第7話 事の始まり


 水音がする。

 食器が触れ合う音がする。

 今よりも若い、女性の後姿。

 少し下がり気味の肩を通って、薄いオレンジ色のエプロンの紐が交差している。


 脈絡のないその場面に、ようやく状況を思い出す。

 母だ。シンクに向かって、母が洗い物をしている。


 ――ああこれは、元々いた家での記憶だ。


「ねえ、みこと」

「んー?」

「あのね、お祖母ちゃんが具合悪いみたいだから、今度の土曜日、お母さんおうち帰ろうと思うの」

「おばあちゃんの、とこ?」

「そう、お祖母ちゃんのところ。みことも一緒に来る?」

「うん。いくー。おばあちゃんちいくー!」


 きっかけは、そんな些細な出来事だった。


 わたくしの母は、大学進学をきっかけに家を出て、そのまま就職、結婚した。

 父も母も仕事で忙しそうだったけれど、それでも休みの日は遊んでくれたし、いい家族だったと思う。離れたところに住む、母方の祖母とはあまり会ったことはなく。『お母さん』と『お祖母ちゃん』は、仲があまりよろしくないのだと、幼心で薄々感づいていた。


 祖母の体調が悪いと、母と共に様子を見に行った先は、大須賀の本家だった。

 祖父はわたくしが産まれる前に他界しており、祖母は実家である本家の屋敷に部屋を与えられてそこに住んでいた。


 正直、年老いた彼女のことはあまり覚えていない。

 顔に刻まれた皺と枯れ木のような手足に、苦労してきたんだなと子どものくせに上からの感想を抱いたのみだ。とつとつと話す祖母は、どこかぼんやりしていて、母が苦い顔で隣に座っていたと記憶している。


 その後、親戚だという何人もの男性や女性に会って、挨拶を交わす。子どもの愛らしさを褒める大人たちのよくあるお世辞をくらい、またおいでと言ってくれる。けれど本音の奥底の淡白さは隠せていなかった。悪意があるわけではない、ただどうでもいい、と無言で示されていた。


 その親戚たちの中で1人、母とやたらと仲良さそうに話す男がいた。

 どうやら母の幼馴染らしい、知らないおじさん。

 大人たちの会話に加われないわたくしは、居心地悪く床の間や襖の模様なんかを意味もなく眺めていた。そこで、はたと何かが落ちているのに気が付く。


 細長い紙切れだ。


 それが、ふわりと畳に着地している。

 おそらく、母と話している男の着物の袂から落ちたものだった。

 落ちましたよ、と。ただの好意から手を伸ばし拾い上げ、彼に渡そうとしただけだった。


「ッ……う、あッ!」


 身体中が、手の中の紙に吸い込まれるような気がしてパニックになった。

 名状しがたき流れが全身に渦巻いて、全て紙切れに引き寄せられる感覚。

 そんな暴風に晒されたような衝撃だったのに、嘘のように一瞬で去ってしまう。


 気が付けば、手元の紙は白く淡く発光していた。



 そこから、大須賀家は大騒ぎとなった。



 櫛笥の娘が、護符に破邪の力を宿せるほどの能力を持っていた。

 1人しかいなかった八重の巫女候補者に、2人目が見つかった。

 すぐに修行を始めさせろ、とこんな感じで。


 わたくしは産まれてすぐに、大須賀家で破邪師としての資質を調べられていた。

 大須賀の血を引く者は、皆誰でも査定される。


 けれど、その時の結果は――能力なし。


 一般的な破邪師の力どころか、兆しと呼ばれる邪悪を見たり感じ取ったりすることができる初級以下の存在。それ故、どうでもよいと即自由の身になった。

 けれど数年経って開花したのか、わたくしは護符に力を込められるほどの能力を得ていた。


 あっという間に暮らしが変わった。

 よくあるファミリー向けの集合住宅から引っ越すことになり、3階建ての庭付き一軒家に住むことになった。そう、大須賀家の土地と家だ。


 友人と離れて寂しかったけれど、田舎町の山と畑に囲まれた風景も、新しい大きな家も、わたくしにとっては新鮮で、これから何かが始まるんだとワクワクした。

 父は仕事の都合で元の家に残り、母とも色々話していて、こっちによく遊びに来てくれた。


 そこから、大須賀の家に相応しく上品であれ、と前よりも厳しくされた。

 服装が変わった。話し方が変わった。所作が変わった。

 でも、自分が特別になったようで、そんなに苦じゃなかった。


「あなたは、すごい子なのよ。みこと」


 わたくしの肩に手を置いて、母はよく言って聞かせた。


「私は無理だったけど、八重の神様は見ててくれたのね。だから、あなたに才能を与えた」


 母には破邪師としての力が全く無かった。

 だから、幼い頃は自分の母親からきつく当たられていたらしい。

 無いものはしょうがないと、勉強して進学して、破邪師からは目を背けて生きてきた。それでも、捨てきれないものはあったのか、――櫛笥という母方の姓でこれまで育てられた理由をわたくしはようやく察した。


 普通は能力があっても、破邪師として生きるか次の子を強く育むよう言われるだけ。

 けれど、大須賀家には13年後の八重の神への儀式が迫っていた。

 八重の巫女になれるのは、14歳から18歳の少女のみ。

 そして、巫女候補に値すると言われていたのは、ひとりだけ。

 兆しはあるものの、儀式に参加できるほどの才能を持つ者は他にはおらず、そこに現れたのがわたくしだった。

 母の瞳の奥に執着の炎が灯るのも当然というもの。


 家が与えられ、世話役が与えられ、豪華な食事が与えられ、上質の装飾品が与えられ。

 一度手にしてしまえば、元に戻ることは難しい豊かさを受けた。

 父も母もわたくしも、とても幸せになった。


 そして、当然のように巫女候補である少女2人は出会うことになる。




「……嫌な夢、でしたわ」


 そこでようやく、わたくしは目を覚ました。

 滑らかな手触りの夏用掛布団を持ち上げて、少々不快な夢を反芻する。

 大須賀の家に行ってから八重の巫女候補になるまでのなかなか楽しい夢だったのに、途中からミチルが出てきて台無しだ。


 出会った当初は、あまり喋らずこちらから話しかけてばかりだったミチルも、学校に行き出してからは社交的になり、すっかり人気者だ。

 子どもの頃のわたくしのくだらない話を、内心バカにして聞いていたのだろう。わたくしより先に巫女としての修行を始めていた彼女にとって、何もかも幼稚に感じていたに違いない。

 幼いミチルの綺麗に透き通った瞳は、破邪師としての経験の差を如実に語っていた。


 身がすくむ。思い出すんじゃなかった。


 気分を切り替えるためにも、布団を勢いよくはねのけ、室内スリッパに足を突っ込みベッドから立ち上がる。

 気分が良くなくても、登校時間はやってくる。

 いつものように髪をしっかり巻き、リボンとスカート丈を整え、鏡の前へ。

 黒髪の艶も普段と変わりなく、大須賀のお嬢様らしい姿になっている。


 家政婦さんしかいないダイニングでいつも通り朝食を食べて、玄関前で待つ送迎用の黒い車にいつも通り乗って、わたくしの今日は始まった。

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