第18話 祝いの日

 常日頃、人がいたとしてもひっそりとしている大須賀家本家の屋敷は、今多くのざわめきで満ちている。明日の八重の神への儀式の、準備と前日の祝いのためだ。

 笑いあう老人と、世話に追われる大人と、はしゃぐ子どもが一堂に会している。彼らは、各地に散らばっている分家の者たちだ。


 特別な行事の時は、こうして本家が賑やかになる。幼いころのわたくしは、時たま祭りのようになる、久しぶりの親戚たちの集まりが好きだった。

 だって、たくさん褒めてくれる。


『みこと様は八重の巫女候補なんですね』

『大須賀家の希望です』

『素晴らしいお役目です』

『頑張ってくださいね』


 そう、誰もがわたくしとミチルを敬い、大切にした。

 八重の神からの祝福を得るために、必要な存在だ。そこには、他者へ縋る弱さと、本家にはなれない諦めと、捨てられない幸福があった。

 自分たち家族に現在の候補より上の巫女は生み出せない、ならば現在の健やかさを保持したい。

 これ以上上に行けないのなら、せめて下に行きたくないという、人として当然の思考ではないだろうか。だから、次の巫女を大切にする。


 そんな表面的な優しさは、年を重ねるにつれ苦痛になった。


 わたくしが、巫女にならなければ見てはくれない。

 希望にはなれない。

 価値は無い。

 頑張っても無駄になる。


 いつも隣には、少し先を行くミチルがちらつく。

 並べて比較される場だとわかってしまえば、親族の集まりなど胃が痛いだけの会となった。


 そして、ミチルが正式に八重の巫女となった今、尊敬も感謝も何もかも、それは彼女に注がれている。


「おめでとうございます。ミチル様」


 順々に、並んだ分家の老若男女が、役目の決まった巫女様へ頭を下げる。

 わからないまま神妙な顔をして俯く子どもたちの姿は、かつてのわたくしを想起させた。


「ええ。ありがとうございます」


 胸の下辺りまで伸ばしている長い髪を紙紐で結い上げ、お決まりのスクエアタイプの赤フレーム眼鏡をかけた白衣と緋袴姿のミチル。

 彼女は清廉な巫女そのものといった体で、座敷の上座で一族の挨拶を受け入れていた。周りには花やら果物やら貢物が数多く積まれ、その祝いのほどを語っている。


 もう去ってしまったが、先ほどミチルの家族も来ていた。

 父親である大須賀家当主の話ではなく、離れた別邸に住んでいるミチルの母や弟たちだ。彼らに破邪師としての才はあるらしいが、本家にやってくることはめったにない。こういった大きな行事の時ぐらいで、ミチルからも弟たちの話をあまり聞いたことがなかった。

 わたくしとも関係のない存在、としたいところだが、未来を考えるとそうもいかない。



『あなたは、いいわよ。本家に組み込まれるんだから』


 思考から追い出したはずの母の言葉が、ふとした瞬間頭に響く。

 今日ここには来ていない、来られなかった、あの人。


 八重の巫女が決定した夜のことだ。

 家のリビングで倒れ込むように母は座っていた。

 虚無に身体を浸したまま、無言で帰宅した母とわたくし。自分にできるのは、ただ彼女の嘆きを黙って受け止めることだけだった。


「全部、全部おしまいよ。あんなにすり寄って来た奴らが引いていく! もう、候補ですらないから!」


 嘔吐く。涙す。零す。

 声を震わせながら、感情を露にしながら、それでも母は何かを必死でこらえているようだった。


「うまくいけば、本家になれると思ったのに! これ以上の幸福があると思ったのに!」


 そっと手を触れただけで、壊れてしまいそうな、ひと。

 家政婦もいない、家族2人だけのリビングで、母はその弱さを晒していた。


「あなたは、いいわよ。本家に組み込まれるんだから」

「わたくしが、ですか」

「破邪師として力はあるのだし、どうせ本家の息子たちどちらかと結婚させられる。そうしたら今の大須賀の血が流れる子が生まれるじゃない。あなたに本家の血は流れていなくても、子からの恩恵があれば十分幸福にはなれる」


 思いもしていなかったことに、強く殴られたような衝撃を感じた。

 あの当主なら、当然のようにそうする。

 ミチルほどではなくても、巫女を目指して修練を積んできた破邪師を、逃すことはしない。また次の66年後のために、より多くの能力を取り込み、本家の破邪の力が増す様に行動するはずだ。


