第8話 なるほど、これが恋というものなのか
絵が手につかない。
「うーむ……」
顎に手をやり、僕はひとしきり考え込む振りをして……もう今日で何度目になるかわからない盛大なため息をついた。
何も考えられない。頭蓋骨の中が役立たずの湯豆腐と化している。
時計を見ればもう夜の六時にもなろうかという時間帯で、肺の奥からせりあがってくる落胆を抑えきれずに、また盛大なため息をついた。
――少女が……来なくなってしまった。
あれから一週間近く経とうとしている。まぁ原因は分かってるし、『十中九十』僕が悪いのだからこれはもう致し方ない。
それでもいつものように押し掛けていた少女が急に居なくなってしまうと、なんだか拍子抜けしたような……いや、違う。
この際は認めよう。どうしようもない寂しさだけが残ってしまっていたのだ。
自分で自分が信じられなかった。
僕は周りに人が居ても居なくても、どちらでもいい種類の人間だと思っていたのに、今の僕はこんなにも寂しい。
ふと少女に会いに行ってみようかとも思ったが、考えた瞬間にその案は却下した。
『ひきこもり』である僕の存在はそこまで有名ではないと思うが、それでも少女の母親は僕のことを知っている可能性があった。
いくら夏休み限定だからといって、ずっと家に引きこもっているような男が家に押しかけてきたら恐怖するだろうし、そんな男に娘を合わせたがるような母親なんていないだろう。
そう思いながら部屋を見渡せば、薄暗い部屋に散らばる木炭と画用紙。ヒステリックに描きなぐられた黒い線。
うず高く積まれた混沌。
「……さ、さすがに、これは……」
目を開いて、僕は思わず息をのんだ。
いくらなんでも酷過ぎる。
部屋の惨状に今初めて気がついた。ここまでくると電波を通り越して狂人だ。
それもゴミの山の中で死ぬタイプの、割とありふれたタイプの狂人だ。
たとい『自分の絵』を取り戻すためだからといって、ここまでなりふり構わずやっていれば、いつか本当に気が狂ってしまうのではないだろうか。
いやそれ以前に運動不足で体がやられるだろう。
「……そういえば、ずっとこんなことばかりしていたら心が腐ってしまうといわれたことがあったな」
そういってくれたのは誰だったかと考えかけ、またもや思考が少女にたどり着いてしまったことに気付いて落胆する。
思えばこの一週間風呂とトイレと食事以外、ろくに動いていないような気がした。
あの少女が来ることによって息抜きが出来ていたのだろうかと、僕は今更ながらに彼女を迷惑がっていた自分自身を嘲笑った。
いつのまにか押しかけてきていて、僕の方もいつのまにか傍にいてほしいと思うようになっていたのに……そんな自分にさえ気づけなかった自分をぶんなぐってやりたかった。
(……それにしても)
僕はふと逡巡した。壁に背をもたせて立膝をたてて座り込んだ恰好のまま、立膝に肘をついて掌に顎をのせる。
僕が距離の取り方を間違えたから、いきなり彼女に接近してしまったから、だから彼女を怖がらせてしまったのだろうか? 貞操の危機を感じさせてしまった?
