第6話 八重の巫女

 何もかもを全て投げ出したいほどに、心と身体は疲れ切っている。


「……ただいまもどりました」

「あらあ、おかえりなさい。みことさん」


 家に帰り着きまず出迎えてくれたのは、夕食の準備をしていた家政婦さんだった。


「そろそろ戻られると思って、ご飯を温めていたんですよ」

「ありがとうございます」


 返事をするのもだるい、辛い。それでもわたくしのために食事の用意をしてくれていた彼女には感謝の言葉を返したかった。それがたとえ仕事だとしても、嬉しいものは嬉しいのだ。


 荷物を置いて、手洗いとうがいを済ませて、制服のまま食卓に着く。

 ダイニングルームにある広いテーブルの隅にあるのは、わたくし用の夕食だけ。

 絹さやと茄子のお味噌汁に、春キャベツの浅漬けと菜の花の白和え、新鮮な長いものサラダもある。メインは鰆の塩焼きだ。


「……和食」

「はい、今日は和食にしてみました」


 家政婦の女性は柔和に笑う。母よりも年配だからか、彼女はとても穏やかで余裕があるように見えた。

 いただきます、と手を合わせ、疲れ切った身体を動かして食事をする。

 時計の秒針の音と、キッチンで家政婦の女性が片付けをする音、それだけが空間に小さく響く。鰆の身をほぐして口に運び、噛み締める。ごはんもおかずも、おいしい。でも、何度も何度も今日の出来事を思い出して、苦しくなる。味がどこか遠く感じる。


 心をどこかに追いやったまま、わたくしが食事を終えようとしていた時、だった。


 外から聞き覚えのあるエンジン音がして、びくりと全身が震える。

 車のドアを閉める乱暴な音、誰かの話声。

 やがて、家の玄関から廊下を通って、足音がこちらに向かってくる。


「なんだ、帰ってたの?」


 後ろにまとめた茶色髪と、しっかりと化粧を施した顔、そしてスーツを着た見慣れた姿。

 大須賀家の血を引く、わたくしの母親だ。


「はい。おかえりなさいませ、お母さま」

 立ち上がり、手をそろえ、頭を下げる。顔が上げられない。


「いいわよ、すぐに出ていくから」

 冷たい、そして侮蔑を含んだ声に、嫌な予感がする。


「さっき、本家に立ち寄ったんだけど」

 心臓が早鐘を打つ。これはまずいと、そっと握りしめた手が震える。


「ミチルさまにまた負けたんですって? 修行が足りないんじゃないかしら」

「はい、申し訳ございません」

「あなただって才能があるんだから、あとはもう努力するしかないでしょう」

「……はい、おっしゃる通りです」

「もう時間がないのよ? 八重の儀式までもうちょっとなの。巫女が確定する会合まであと2か月、次なんてないのよ」

「はい、……はい」

「お母さんもできることはするから、何かあったら言いなさい」

「ありがとうございます」

 反射のように返された、言葉だった。気持ちの伴わない、当たり前のように母親に捧げるための言葉だ。


「奥様、お食事は?」

「あら、気を使ってくれてありがとう。忘れ物を取りに来ただけなの。これからまた出かけるから必要ないわ」

 遠慮がちな質問に、余所行きの笑みで答え、母親は踵を返す。

 もう、こちらを見ることはなかった。


 彼女がダイニングから立ち去り、二階への階段を上って降りて、また外へと出ていく間、ただ突っ立ったままわたくしは固まっている。


「……みことさん?」

 心配そうに家政婦の女性に声をかけられて、ようやく時が動き出す。


「すみません。ごはん、食べきってしまいますね」

「……ええ」


 すっかり冷えてしまった、茶碗の底の米粒を咀嚼する。

 わずかに残った味噌汁を飲み切る。

 味がしない、多分美味しい。でも、味がしない。

 何とか食べきって、用意をしてくれた彼女にお礼を言って、わたくしはひとり部屋に戻った。


 電気もつけないで、ベッドに倒れこむ。

 錘でも付けたみたいに、腕が足が全身が重くて、布団に沈んでいくような気さえする。

 何かをこらえるように、自然と下唇を噛んでいた。



 わたくしには、大っ嫌いな女がいる。



 名前は、大須賀ミチル。

 この静かな田舎町で、代々邪なものたちを滅してきた大須賀家、本家の長女。

 彼女は生まれた時から全てが与えられた立場で、それに答えるように全てにおいて完璧だった。美しく、聡明で、みんなに好かれるお嬢さま。

 わたくしが、赤の他人で、何も知らないただの一般人なら、『素敵な人ですね』で終わっていたはずだった。同じ歳の、テレビやネットで見かける有名人のような、それぐらいの憧れで済んでいた。

 けれど、人生はどうしてこうも残酷なのだろう。

 生まれた立場が、能力が、わたくしを傍観者でいさせてくれない。




『八重の巫女』と大須賀家で呼ばれる、大変名誉な役目がある。


 はるか昔、互いに協力し合いこの地を平定した、八重の神と大須賀家初代当主の約束事。

 66年に1度、一族の最も力のある少女を巫女とし、舞を奉納させること。

 それが数百年続いてきた、一族の伝統である。


 この儀式のおかげで、大須賀家は長い間力に恵まれ、富を得て、健康な生活を送ることができている。いわば神の祝福だ。


 そして、これは大事なことなのだが、その祝福の度合いは、巫女である娘と最も血が近い者に多く与えられ、血が遠いほど少なくなる。

 そのため、初代はこう言い残した。



 巫女を輩出した者が本家を継ぎ、力ある子を育て続けよと。



 大須賀家の本家と分家は、入れ替わることがある。

 そのたった一つの役目によって。

 これが、大須賀の『八重の巫女』。

 自分以外の運命さえ左右する、重すぎる立場。

 そして、今の大須賀家である程度の能力を保持するのは、2人の少女だけ。




 八重の巫女にわたくしがなることは、家族全員の夢だ。

 父親も母親も頑張れと言ってくれて、お金も時間もわたくしのために割いてくれた。


 でもなかなか上手くいかない。

 ミチルにはいつもいいところばかり持っていかれる。

 本当に、本当に、本当に、腹が立つ。

 彼女はどうやってもわたくしの前に立ちふさがる。

 ならば。


「絶対に、負けませんわ」


 八重の巫女を定める一族の決定まで、あと2か月。

 わたくしは、必ず彼女よりも優秀であると示してみせる。

 気を抜けば落ちてしまいそうになる、絶望の底にたどり着かないように。

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