第11話 おまけエピソード:布市場

【前書き】

少し時間を遡って、最初の週末の話です。




毎週土曜と言っていたくせに、少女は翌日も何食わぬ顔で僕の家に現れた。



「……君は受験生じゃないのか」

「受験生だからこそ、よ。昨日家に帰った後にね、受験生は毎週土曜になんてのんきに外出できないことに気が付いたのよ」



さしもの私も、今月の後半には勉強漬けの生活に切り替えなきゃならないでしょうしねえ……と、少女は笑う。



「むしろ後半からで間に合うのか? 第一志望の模試の判定はどうなっている」

「Aよ」

「……Aだからって油断できるものじゃないぞ」

「A判定の上位五分の一位以内に入っているわ」

「……志望校は」


 と、僕が言うと、少女はどうでもよさそうな仕振りで塾のプリント類を見せてきた。


「んー、この大学と、その大学と、この大学かな。正直どこに入りたいって希望はないのよねえ。受験だってそもそも私がしたくてやってるんじゃないし」

「気の入らない勉強でそこまでの成績が叩き出せるのなら大したものだな」



ため息交じりにそういって、僕は肩をすくめた。

何の気なしに窓の外に目を転ずれば、クーラーの効いた部屋の窓越しに、色あせた夏の熱気が充満しているのが見える。



「……いや、上位五分の一でもやっぱり油断はできないと思う。今日は僕が勉強を教えても構わないぞ。理数系はからきしだが、文系なら日本史世界史英語漢文古文どんと来いだ。なんならキリスト護教学者の話をしてもい」

「要するに、暑そうだから外に出たくないってことね」



少女が僕の話をさえぎって断言したので、僕は思わず苦笑した。

まさしくその通りなのだ。



「今日一日くらいいいじゃない。どうせ移動はほとんどタクシーか地下鉄なんだから、暑さとは無縁の観光ができるわよ」

「君はこの窓の外を見て何とも思わないのか? 二十メートルも歩けば汗だくになるような事態が約束されているような空模様じゃないか」

「気持ちのいいスカッ晴れよねえ」



少女はきわめてポディシブな表現で僕の意見に同意した。



「普段はスモッグで晴れていても妙にくすんだ青空の日が多いから、今日は本当に珍しいわ。知り合いのご両親が言うには、60年や70年あたりの東京もそんな空だったんだって。澄んだ青空が見られるようになったのなんて、本当に最近のことらしいの」

「なるほど。電線で走るロータリーバスもあるくらいだし、本当に上海は今それくらいの東京と同じような環境になっているのかもな」



そういいながら、僕は熱気で揺らぐ東方明珠を眺めやった。

ここ十数年の上海の発展の速度は恐ろしい。だからきっと、今のこの状況もほんの数年で変わるのだろう。



「――というわけで、先生。早く外に出ましょうよ。今日は茶城と布市場を見せたいわ」

「どっちも限りなく屋外っぽいじゃないか。君はもやしっ子の僕を熱中症で死なせるつもりだな?」

「大丈夫だって、どっちも屋内よ。昆虫や観賞用の鳥を売ってる市場とかもあるんだけど、そっちは屋外で居心地が悪いし、鳥インフルが流行ってる今の時期に行くのもちょっとねえ……」



なるほど、少女は少女なりに行き先については色々と考えてくれているようだった。

少しの逡巡の間をおいて、僕は小さなため息をつく。



「……分かった。今日も君に付き合うよ」

「やった、そうこなくちゃ!」

「というかチャジョー? 一体なんだそれは」

「うーん、大規模なお茶問屋みたいなところかなあ。お茶から茶器までなんでも比較しながら選べるの。観光先としても人気の場所よ」

「お茶にそこまで興味はないんだが……」

「それでもいいの。なんていうか、雰囲気が楽しいのよ。行けば分かるから、早くいこ!」



そんなことを言い合いながら、僕たちはとるものもとりあえず花園(ファンエン)の外に出て行った。










場所は昨日も行った外灘のほどちかくだ。

この、目の前にそびえ立つ古ぼけた五階建てくらいのビルが丸ごと布市場と呼ばれているらしい。

路肩(ろかた)には色とりどりの布の塊を積んだトラックがいくつも寄せられていた。

少女が言うには、こういった布市場と呼ばれる場所は他にもいくつもあるのだという。



「布市場というからには布市場だとは思っていたが……」



呟きながら、僕は周囲を見回した。



「……入口に出店をおいているあれ、大量にぶら下がってるのはティ☆ァニーのアクセサリーだよな?」

「よく知ってるわね。うん、ニセモノだけど多分あれは▽ィファニーのつもりなんだと思うわ」



こともなげに少女は言う。



「さすがにアクセサリーがどんなものかは知らないけど、一緒に並べられている水色の紙袋には見覚えがあるぞ。CMで買わないようにしましょうって取り締まられているやつじゃないか。初めて見たな」



