第9話 こんなのが恋だっていうの

タクシーの中、先生も私も……最初は無言のままでいた。


半ば詰め込まれるようにしてタクシーに乗せられ、先生はタクシーの運転手にしどろもどろになってなにか言っていたが……私は何も聞いていなかった。


聞く余裕さえなかった。


自分の中が驚くほどぐちゃぐちゃになっていて――それが先生のせいなのか、それとも他の何かのせいなのか、何もかも分からなくなっていた。



「なん……で……」



俯いたまま、私は問う。



「何で……先生……」

「――君に会いたいと思っていた」



先生にそうきっぱりと言われ、私は返す言葉をなくす。

……そんなの、先生らしくないよ。

人になんて全く興味がなくて、ひょうひょうと自分の世界を生きていそうな人なのに。

私はしばらく何か言おうとしてはやめ、何か言おうとしてはやめる不毛な営みを繰り返していたが……次の瞬間、ようやく口から出てきたのは、本当の私の言いたいこととは違う、全く別の言葉だった。



「どこに、行くの?」

「六号。……というか他に場所を知らない」

「馬鹿」



悪びれずに答える先生に、私は小さく息をついた。


あの店は昼だからこそ入りやすいのであって、夜はそれこそ私たちが俗世では交わることさえない欧米サラリーマンたちの商談の舞台なのである。


――間違っても私たちが入れるような場所じゃない。つまみ出されこそしないが、絶対に居づらいし、そもそも値段だって高いだろう。


私は緩慢な動作で身を起こすと、中国語で運転手に目的地の変更を伝えた。


どうやら現地の人らしく、中国語ではなく上海語で話をしてる。訛りが酷いが……聞き取れないわけじゃない。私も上海語に切り替えて行き先を説明した。



「……なんて、言ったんだ? 発音がいつもと違った」



先生が不思議そうな顔をしている。……この人、本当に中国のことは何も知らないんだ。



「上海語だったのよ」

「へえ。それで、どこに行くって伝えたんだ?」

「――音(オト)。静かな居酒屋みたいなところで、スタッフはオール日本語使い……日本人には有名な場所よ。確かパンフレットにも載ってる」



本当は安いから百盛近くのオンダイニングが良かったんだけど、と私は付け足した。



「それだと帰りにタクシーが拾えなくなっちゃうものね。あのあたりは夕方以降は激戦区だから」

「君は本当にこのあたりに詳しいな」

「……親がね、連れて行ってくれるのよ」



窓の外の流れる景色を眺めながら、私は言った。



「楽しい家族を演じるために、馬鹿みたいに大金払ってさ、月に一回か二回くらいだけど、白々しい会話をする為だけに……皆で仲良く外で食事をするってわけ」

「君は親をそんな風に思ってたのか?」



先生の意外そうな声が聞こえる。そうねと私は鼻を鳴らした。



「その通りよ。悪い? ……私、悪いけど誰も何も信じてないの。皆上っ面でいい顔を見せてるだけ。腹の底では自分に都合のいいことしか考えてないんだもの」



――我ながらなんて安っぽいセリフ。



まるで三流マンガの悪役だ。そしてこういうセリフを吐く奴って、大抵最後には無残な死に方をして終わるのよね。



「君は……一人が怖かったんじゃないのか?」



静かな声で先生が尋ねる。



「……」



私は顔を上げた。一人が怖くないのかって……それはいつかどこかで聞いた台詞だった。


アレはいったいどこで……あぁ、そうだ。私が先生を突き飛ばす前、そんなことを言っていたような気がする。



「……そうね、怖いわ」



先生の方を見ないまま、私は答えた。



「一人が怖い。だから皆にいい顔だけ見せてるのかも」

「だったら何で、そんな自分から人を拒絶するような真似をする?」

「拒絶……?」



その言葉が心外で、私はそこで初めて先生の方を振り返った。


タクシーはまだ信号に引っ掛かる気配もなく、やけに乱暴に走り続けている。混乱してささくれた心には、その振動がやけに快く感じた。



「拒絶……拒絶なんてしてないわ。最初から受け入れていないだけ。他人に期待してないのよ、私」

「嘘だ。あんなにそつなく振舞っているくせに、期待してないはずはない。見返りを期待していなければ他人の期待になんて答えられよう筈もない。それでもそんな風に不貞腐れていては……誰も近寄れない。拒絶しているのは君の方だ」