「あなたが巫女になれば、ようやく本家に戻れるって、ずっと何代も前から櫛笥を名乗ってきた恨みを晴らせるって、そう思っていたのに!」


 自由の無い未来に思いをはせて、母の言葉が耳を通り抜ける。


「やだ、まるで、私……母さんみたいじゃない」

「お母さま?」

「違うの……違うのよ。みこと。ごめんなさい。ごめんさい」


 近寄れば、遠慮なく腕を掴まれて、母に抱きしめられる。

 服の上からでも爪が食い込んで、痛い。


「もういいから。もういいの」


 ごめんなさい、と謝ろうとして。

 わたくしのせいで、と苦しみを絞り出そうとして、止まる。


「もう……どうでもいいの」


 母の瞳に光はなく。心をどこかへ放り出してしまったかのように、空っぽだった。


「櫛笥には、わたくししかいません。その、仮にわたくしが八重の巫女になったとして、家は、どう続けていくおつもりだったのですか……」


 虚空に座り込んだような母の姿に、思わず今まで聞くに聞けなかった質問が口から出た。

 わたくしが気にすることでは無いと、本家へと成り代わった後の展望は母が決めればよいと、そんな風に余計な考えは途絶させて。わたくしはただ、修行ばかりしていた。

 八重の巫女になれば、――は、幸福になるはずだと。



「さあ、私はただ、本家になりたかったのよ。――後の事なんて知らないわ」



 母は、今まで見たことのないような、疲れ切った表情をしていた。

 知りもしない、何十もの業を焼き付けたような。

 まるで、代々の誰かを背負ったような。

 最後に、母とは似ていない、背中の曲がった祖母の姿が重なった。


 それがきっかけだったのかは、わからない。


 けれど、わたくしは、櫛笥の思いをここで絶ってはいけないと決意する。


 選定の儀で巫女には選ばれなかった。

 わたくしは、今の大須賀家にとって巫女ではない。

 だから、なんだというのだ。


 より良い巫女になるために、修行を続け、祈り、誰よりも欲していたのはこのわたくし。


『叶わない夢を見て、必死に修行するみことは、それはもう滑稽で面白かったんだけど、――飽きちゃって』


 悔しい、悔しい。噛み締めた唇から血が滲む。

 底辺で粋がる私を、遥か頭上で、頬杖をついて嘲笑っていたに違いない。そして淡々と準備をこなし、目の前から八重の巫女を取り上げていく。

 わたくしは、貴女の前でさぞ滑稽な道化であったのだろうと、砕けた心で笑うしかなかった。


「みーこーとー」


 親族の破邪師たちと並び、巫女服で正座していたわたくしのまえに、ミチルがやってくる。挨拶もひと段落したようで、皆続々と宴会の間へと移動しているところだった。


「みことさま」

「ぅぶっ」

「変な声ー。お疲れだねえ、みことさん」


 顔面に、黒い塊を押し付けられ情けない声が漏れる。それを揶揄う様に、ミチルは腕を離し、わたくしの顔を解放した。彼女の両手の中で、しょげた耳の村雲が申し訳なさそうにしている。


「ほらほら、ご馳走食べいくよー」

「はい、ミチルさま」


 彼女はいつもと変わらない態度で、先を歩きだした。小さな式神もその足元に続き、わたくしも、そつなく答えて半歩後ろに着く。


 きっと、どう振舞っても低姿勢は変わらない、そんな分家の女だと思われている。

 自分の程度をしっかりわからせれば、もうこれ以上噛みついてくることのない、些細な娘だと。



 その日の晩。

 宴はいつもより長めに続けられた。

 大須賀家の者が入れ代わり立ち代わり、ミチルの前に豪華な膳を持って現れた。わたくしもそのおこぼれに預かった。

 内なる決意を燃やすように、旨味のある赤身の肉を噛み締めた。贅沢なまるごとの焼き魚に箸を入れ、鮮やかに盛られた煮物に手を出した。果汁が滴らんばかりの果物も口に入れ、黙って食べた。人々に囲まれるミチルの傍に行けない村雲に、時折甘味を分けてやった。


 これで、さいごなのだから、と言い聞かせて。

 わたくしは改めて、大須賀家の富を享受したのだ。



 一族による宴会の後、当主に呼び出され向かった部屋には、想像通りの光景が待っていた。

 ミチルの母と、ミチルの弟が2人。

 数人の世話役と、当主に、上っ面をなぞる様なお世辞を与えられた。

 この年にして優秀な破邪師だ。

 修行の成果も良く、並みの破邪師ならば敵わない、等。

 どの誉め言葉も、前には『ミチルには負けるけれど』が付く。もちろん、それを言ってしまうものはいないが。


 そうして一通り綺麗な言葉を並べた後に、当主様は自身の息子たちに声をかける。


 今後もあるから、お前たち仲良くしておきなさい、と。


 わたくしより年下の少年たちが、難しい顔をしてよろしくお願いいたしますと頭を下げた。きっと彼らも、心の奥底では分かっている。逃れられないつまらない未来を。

 わたくしも、理解のある大人を気取って、微笑んで見せた。


 そして、大人たちのように肝心なことは、心に秘めておく。


 仲良くする必要は、まったくないのです。

 どうせ明日で終わりなのですから。

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