第22話 つげ櫛よ、君があれな


 ああ、これで苦しく泥の中を這っているような日々から解放される。

 そう思って意識を手放したわたくしの最期は、大嫌いな女のせいで見事に裏切られた。


「みことさま」


 目覚めて最初に声をかけてきたのは、見慣れぬ風貌の男だった。

 いや、よくよく考えれば一度会ったことがある。

 少し糸目の、大人のわりにその中身は少し幼そうな。

 遠慮した、面持ちの彼。


 その男と満足に会話を交わす暇もなく、すぐに大勢の看護師や医者がやってきた。大勢と、言うのは誇張した表現だけれど、数人でも大勢は大勢だ。正直あまりにも疲れ切っていてひとり以上と会話することは苦痛だった。


 どうやらわたくしは、住んでいた地とは遠く離れた街の病院に、意識不明の患者として運ばれてきたようだ。

 入院に必要な手続きや身分の証明は、たぶん隣にいた男が何とかしてくれていた。時々、目の光が消えて抑揚のない声でしゃべりだす看護師を見て、妖は便利だなと恐ろしくもなる。上手く誤魔化してくれているようなので、術をかけていることに不満などはない。

 だが、状況に納得したわけではなかった。


 わたくしの体調や事情から周囲が距離を置いて、そして体力も戻ってきたころ。

 入院していた病院の裏山をひたすら歩かされて、街が一望できる木々の生えていない場所に案内される。


「主さまには、ここでお眠りいただくことに致しました」


 殊勝な態度で跪いたのは、目覚めたときに初めに目にした男。

 低く落ち着いた、耳慣れた声だ。

 姿形は人の姿をしているけれど、良く知ったミチルの式神、村雲だった。


 彼の視線の先に、少し盛り上がった土がある。

 澄み渡った空と、人々の営みが伝わってくる街を臨めるこの場所が、彼女の終わりだと、そう告げられる。


「どうして、ですの」


 意識を取り戻してから、何度目かわからない質問を口にする。

 わからない。ミチルに命を救われた、ということはわかった。事実は知った。

 けれどわからない。――理解できない。


「ねえ、どうして」

 決して答えはしない、地面の下の彼女に問いかける。

 黙っていることがあまりにも気持ち悪く、体中に変な汗が浮かんでいた。

 脳裏に初夏の風のように笑う彼女の姿が過る。


「主さまは、みことさまを死なせたくなかったのです」

 苦し気なミチルの式神は、何度も繰り返した私の質問にいつもの答えを返した。今、彼が狐の姿ならば、その耳はしょげて垂れ下がっていたに違いない。


 心と身体の違和感を少しでも緩和しようと、深く息を吸い込む。

 樹木と空と陽が交じり合った、暖かく爽やかな空気が肺を満たす。日々を過ごしていた、あの町の空気とは全く異なる、透き通ったそれは、わたくしを幾ばくか慰めた。


「みことさま、こちらをお受け取りください」


 村雲から差し伸べられた手には、懐かしい物が乗っていた。


 昔、まだわたくしが幼かった時分。

 まだ八重の巫女への執着などそこまで無かったころ。

 父に言われて、本家の娘であるミチルへ贈った、誕生日プレゼント。

 もちろんわたくしがお金を出したわけではなく、店へ連れていかれて、自由に選んでいいと言われて、そして指差した品。



 撫子が彫られた、古いつげ櫛。



「……いりません。それはわたくしの物ではなく、彼女に渡したものです」

 微かに声が震えた。


「いけませぬ。これは拙者が主さまより受けた、最後の命でありますれば」

「これを……返すことが?」

「はい。これは大切なものだから、黄泉へは連れていけぬと」

「……」

「その後、みことさまがどうしようと構わないから、自分と一緒に埋めることはやめてくれ、と、『だって、これは――ボクの」


 村雲の口から続いた言葉に、視界が歪んだ。

 じわじわと景色の輪郭がぼやけ、熱いものがこみ上げる。何もかもが苦しくて、どこかへ逃げ出したいのに、何処にも行けない。


 わかっていた。わかっていた。わかっていた。


 残されたミチルの形見は、とても綺麗に保たれていた。

 贈った時よりもほんの少し濃くなったその色に、時の流れを感じた。


 彼女の後姿が目に浮かぶ。

 茶色の柔らかな髪を風が攫う。

 その美しさをまざまざと見せつけて、ミチルはこちらを一切振り向かない。

 もう二度と、振り向きはしない。


 ミチルがつげ櫛を撫でる。

 細く繊細な指先で、壊れてしまわないように、壊してしまわないように。指先が滑る。

 その馬鹿げた幻想は、瞬く間に霧散した。


 けれどわたくしの知らない時間の中で、椿油で手入れされていたそれは、如実に語る。


『違うんだ、ただボクは、キミが生きていれば、それでよかったんだ』


 あの時の顔が思い出せない。たぶん彼女は泣いていた。

 今のわたくしのように。


『だからどうか、……死なないで』


 苦しませたかった。その余裕綽綽の顔を、崩してやりたかった。


『生きて、こんな檻から出て』


 その慟哭に、彼女の心からの願いを知った。


『――どうか、自由であってくれ』






 わたくしには、大っ嫌いな女がいた。


 名前は、大須賀ミチル。

 陰鬱な田舎町で、代々邪なものたちを滅してきた大須賀家、本家の長女。

 そしてわたくしから八重の巫女の座を掻っ攫った、ひどい女。

 それしか自分の存在価値を証明できないと、思い込んで、思い込もうとして。

 必死に手を伸ばしていたものを、あっさり壊してしまった彼女。


 本当は、本当はね。


 わたくしは、あなたと並びたいだけだったんです。

 羨望も嫉妬もなく、大須賀家の庭で遊びまわった幼いころのように。

 でも、ずっとそのままではいられなくて。

 歪んでしまって、だから歪めてやりたくて。

 だから気が付くのが、遅くなってしまった。




『だって、これは――ボクの友人がくれたものだから』





 平安時代の和歌をモチーフに作られた、櫛だった。

 刻まれた、その言葉の一部が目に入る。


『つげ櫛よ 君があれな』


 髪を梳く度思い出す、君よ。

 君があれば、それだけでよかったのに。









<つげ櫛よ、君があれな 了>

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