先生の言葉はいつになく強かった。



「……何でそんなに自信満々なのよ」

「君は昔の僕に似ている」

「……。……そう」



先生の言っていることがよく分からなかったので、私は再び窓の外に目を転じた。



「――……変ね」



街灯はどれもこれも橙色で変わり映えしないことと言ったらない。闇の中に浮かぶ民家の明かりはあまりに頼りなさすぎて、夜景と呼ぶには寂しすぎた。



「なんだかとっても変。最初は私じゃなくて先生の方が引き籠っている感じだったのに……今はなんか逆みたい」

「君の期待に沿えず残念だけど、僕は最初から引き籠ってなんかない」



精神的にはの話だけど、と先生は付け足した。



「誰にも何も期待していなかったから、引き籠っているように見えるだけだ」

「先生私と同じこと言ってるの分かってる?」

「分かってるさ」



わかっていると先生は言った。



「……分かってる……でも変わるんだ。今までだって、半分くらいは変われていた。これからだって……」

「……。……先生?」



私は首をかしげて先生を見たが、先生はそれ以上何もいうことは無かった。


沈黙してしまった私たちの空気に耐えかねてか、運転手が現地のラジオをつける。


車内に今流行の中国人歌手のホップスがながれ、それに運転手のおじさんの歌声が混ざるまで……そう長い時間はかからなかった。







「――……僕を突き飛ばした時」



木造建築と白熱電球の赤茶けた明かりが目に優しい店内の中、出てきたサラダをつつきながら、先生はおもむろに口を開いた。



「最後に君は、僕を馬鹿だと言っていた」

「……」

「その通りだと、思う」



言いながら先生はぐいっとウーロン茶に口をつけた。……大人だけど、この人は夜でも酒を飲まないらしい。



「君が好きなんだ」

「! ごほごほっ」




――あまりに唐突でむせた。




「せ……せんせ……?」

「君が好きだ。恋っていうのはよく分からないけど……たぶんそうなんだと思う」

「……よく分からないって……」



私は困惑した。


店の中にはよく分からないジャズが流れていて、うろたえる私をよそに先生は淡々と豆腐をどうにかしたものを食べていて……別の席に座っている老夫婦が、不思議そうに私たちを見ていた。



「……先生ごめん、先生が何が言いたいのか分からない」



私も混乱しているのだろうか。音楽も、料理も、状況もよくわからない。なんだこれ。一体何なんだこれは。



「自分の言いたいことを全部系統立ててまとめて話すことができる世界があるのなら、それは現実世界じゃなくて緻密に築き上げられた虚構という名の舞台の中の世界だと思う」

「……小難しいことは一気に言えるくせに」

「悪かったな。でも文学部はこんなヤツばっかりだぞ」



豆腐を食べながらでも。私は呆れ半分関心半分で先生を見ていた。気がつけば、ここ一週間私の中に滞っていた冷たい何かが音をたてて砕け溶けて行っている。



「君に触れたい。君を綺麗だと思う。気が付けば君のことばかり考えている。近づきたいが、不用意に近づいて嫌われるのは怖い。

 ……帰納法的に結論を導くならば、おそらくこれは恋と呼んで差し支えないだろう」

「……」

「そんなことを考えながらうだうだしているうちに、気が付けば体が先に動いていた」


尚も執拗に豆腐をつつきつつ、先生が言った。

食べにくいのか。それ。



「まるで心と体が別の生き物みたいで面白い現象だった。

 心身二元論を真っ向から首肯する事態だ……あれは近年否定されて、デカルトの評判は哲学界では地に落ちているが。

 しかしながら、さっきまでは考えるより先に体が動いていて、今は考えるより先に口が動いてる。我ながら妙な気持ちだ」

「あのねぇ……」

「これが君の言う、適応放散不可能帯ってやつなんだろう? 良く分からないけど」

「……」



私は思わずあんぐりと口を開けた。




――んな……さも当然のように言われても……。




「……先生の言ってることはよくわからない。でも、私が先生のことを適法放散不可能帯って言ったのは……」



先生に私の考えた言葉を勝手に使われるのも居心地が悪くて、おずおずと私は口を開いた。



「先生と一緒にいると、期待再現再生装置が動かなくなっちゃうから。普段は人の期待を読み取って、そつなく動けるのに、先生の前だとそれが出来ないの。……今もそう。体も口も、勝手に動いてくれないの。適応放散出来ないの。……だから適応放散不可能帯」

「よく分からない。適応放散ってそもそもなんだ?」

「昔の担任の先生が好きだった言葉なのよ。

 生物の進化に見られる現象のひとつで、単一の祖先から多様な形質の子孫が出現することを指す……んだけど、その先生はその場その場で臨機応変に適応して、変化していくって意味で使っていた」