(何か違う気がするんだよなあ……)
確かにキスはした。
抱き締めもした。
このへんに関しては僕も認めるし……その、いきなりなことをして非常に悪かったとも思う。
でも僕は『その先の工程』の現実の恋愛に即した詳細を全くもって知らないし、そんな行為に及ぶ気力も行為も甲斐性も無い。
だから別にあれ以上きっと何も起こらなかった筈だと主張してみても……きっとそれは徒労に終わってしまうだろう。
あの時彼女が怯えていたのは、もっと、何か、別のものに対してだ。
彼女は別に僕に乱暴されるとは思ってなかったと思う。彼女は僕をナメきっていたし、少女はあの時泣いていたが、あの目は僕を見ているようで僕で無い別のものを見ているようにも思えたから。
――……まぁ、完全に勘、ではあるが。
(それも霊感に類するような勘だけども)
人間の勘と知覚能力ほど頼りにならないものは無い。見てもいない幽霊を見たと心から信じ切ることが出来るのが人の心だ。
僕は自分の頭の中で延々と思考遊戯を続ける努力を早々に放棄して、再び画用紙と木炭を手にとって……。
……。
……。
……そしてすぐにそれも投げ捨てた。
「参ったな……」
何も手につかない。絵さえも、だ。
目を開けて起きている以外何も出来ないし何もしてない。馬鹿馬鹿しいと思うかもしれないが、本当だ。
僕は途方に暮れて天井を見上げた。
受験生に恋愛はご法度とか、スポーツ選手は恋愛禁止とかいうルールを聞いたことがあるが、そういうことを主張する連中の気持ちが分かるような気がした。
確かに何かに打ち込みたい者にとって、恋愛というものは大きな足かせになるのだろう。
僕は今生まれて初めてそれを実感したところだ。誰かを好きになるというのは大変なことなのだとおもう。
大事な生命エネルギーを他のことに使えない。マズい、ヤバい、大変だ。
下手をすればこのまま本当に死にかねないではないか。
思い返せば、授業で習った平安男や江戸男は、確か恋の病で死んでいたではないか。実は恋って凄く危険なものなんじゃないのか。法律で取り締まるべきなのではないのか……。
「……何やってるんだ」
僕は一気に老けこんだ浦島のように肩を落とす。
何だ僕は。何を考えているんだ僕は。というか一体どうなってるんだ僕の精神構造は。
がっかりした。本当にがっかりした。まさかここまで自分が電波で目出度いトンデモ野郎だとは思わなかった。
もう少し冷静な男だと思っていた。いくらなんでも会って一週間の少女に恋してしまったというのか僕は。
淡白さと唐片朴さ加減にかけては並ぶものが居ないと思っていたのに。もう何なんだ本当に……意味が分からない。死ねばいいのに。何で……何でいきなり目の前に現れてきた少女に……。
「ん?」
と、そこで少し引っ掛かるものを感じて、僕ははっと頭を上げた。
そういえば、そもそも彼女は一体何を思って僕にあそこまで接近してきたのだろう。まさか僕に恋していたのか。
……いや、まさかそんなはずはないだろう。そうなのだとしたら彼女は僕以上に電波だ。電波以上だ。電波以上の存在だ。
もし本当にそうなのだとしたら、僕は一週間で彼女を好きになったのに対し、彼女は数十分で僕のことを好きになったという計算になる。
大体一年前に塾で一言二言会話しただけのバイト講師に懸想するような女がどこにいる……。
(本当に何やってるんだ僕は……)
思わず僕は顔を手で覆った。
この無様で見苦しいさまはいったいなんだ。
夏休みも、というか大学生活だって無限に続いているわけではないのだ。
それなのに自分は碌に自分の絵を探すこともできず、探そうともせず……こんなカーテンも閉め切った薄暗い部屋の中で、紙を千切り紙を切り裂き木炭を走らせて……唯一やっていることと言えば、少女と自分の関係について悶々と悩んでいることだけではないか!
