第10話 それから

じつはあれから、先生には会ってない。



私と先生が一緒の建物に住んでいたのはほんの二か月くらいのことだった。



加えて八月になって、夏休みど真ん中になってくると流石の私も受験勉強で忙しくなって、とてもじゃないけど「先生に会いに行く」なんていえない状況になってしまった。


あわただしく日常が過ぎて行って、父親からあの人が「日本に帰った」と聞いたのは、九月の後半ごろだっただろうか。


先生は気を使ってくれたのかもしれないけど、正直少しさみしかったなあ、なんて思ったり。


そうこうしているうちに秋が深まって、冬が来て、受験戦争はどんどん激しくなっていく。


私は必死に机にかじりついて頑張った。途中で糸が切れてもおかしくなかったのに、それでも私は頑張った。




――恋の力のなせるワザだと、私は今でもそう思っている。




そして、春。



友人たちと別れる時には物凄く泣いた。お互いに泣いた。不思議だった。


あんなに冷めた気持で付き合っていたはずだったのに……それでも私は、心のどこかで皆を『大切な友達』だと思っていたのだろうか。


彼女たちとはまた会う約束をしたことを思い出しながらも、私は入学式以来初めてこの大学の門をくぐる。



――文学部。



道沿いに植えられた桜の花びらが、まるで紙吹雪のように舞っている。目当ての教室を探して、私はきょろきょろと周囲を見た。


廊下を通って、いくつもいくつもの教室を素通りしていく。



――話を聞けば、『あの人』は空き教室の一角を占領して絵を描き続けているらしい。



「イケメンなのに中身がね」とか、「というか中身がね」だとか「え、君アイツ探してるの? 止めた方がいいよ。アレはマズイよ」だとか、色んな噂を聞いた。


……どうも妙な方向で有名人になっているらしい。



窓の外にある林の木漏れ日が廊下の床に映り込んでいて、キラキラと光っている。



自然と足が速くなった。足が鼓動に追い付けなくて、途中で何度も足を滑らせかけた。


……そして探していた教室を見つけると、私はばんと思い切りドアを開いた。





「先生っ!」



例によって例の如く、画用紙をビリビリに引き裂いていた先生。


不思議だったのは……こちらに背を向けて絵を描いていたということだ。人に背を向けて絵をかくの、嫌いなんじゃなかったっけ?


そんなことを思いながら、私は振り返る暇も与えず抱きついた。



「わぁぁああああっ!?」



先生がいままでに聞いたことのない悲鳴を上げた。


ふふ、うろたえてるうろたえてる。



「なっ、誰だ……って、え!!?? なんで? どうして、君がこんな場所にっ……!」



唐突に抱き着かれて驚きながら肩越しに振り返り、私だと気づいた瞬間さらに驚いた顔を見せた先生が、悲鳴交じりにそう叫ぶ。



「あれ、分からないの? 合格したのよ私。文学部。よろしくね~、『先輩』」



言いながら、私はますます強く先生に抱きつく。



「へあっ…!? ちょっ……ま、待ってくれ! 先輩……!?」



先生がここまでうろたえてるのを見るの、出会った時以来かもしれない。いや、出会った時もここまで驚いてはいないか。



「なっ…何でまたよりにもよって文学部なんかにっ…!」



しどろもどろになりながら、ようやく先生が言ったことと言えばそれだった。



「このご時世に文学部に入るなんて、どうかしているぞ!」

「あら先生、男はともかく、女の子の文学部入りは歓迎されるのよ? とりわけ時代遅れの親戚世代にはね」



私がそう言って笑ってみせると、腕の中でジタバタしていた先生の気配が静かになり、そしてそうか、と先生が笑う声がした。



「……そうか。君が後輩か……ついて来いとは言ったけど、まさか大学にまで着いてくるとは」

「ま、一年きりだけどね」



私は憮然とした。


先生は今年で四年生だから、私と先生が同じ大学にいられる期間なんてたかが知れている。



「それは仕方がないとして、覚悟してよね先生」

「どういうことだ?」

「私、大学で一緒にいられる時間こそ一年きりだけど、その後ももずっとずっと先生の傍にいるんだから。ねぇ、先生の絵、見ていい? 今の先生の絵。今作り続けてる先生の絵」



私が立て続けにそう言うと、先生はしばらく考え込むような顔をしたが、やがておもむろに口を開いた。



「……分かった、いいよ。せっかく君が追いかけてきてくれたんだ。絵だとか人間性だとか、お互いに見せられなかったものを、これから洗いざらい見せようじゃないか」



先生はそう言って、抱きしめられたまま器用に私の方を向くと、最後に別れた時と同じ、綺麗な笑顔で私の背中に手をまわした。私もより一層腕に力を込める。


自然なようでぎこちない抱きしめ方だった。


それでも互いに少しは人と距離を詰められるようになったという事実に気が付いて、私はより一層笑みを深めた。


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