「なるほど、正確な解説を聞いてもサッパリ意味がわからないな」

「さっきの先生の長広舌(ちょうこうぜつ)ほどじゃないわよ」

「ふうん? 面白い言葉を知っているな。……しかし適応放散、やっぱりよくわからんな」


 先生の答えは単純にして明快だ。



「……けれど分かる気もする」

「どっちよ」



 私は憮然と口を尖らせ、先生はすました顔で豆腐の料理をすくいあげる。



「君は自分を皆の期待にこたえて態度を変える空っぽの機械だと思っていて、僕は皆の期待なんてどうでもいいし、そもそも誰にも期待してないってことだ」



 だから、と先生は続ける。



「だから君は、僕と居ると、自分がどんな風に振る舞えばいいのか分からなくなるんじゃないのか?

 僕は君にこうして欲しいとか、ああしてほしいとか思っていないから、君は素のままの自分で――空っぽの自分で僕と対峙しなければならない。……違うか?」



ウーロン茶を掻きまわす手を止めて、先生の目がすうっと私を見た。


今まで気づかなかったけど、自分の意見を言う時の先生は恐ろしいほど鋭い目をしている。馬鹿っていうのは失礼だったかもしれないな、と、弱気な自分が顔を出す。



「……力説恐れ入るわね」





……だから私はそう言って肩をすくめ、自分のテンポをとり戻すしかなかった。





「うん、そう。そうなのかも。……私、自分を見失ってたの。空っぽになってたから。期待にこたえる度に、自分の中の大切な何かが無くなっていくのを感じていたから。……先生と会うたびにね、空っぽな自分が慰められるような気もしたんだけど、やっぱり空っぽなんだな、ってそんな自分を痛感したりもしていたの」

「嫌だった?」



先生が首をかしげる。



「……そうなのかもしれない」



そういうと、先生はうっと言いたげな顔で目を泳がせる。今日の先生はやけに感情が表に出てる。弱気になりそうな自分を必死に取り繕おうとして強気にふるまっているのは、ひょっとしたら彼も同じなのかもしれない。


私はテーブルに視線を落とした。喉が渇く。やけに乾く。


さっきお水を頼んだはずなんだけど……やけに遅いような気がした。私は膝に置いた拳をぎゅっと自分で握りしめた。



「でも――でもね、どういう風にふるまったら分かんなくても……自分が、空っぽの自分が嫌になっても、それでも私は本当の自分を探したいの。先生を通して――私は自分を探しだそうとしてるんだわ」

「空っぽの……か」

「何よ?」

「いや」



先生はやけにもって回る様な言い方をしている。その時店員さんがやってきて、先生は微塵の隙もない日本語でメニューを頼んだ。何か追加したいようだ。



「何でもない。空っぽというか……もう『無い』んだろ?本当は」

「えっ?」



何を言っているのか、分からない。周囲のざわめきが、一瞬やけに遠ざかっていくような錯覚を覚えた。


先生がメニューから何かを頼んでいる声さえも遠くに聞こえる。



「無、い……?」



何を言っているの。



「無いって……何?どういうこと? 無いはずないじゃない。だって私は……私、私がいなきゃ誰が装置を動かしているのよ……」



自分の目が、じわじわと見開かれていくような感じがした。完璧な不随意運動だ。厳密な定義上は違うのかもしれないが、少なくとも自分の意志じゃない。



「たとえば僕は『自分の絵』を取り戻したくて描き続けているけど、もう見つからないということも分かっている」



私の言葉を遮って、先生が口を開いた。



「思えば当然のことだった。過去の自分に戻ることが不可能なのと同じように、過去の自分の絵を取り戻すこともできる筈がない。君も……本当の君自身をみつけることなんて出来やしない」

「――先生に何が分かるのよっ!」



思わず私は机をたたいた。



「君のことは分からない」



声を荒げた私に対しても微動だにせず、先生は淡々としていた。



「……先生」

「君のことは分からない。何も。……それでも君に会うことで僕は、自分の絵はもう永遠に見つからないということが分かった。君のおかげだ」



一瞬先生の視線が落とされる。だけど次の瞬間まっすぐ、漆黒の目が私を見ていた。ああ、またこの目だ。夜明け前の闇の瞳。



「君は最初に言っていた。僕と君は似ているんだろ?」

「……」



私は何も答えられなかった。まっすぐな目を見ていられなくて、すっとテーブルに視線を落とす。



「君と僕は似ている……似ていた。そう、確かに僕らは似ていた。僕もそう思ったよ。『自分の絵』と『本当の自分』。ありもしない過去の遺物を探し求めて、それでかけがえのない今という時を浪費している……いや、浪費ではないが、『彷徨っている』。