「――……よしっ!」
自分で自分に喝を入れる。この際なりもふりも構っていられない。
僕は勢いをつけて立ち上がった。運動不足ぎみのためか多少ふらつくが……まぁ、歩くには支障が無いようだった。
幸い僕は風呂に入らない人類と化すほど本格的に引き籠ってはいなかったので、外に出るからと言ってことさら風呂に入る必要もない。
準備に手間取る様なことは無かった。
彼女に会いに行こうと思った。
「……うん、うん。とりあえずそうしよう」
僕は自分で自分を勇気づけるべく何度も何度も頷きながら、シャツを羽織って玄関へと向かった。心臓が妙な動悸で早鐘を打っていて、自分の足取りが妙に急いているのを感じていた。
――このとき奇妙なことに、僕は彼女に会って何か問いただそうとか、想いを打ち明けようだとか、そんなことは全く何も考えてはいなかった。
ただ会いに行こうと思っていたのだ。
恋は人を馬鹿にするとは本当によく言ったもので――。
「……ん?」
――そのときガチャリと音がして、僕がドアを開ける前にドアの方から先に空いた。
「……」
呆気にとられた顔で僕はドアを凝視してた。そうしていると、奥から見なれた顔がひょっこりと出てくる。
「ただいま」
「……」
僕は目を見開いた。
「夕飯を食べていないなら今から一階のレストランで……ん?どうした?」
「……いや、えっと……」
親父だった。親父が不思議そうな顔で僕を見ていた。ふと腕時計を見れば夜の七時。
「……」
……少女も今頃夕食を食べている時間だ、迷惑になってしまうな、と……なぜかその時そう思った。
●
一階に降りて、レストランに入った。
まるでファミリーレストランのようなそこで、気慣れない日本着物を頑張って着こなしている店員さんに案内され、僕と親父は雁首そろえて席に着いた。
そこは四人がけのボックス席だった。
「親父」
「うん?」
親父が首をかしげた。
「……」
「……」
「……何で横に並ぶんだ?」
ボックス席であるにもかかわらず、僕と親父は不自然なまでに距離を詰めて隣同士に座っていた。
「向かい合って座ると、会話しているうちに『対立』してしまうらしいからな。横に座ってみた。横は『愛情』を意味するそうだ」
「……」
どうやら何か変な本で変な知識を仕入れてきたらしい。島か。島に書いてあったのか親父。
「……男二人で隣に座ってると浮く。あっちに行ってくれ」
そう言って僕は机の向こう側の席を指さした。
ただでさえ席は四人掛けのボックスタイプなのだ。男同士でも女同士でも、それ以外の組み合わせでも、二人だけで並んで座るのは不自然だ。というかおかしい。妙でさえある。
親父は何気ない様子で「分かった」とだけ言うと……本当に何事もなかったように僕の『斜め向かい側』に座った。
……『斜め向かい側』だ。
「……」
「……」
「……」
「……」
「親父」
「斜め向かいに座るのは『無関心』を表すらしい。俺としては甚だ不満だが、この際『対立』よりはましとみるべきだろう」
「……」
本当にわけがわからない。
それは「ぞうは真面目でやりづらいがこの際おおかみと付き合うよりはマシとみるべきだろう」などと根拠不明な主張をするどうぶつ占い好きに通じるものがありはしないか。
「……分かった」
……それでもどうやら親父が僕とうまくやりたいらしいということに気がついたので、僕はそれ以上何も言えなかった。
親父は無口で人に干渉しない人ではあるが、本質的には陽気な人だしたまに不器用ながらに父親としての愛情を見せてくれる人なのだ。……甚だ不器用ではあるが。
「ところで――」
親父がまた口を開く。
その時対角線上に座っている親子二人を不思議そうな顔で見ながらも、店員の女性がお茶を持ってきた。
「ご注文はおきまりですか?」
「いや、まだだ。もうすこし待ってもらえるかな?」
「分かりました」
――流暢な日本語だ。でも名前を見ればやはり中国名が書いてある。
「……」
「お前は食べたい物を選ぶのが遅いからな」
そう言って親父が笑う。
「で、なんの話だったか」
「まだ何も言ってない」
「そうか、そうだな」
親父は尚も笑っていた。俺は呆れて親父を見る。
「それにしても、何でいきなりレストラン?」
いつも親父は大抵同僚と飲んで帰ってくるし、僕は僕で勝手にスーパーで買ってきた惣菜で済ませているというのに。