冒頭から目の覚めるような風景を見つけてしまった。



「私は興味ないけど、ああいうのに夢中になってる人もいるみたいねえ。大体買ってるのは現地の人じゃなくて白人やアジアの観光客よ」



少女は興味なさげにそういいながら、一応説明をしてくれた。



「私は手作り民芸品風雑貨が目当てで行くんだけど、ヒサミツの裏手にも、大き目のその手の市場があったりするわねえ」

「その手の市場……ようは偽物市場ってことか。というか、ヒサミツ? なんだそれは」

「日本の某デパートの中国での呼び名。創業者の名前が久光だったからそうなったのかしらねえ。悪名高い襄陽(しゃんやん)市場とか科技館地下は取り締まられちゃったし、ヒサミツの裏の市場もなくなるのは時間の問題じゃないかしら」



そんな話をしながら市場の中に入っていくと、そんなに天井の高くないビルの中はたくさんの部屋で区画分けされており、それぞれの部屋の入り口にはドアもなく、所狭しと商品が並べられていた。



「なるほど、布を売っていたり……それぞれの店の人間が服を作っていたりするのか? なんだか見本品のような服が妙にたくさんハンガーでぶら下がってるぞ」

「そうそう。チャイナドレス風の服とか、コートなんかも人気ね。お店の中にある布を使って、服を作ってもらうこともできるわ」

「なるほど、ビックサイトあたりでやってる、食器の即売会やMaker Faireみたいな雰囲気だな。出展者ごとに得意なものがはっきりと分かれている感じが似ている」



使い道の分からない高級ガウンしか作っていない店もあったが、大部分の店が得意としているのはコートのようだ。



「こういうところで作ってもらうと安かったりするのかな。千円くらいとか?」

「さすがにそこまで安くないわねえ。前に友達が作ってもらってたけど、五千円六千円くらいじゃないかしら」

「……安いのか高いのかよくわからないな」

「多分そこまで安くないわよ。本当に安かったのは五年前とかのはなしなんだって。……あ、でもほら、安いのもあるわよ」



そういいながら少女が指さしたのは、薄っぺらいひらひらしたフリンジ付きの布をたくさん売っている店だった。



「……これはなんだ? 女性が使うスカーフとかマフラーみたいなものか?」

「うん。ストールっていうんだけど、ひざ掛けにも使える便利なものよ。凄く質が高そうに見えるけど一つ十元だって」

「……百五十円か。日本の衣料店に並んでいてもそん色なさそうなくらい綺麗な生地だぞ。そう考えると凄まじく安いな……」



物の値段が種類によって違いすぎて、物価の感覚が分からなくなってくる。

色とりどりの布の色彩や価格交渉や商談に熱中する人々の熱気もあいまって、なんだかクラクラしてきた。



「しかし、悪くない場所だな。こういうところを散歩してるとインスピレーションが湧きそうだ」

「気に入ってくれた? よかったあ」



そういいながら、少女はほっとしたように笑った。つられて僕も少し笑う。

通り過ぎた店の一角で、女性がうれしそうな顔で店員に採寸をしてもらっていた。たぶんオーダーメイドで服を作ってもらうのだろう。

ここにはポディシブな空気であふれている。悪くないな、と改めて思った。



「しかし、各々が特異な作品を並べて売り、買い手がその作品を自分に合った形にしてもらえるように注文ができる場所か……いいなあ。絵にもこういう場があればなあ……」



そういう場所がありさえすれば、絵描きももう少し自分の需要が把握できそうな気がした。



「というか、あるんじゃないの?」

「ん?どういうことだ?」

「ええっと、例えば父親はIT関係なんだけどちょいちょい有志で開催している勉強会とか、自作ゲームのフリーマーケット? みたいなものが沢山あるらしいのね。父親はしょっちゅう仕事で顔を出してるけど、そういう場所には大学生や高校生もちらほら参加しているみたいよ」

「へえ、知らなかった。絵にもそういう催しがあったりするのかな」

「そう、そういうことなのよ。たぶんあるけど、先生は知らないってだけなのではないかしら。興味があるのは絵だけで、絵を通じたコミュニティには顔を出そうともしていないんでしょう?」

「さらりと急所のど真ん中を正拳突きにするのはやめてもらえないか」

「ごめんごめん」

「謝りに心がこもっていないぞ」



そういいながら、僕はとある店の入り口のカートに並べられていた古文書の山に目を奪われた。

いや、見た目は新しい。

だが古銭や翡翠などがあしらわれた、重厚な古文書のような装丁の本……の、ように見える。

開いてみると、中は普通の日記や自由落書き長のような紙束だった。



「これも商品かなあ」

「多分そうだと思うわよ」

「布市場になんで本が……」

「多分この装丁にここのお店の布が使われているんじゃない?」

「あ、本当だ。お店にある布とおんなじだ」



こういうクロッキー帳があると気持ちが高まっていいかもしれない。

気に入ったので、僕は財布を取り出し店員に英語で幾らかと聞いた。

店員は心得た様子で電卓を出して100元であると伝えてきたので、僕は素直に払おうとした。



……ら、少女に止められ、60元に負けさせていた。



相場より高かったらしい。別に気にしないのになあ。

次はお茶問屋に行くそうである。



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