら、村雲はもう妖の國に帰るのでしょう? どんな所か知りませんけれど」
「いえいえ、みことさま。拙者はまだ人里におりますよ! せっかくですし、みことさまのお傍に居させてください!」
「ええ、でも、わたくし無一文になってしまったので、上質のチョコレートは、食べさせてあげられませんけど……」
「べ、別に拙者は、ちょこれいとが欲しいから付いていくわけでは……」
「チョコレートが全く欲しくないと言い切れるのですか?」
「それは、その、うう、……すみませぬ。欲しいでありまする」
「――っふふ」
堪えきれないという顔で、みことはその場で思いっきり噴き出した。くすくすと、口元に手をやって、なかなか笑いが止まらない。
こんな自由に、屈託なく笑う彼女は初めてだった。
そのことに胸が締め付けられ、主の望みが叶ったのだと知る。
「では、おいしいチョコレートを再び村雲に食べてもらうためにも、わたくし頑張りますね」
「うー、それだけではありませぬのに」
「ええ。わかっていますわ。ずっとではないでしょうけど、どうぞ好きなだけいてください」
「はい、みことさま」
「では、行きましょうか」
村雲とみことに、太陽の光が降り注ぐ。
普段のように体毛が多くない人の身体でも、耐えるのが辛いほどの暑さだ。でもすぐに、気温は和らいで、秋が来て冬が来る。季節はまだまだ巡っていく。
『村雲がさ、飽きるまででいいから、みことのそばに、いてやってよ』
村雲の主は、飽きるまでとそう言い残した。
正直、今後どうなるかはわからない。
物事は変動するものだ。永く変わらない時を生きていた村雲は、ミチルと出会ってそれを学んだ。価値も考え方も、どう転ぶかわからない。
だから、そう。
どれだけいられるか、なんてわからないけれど。
今だけは、ひとりになってしまった主の友人と、共にあろうと村雲は決めたのだ。
狐の小話、後日談――そして、ある種のプロローグ
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