いきなりレストランに連れ出す行為の意味が分からなかった。
「いや、お前、ここ一週間ずいぶん思いつめていた感じがしたから」
見抜かれていたのかと、僕は驚いて目を見開いた。
「ほら、俺が爺さんからの伝言を伝えた日があっただろう? あれで落ち込んでいるのかと思って」
「……」
でも理由が違う。
見当違いの親父の言葉を、でも僕は妙に暖かい気持ちで聞いていた。
「……別に落ち込んではいない」
だから僕は小さく笑って、湯呑から立ち上る湯気を見ながらそう答えた。
窓の外はもう真っ暗で、マンションの中庭がぼんやりとライトアップされているのが見える。
「絵については、自分の中でもう答えが出ている。画家になりたいわけでも、絵で名声を得たいわけでもない。ただ何があっても描き続けたいだけだから……だから絵について人に何か言われたくらいで落ち込んだりしない。大丈夫だ」
そう言って僕は親父を見る。
――それは本当のことだった。あの時祖父に「また絵なのか」と言われて(というか伝えられて)落ち込んだのは、もっと別の、ものすごく大きな要因が絡んでいたからだ。
「ふうん、それにしたってここ数日のお前は見るに見かねるほどおっかない顔をしていたが」
親父が顎に手を当てて首をかしげる。
「それは、別の理由でだ」
僕は苦笑した。
「何だ読み違えていたのか」
そう言って親父も笑った。白いものが混じった眉尻が大きく下がった。
「そうかそうか……ま、親とて子供の心を完全に見透かすことはできないからなぁ。すまんすまん。
いや、俺の友達の子供もそれはもう沈んでいると聞いたから、我がことも、と思って」
「別にそんなことで怒ってない。むしろ何か嬉しいよ。……それに心を全部見透かされたら、それはそれで嫌なものだし」
「お前は昔っからその調子だなぁ」
親父は尚も笑っていたが、その目には少し、哀しい色が滲んでいた。
「お前は黙って大人の言うことを聞きすぎる。物わかりがよすぎるんだよ。大人は何も分かっていないとうそぶくのは子どもの特権だぞ?」
「別に、言うことを聞いているわけじゃない」
親父の言葉に僕は苦笑するしかなかった。ここまで親父と話すのも久しぶりだ。
思えば親父は僕とこういう話がしたくて外に連れ出したのかもしれなかった。
「ただ黙っているだけだ。じいさんに何を言われても絵を止めなかったのは知ってるだろ?
それにどんなに親戚から文句を言われても、結局大学は文学部に行ってしまったし……聞きわけがいい子どもは、こんなことしないだろ」
「まぁな」
親父は複雑そうにそう答えた。レストランはだいぶ込んできて、そう言えば今日は金曜日だったかと、親父は小さく呟いた。
「……で、何を食うかは決めたか?」
「たまご雑炊」
「またそんな女子高生みたいなものを。たまにはもっと精のつくものを――」
「げほっ、ごほっ」
「ん? どうした?」
「いや、なんでもない」
――精のつくものと言われて僕が一瞬飲んでいたお茶を吹き出しそうになったことは、この際永久に内緒にさせてもらう。いくらなんでも早い。それはまだ早い。これでもその辺の女子高生よりは初心なのだ、自分は。
「だってそんなこと言ったって入らないんだよ。ずっと家に引きこもってたんだし……大体親父は何にしたんだ?」
「うん? ステーキ定食」
親父はさらりとそう言った。
「ステーキ? ……ってうわ、百三十元もするじゃないか。六号よりも高いぞ?」
メニューを見て僕は目を剥いた。親父は親父で僕を見て目を丸くしている。
「六号(リュウハオ)? 六号って……外灘の?」
「……そうだけど」
「まさかアル▽ーニのバーじゃないよな。ってことは二階の? 和風の?」
「そうだけど」
「……そうだけどって、お前いつのまにあんな洒落た場所に。海外ドラマに出てきそうなハイソサエティっぽいサラリーマンしかいなかっただろ」
「いや」
「黒いスーツの白人がいっぱいいなかったか? 西洋の秘密結社と繋がってそうな」
「別に。そんなことも無かったよ」
そう言って僕は素知らぬ顔で店員を呼んだ。
親父は何度も不思議そうに僕を見たりメニューを見たりしていたが……やがて諦めたように追及の手を緩めた。
頼んだものが出されて、それからは早かった。もともと僕も親父も雄弁な方ではないし、加えて食べるスピードが二人とも異常に早かった。
ものの十五分で全てを平らげ、机の上で会計をすませ……親父はやけにいい笑顔で席を立った。