 本当の何かがあるという虚構を信じて、虚構だけに救いを求めて、今を見ようとしていないという点において、僕と君は確かに同じパターンにはまりこんで迷走していた」

「……」

「君と僕は似ているよ」



……似ている、と、そう先生は何度も繰り返した。



「――だけど僕は先に行く」

「えっ」



私は弾かれたように顔を上げた。先生は黒い前髪の奥で、ただじっと私を見ていた。



「……僕の絵は探し出すものじゃない。作り出すものだ。過去にあったはずの自分の絵を探し求めたところで、それは見つかるはずもないしそもそもそれはすでにもう『僕の絵じゃない』」

「……」

「君も同じだ。本当の自分は過去にしかいなかったと思うのなら、それは虚構だ、まやかしだ。君は君でしかない。今の君が、空っぽの器にすぎない今の君が本当の君だ。あるのは今の自分と、これからの自分だけなのだから」

「……どうしろっていうのよ」

「別に、何も」



先生がふいと視線をそらした。



「僕は人に期待はしないし、何をしてほしいとも思ってないから」



けれど、と先生はおもむろに口を開いた。夜明け前の夜空の色と視線がかち合う。



「けれど僕は、君が好きだ」

「……」



綺麗だなんだと散々言われたことがある癖に、私はストレートな告白を受けたことがない。

それはたぶん、先生の言うように自分の周囲に壁を作っていることが周囲にもわかっていたからなのだろう。

なれない事態に完全にペースを乱され、私は二の句を継ぎかねた。



……本当に先生は不思議な人だ。分からない。どうしてこんなことになってしまったんだろう。会話の主導権を完全に握られている、その上、先生の作っている会話の流れが本当に、全く分からないのだ。

普通は「あ、この人はこういう流れに持っていきたいんだな」とか「こういうコミュニケーションをとりたいんだな」とか、分かるはずなのに。



「僕は君が好きで、好きだからこそ、僕は君に……今みたいなそんな苦しい顔をして欲しくない。苦しい笑顔も、苦しい涙も欲しくない」

「……先生」

「やっぱりこれって恋な気がする。なあ、君もそう思わないか?」

「私に聞かないでよ……」

「うーん、やっぱりこれは恋だな。よかった、一つ疑問が氷解して実に爽快な気分だ」


先生はやけにスッキリした顔で何度か頷きながら、よかった、と繰り返した。


「よかった……でも、よかったけどそれだけなんだよなあ。僕は君が好きだけど、それ以上の気持ちも、それ以下の気持ちも持ち合わせていない」




とりあえずといった様子で先生は首を振り、仕切りなおすように頷いた。



「だから……できれば君にもついてきてほしい」

「?」



言葉の意味をとりかねて、私は思わず首をかしげた。

先生は言葉を続ける。


「この一週間、全く絵が手につかなかった。そんな自分が不思議だった」



そんな私の思いをよそに、先生はやけにすっきりとした顔で話を続ける。



「リセットされていたんだ。君に会って……僕と同じ、過去しか見てない君と会って、それで初めて僕は『絵を捨てた』んだ。君のことしか考えられなくて……絵が描けなかった。でもそれで良かったんだ」



先生が自分の手を見る。ずっと絵だけを描き続けてきた、先生の手。



「もう過去の中に自分の絵を探さなくて済むから。どんなにつらくても、これからの自分の絵を探すことができるから」



先生は笑っていた。この人が笑顔らしい笑顔をところを初めて見た。


あまりに唐突で驚いて……私はただあっけにとられて目を見張ることしかできなかった。



……綺麗な笑顔だった。



「――僕は前を見て歩く。だから君も、前を見て歩いてほしい」



笑顔だったのはほんの一瞬のことで、先生の顔はすぐにいつもの無表情に戻っていた。淡々とした、声だった。



「……」

「僕は君に会って、君に会えて、だからこそ自分の絵を作っていく決心がついた。ゼロからだ。やり直しだ。それでも過去の亡霊を延々と探しているよりはずっといい」

「……」

「……そうか……うん、僕はきっと、この話をしたくて君に会いたかったんだな」



淡々としていながら、それはやけに晴れやかな声だった。


先生はひとしきり言いたいことを言い終えたらしく、やけにすっきりした顔で店員さんを捕まえると、ただ一言、会計(マイタン)と口にした。それだけが彼の知っている中国語なんだそうだ。



会計を済ませて、店を出て、タクシーは案外早く捕まった。隣で寝そうになっている先生を見ながら、私は思う。


似ていると思っている、だけだった。



最初はただ本当に惹かれていただけだったのに――それなのに、今は。




私は……『私』は……。

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