「どうしたんだ親父?」
「いや、ついにお前にも現地の友達が出来たかと思って。どんな奴なんだ?」
親父の笑顔はやけにつやつやとしていた。
「そんなわけないだろ? ずっと引き籠ってるんだ。友達なんてできてない」
僕もガタンと席を立つ。
「うん、そうだろうな。そう思ってたさ」
親父は笑顔のままだった。
「……は?」
「……」
「……」
「彼女だろう。そうだと思ったさ」
「……」
――どうやらカマをかけられたらしい。
「……はぁ」
僕は重い重い息をついて、そのまま逃げるようにしてレストランの外に向かった。
「おいおい待てよ」
親父が面白そうに追いかけてくる。来るな。こっちに来るな。重いきり睨みつけるようにして背後を振り返ると、完全なる傍観者だけが出来る笑顔がそこにはあった。
「……親父」
「女の子ってことはあの子だな? あの綺麗な」
「誰だよ」
僕はなるだけ平静無関心無想念を装った。動かぬこと山のごとしだ。こんな奴に漏らせる情報など何もない。
「じらすなよ。下の階に住んでる娘さんだろ? お前が来た初日にお前んとこに押しかけていった」
親父がやけに生き生きとしている。……全く、傍観者ぶるにも程があった。普通自分の息子と友達の娘が付き合ってると聞いたら嫌がるんじゃないか……っと。
「僕が勝手に好いているだけだ。付き合ってるとかそんなのじゃない」
半ば抗弁するように、半ば自分に言い聞かせるようにして、僕は僕にそう言った。
「ふうん」
親父が目を丸くしている。どうやらそれは意外な答えだったようだ。その隙に僕はレストランからさっさと出て、早く部屋に戻ろうとしかけ――。
――そこで硬直した。
「……」
「ん?どうした?」
親父が追いついてきて、そこであっと声を上げた。
「おう、ジュンさんか! 何だ何だこんなところで会うとはなぁ!」
動けないままでいる僕を追い抜いて、親父はずんずん大股で『彼ら』に近付いて行った。
「俺も驚いたよ! そこにいるのは? 息子さんか? ん? 初めてだよなあ」
そう言って親父の肩を叩いたのは壮年の男性で――例の親父の『飲み友達』である。
気さくな人だと親父がいつも言っている人だ。隣にいるのはおそらく奥さんなのだろう。穏やかで、気の優しそうな人だった。そして、その奥にいるのは――……。
「……」
僕は何も言わなかった。
言えなかった。
うろたえている自分を見せないでいるので精一杯だった。……少女だった。そこに少女が居た。
目を背けたいほどうろたえているのに、僕は少女から目を離せなかった。
揺らいだ目で、僕以上にうろたえた目で、今にも泣きそうな目で――彼女は僕を見ていた。
どうやら家族でこのレストランに食べに来たらしかった。時計を見ればもうすぐ八時。どうして、と僕は思う。一体どうしてこんな遅い時間に――。
「――最近この子が沈みがちで」
僕の思いを知ってか知らずか、少女の母親がそう言って少女の肩を抱く。少女がうろたえたように身を捩(よじ)った。
「だから偶(たま)には外で食べようかという話になったんですが、夫の帰りが遅いものだったから」
そう言って奥さんが笑う。つられて少女も笑っていたが……その笑顔はどこかいつもとは違うように思えた。
「……?」
「先生、今日何食べたの?」
気がつくと少女が目の前にいて、僕を覗き込んでそう言っていた。
「……っ! た、たまご雑炊をっ……!」
声が裏返っていた。もう泣きたい。頭だけどこかに突っ込んで隠れたい。
僕の態度は大学生にあるまじきうろたえぶりだった。しかし少女はどこか虚ろな目でそう、とだけ答えると、そのままふらふらと店の中に入っていく。
「……」
――やはり、おかしかった。
僕は思わず彼女を追いそうになった。
何も考えられなかった。今すぐ少女を引っ張り出して、それで「この間はごめん」と叫びたかった。
そしてそうしようとして、しかし少女の両親がいるということを思い出して、僕は慌てて二人に向きなおった。
「――すっ、すみません!」
「うん?」
男性が首をかしげた。
「あのっ、何て言うか、何というべきなのか、家族団欒のところ本当に誠に申し訳ないんですが!」
「な……何だい?」
尋ねる二人に僕は一瞬言葉を躊躇しかけ……しかし思いきって頭を下げた。そして。
「――……娘さんを……娘さんを、今晩だけ僕に貸してくださいっ!」
「ええ!?」
自分でも予想外の言葉が出てきた。
二人とも困惑している。……当り前だ。僕が今言っていることは控えめに言っても誠に意味が分からない。え、ナニコレ、一夜妻(ひとよづま)の申し出? 一体何をやってるんだ僕は。見苦しいにもほどがある。遺憾の意を禁じ得ない。
「あ、いやっ……! その、別に変な意味で言ってるんじゃないです! 変な意味じゃ断じて無い! 変な意味じゃなくてその、変な意味じゃないとしたら何なんだろう……――」
後はもうしどろもどろだった。僕に期待再現ナントカなんて便利な機能はついていないから、言葉がまったく続かない。
レストランのあるロビーは人の姿こそまばらだったが声は異様に反響し、その数少ない人々がぎょっとしたように僕を見ていた。
そんな注目のど真ん中にあって、何を言うべきか、どんな言葉を継ぐべきかを考えかね、僕はただ気の毒なトカゲのように口を開けたり閉めたりしているしかなくて――と。
その時肩を叩かれて、僕ははっとして隣を見た。
「なっ……」
「えっと、うん。息子はこれでも大人だから」
……親父、だった。
「でね、僕の息子が君んとこの娘さんのことが好きなんだってさ」
「こっ…!」
この男、何て事を。
「それは……」
「あらあら、まぁ……」
少女の父親が驚いたような顔を見せ、奥さんも口元を手で覆っている。あぁもう止めろ、止めてくれ親父。僕に何のうらみがあるんだ。いっそ一思いに殺してくれ。
「だからね、一緒に食事だけでもしたいんだってさ。振られるだろうけどね。まあどうせ振られるだろうけどもね」
キサマ、キサマっ……!
「振られたからって娘さんを刺したりするようなヤツじゃないのは僕が保障するよ。だから娘さんと少しだけ食事をさせてくれないかな。もちろんこんなもっさりしたファミレスじゃなくて。もっと別の場所で。ね? そういう意味だよね?」
そう言って親父が気のいいサンタクロースのような笑みを浮かべて僕を見る。あぁやめろ、やめてくれ。この男、一体何を考えているんだ。
「どのみち夏休みは終わりだから、自分の気持ちにけじめをつけるためにも、少しでいいから二人で話がしたいんだよね?」
「――……!」
僕は目を剥いた。
そうだ。自分で自分でも何をしているのか分からなかったが、多分恐らくそういうことなのだ。
少女に会いたかった。会って話がしたかった。付き合うだの何だのと、そんなことはどうでもいい。……この不安定な感情に、どんな名前でもいいからけじめをつけたかった。
「二時間くらいが限度かな? 上海は治安がいいとはいえ、あんまり夜遅いのもねえ」
……そして父親、何という無謀を言うんだ。自分で最初にお願いしておいて何かもしれないが、やっぱり無理なような気がする。
――その時少女の母親と目が合って、僕は別に何も悪いこともしていないのに「すみません」と頭を下げた。
「……その」
母親が口を開いた。
「ここ最近のあの子は……毎日学校から帰ってから、あなたと会うことを随分楽しみにしているようでした」
「……」
僕は何も言えなかった。それを一方的にブチ壊したのは僕の方だったから。
「……端的に申し上げれば、貴方のことをお慕いしているように見受けられました。貴方と外でお食事でもしたら、あの子の気も紛れるのかもしれません」
「ええっ!?」
僕は思わず身を引いた。
何というか……あの少女が落ち込んでいる原因を作っているのは僕だ。
僕が言うのも何だが、本人が落ち込んでいる原因の元と一緒にわざわざ食事にいかせるような真似をしてしまうのはどうかと……。
「あの子はいつも、学校の人間関係で悩んでいるようですから」
「……そうなんですか」
――だがどうやら母親はそんなことは知らないようだった。
「気分転換にでもなれば……その、お願いできますか?」
「……あ、あの」
「振られてもいいってさ、良かったね」
親父に背後からばんばん肩を叩かれた。僕はそれで盛大にせき込み――視界の端に、少女の父親が少女を連れ戻しに行っているのが見えた。
「……」
何というか――ありがとう傍観者。
「でも移動時間込みで一時間だからね! やましいことは何もできないぞ、頑張って振られておいで!」
――そしてそれは短すぎる。
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