第7話 私、本当は誰のことも

それからどうやってマンションから出て、エレベーターに乗ったのか覚えていない。


覚えているのは、先生を突き飛ばした後、そのままマンションの外に飛び出したということ。


そのまま逃げるようにして地元の人々の集う大型スーパーの中に潜り込んだということ。


雑踏。


喧騒。


笑顔。


異国の言葉。


異国の人々。



カラフルな言語と感情にあふれた雑踏の中を、私は何も考えずにただ歩いた。


歩き続けた。


歩くしかなかった。


そうしてふと気が付いたら、スーパーの中にいたのだ。


「大丈夫か」と、道行くおばあさんが心配そうに声をかけてくれたが、私は笑って頭を振るしかなかった。


それしかできなかった。……きっと、よほど私の顔色が悪かったのだろうと思う。


よろよろと雑踏にまぎれて歩く。道行く人たちが不安そうに私を見ていた。


どんなに変な格好をしようと、どんなに変な行動をしていようと視線一つよこさないのが上海人の流儀であるが、体調の悪そうな人を見かけると放っておこうとしないのも特徴だ。


もっとも、私の場合悪いのは体調ではないのだが……。



「……あ……」



私の目が、私の意志に反して何かを捉え、瞬いた。


何だろうかと思う前に、足が勝手に走り出す。顔が勝手に笑顔を作って……あぁ、また『装置』が起動したのかと私は思った。


級友が居たのだ。仲がいいわけでも悪いわけでもない。偶然教室という箱の中に一年間詰め込まれた仲間同士。平たく言えば限りなく他人。


それでも装置は動いてしまうのだ。少しでも学校生活を平らかにするために。敵を一人も作らないために。誰とでも繋がって、少しでも味方にしておくために。




先に挨拶。


先に世間話。


他愛ない会話。


そう……ノートを買いに来たのね。


それから適当に話題を持たせて、ひとしきり笑って、それで最後に「じゃあ明日ね」。





――馬鹿馬鹿しい。




一連の工程を済ませて級友を見送って、私は力の抜けたようなため息をついた。


馬鹿馬鹿しい。



……相手が、じゃない。私がだ。



私はまた、よろよろと歩きはじめた。さっきより数段よろめき具合が酷くなっている気がする。


こんな時でも装置が動く自分の心が憎たらしかった。


今の私は……何も考えられない。何も言えない。何もできない。したくないのだ。だって落ち込んでいるのだから。


……それでも誰かを見かけると、勝手に相手に合わせて動きだすこの『装置』が嫌だった。期待再現再生装置。他者の期待を読み取って、勝手に再現する迷惑な装置。


それでもこの『装置』無しでは誰とも向き合えない自分自身が嫌だった。




何となく立ち止まり、見てもいない商品を見る振りをする。そして軽く目を細めた。


……コンパスが四元って……絶対すぐ壊れるわよね、これ。


無理やりそんなことを考えながらも、本当の私の心は別の場所を彷徨っている。




――先生。




「……」



日本では考えられない程に人でごった返すスーパーの中、私は恐る恐る唇に触れてみる。


調子が悪いせいで完全に冷え切っている。何の熱も、名残さえも残っていない。



(……私、は……)



ぼんやりとした気持ちで首をかしげる。


私は……私は一体、先生をどうするつもりだったのだろう。どうしたかったのだろう。



先生に接近し始めたのは、ほんの一週間前のことだ。


最初にあの人に近付いた時、私は先生をどうするつもりだったのだろう。


何を思ってあの人に近付いたのだろう。あの時、あの瞬間、先生を突き飛ばした瞬間に愕然とした。


先生に愕然としたんじゃない。自分の気持ちに愕然としたのだ。




――自分は先生をどんな風に見ていたのか、と。




妙な人。


不思議な人。


自分と似ている男の人。



だから近づこうとしたのかしら? と、私は私に自問する。



いや違う。


私は心の中で、激しく激しくかぶりをふった。


違う。違う。私はそんなつもりで近づいたんじゃない。そんな綺麗な気持ちじゃなかった。私の中は、もっと、もっとどす黒い気持ちであふれていた。




同類。


類似品。


似た者同士。


同じ穴の狢。




――それ以上でも、それ以下でもない。





同じだと思ったから近づいた。別に男女の仲になろうとか、そんな風に考えていたわけでは断じて無い。そうだ、そうに決まってる。


自分の胸が嫌な動悸を刻んでいるのが分かった。……一週間ぶりの感覚だ。


先生と会う直前まで、ずっと苦しい気持ちだった。


周囲に溶け込むために自分を偽り続けているうちに、私の本心はどす黒い気持ちであふれていっていた。


こんな会話くだらないとか、何が楽しいのかわからないとか、こんなこと本当は全然したくないとか。


周りをさげすむ気持ちは当然自分もむしばんでいく。こんなふうに周囲を蔑む自分が一番くだらない、って。


先生が上海に来ていると聞いた時も、そんな蔑みと自己嫌悪で気持ちが沈んでいた時だった。


だから、だ。そうだ、だから近づいたのだ。


同類と接すれば、少しは気が張れるかもしれない。その程度の気持ちだった。


だからあの時突き飛ばした。あれが私の本心だ。深い関係になる気はないのだと、ただ近寄ってみただけだと。


好奇心だと。興味本位だと。それ以上の気持ちは無いのだ……と。そう私は私に何度も言い聞かせた。





「……ふう」



ゆっくりと息を吐く。


商品を戸棚に戻し、私はふっと目線を下げ……そして何事も無かったかのように歩き出した。




……そう。私は他人に興味なんかない。


だって私は電波なんだもの。電波でしかないのだもの。大切なのは自分の持ってる世界だけで、自分で作って自分だけで完結する、暖かくて居心地のいい世界だけ。


それこそ他人なんて、自分が生き延びるための道具に過ぎなかったはずだ。そうだ、ずっとそうしてきたではないか。



「……」



私はすっと目を細める。……そうだ、そうだった。




――とどのつまり、私は自ら望んで他人と距離を置いてきたのだ。


「皆の輪の真ん中にいた」? そんなの嘘よ。誰とも深い関係になんてなったりしない。なる気もない。


自分と他者の間に『期待再現再生装置』を置いて、そうして自分自身を外界から隔絶しようとしてきたのだ。




だって、本当の自分の気持ちで話をしたって、誰もわかってくれないもの。

ふっと私は昔のことを思い出す。




昔から、小学校は無邪気ないじめと差別の温床で、中学は若さゆえの裏切りと、下らない嫉妬憎み合いの舞台でしかなくて、全部、それを私は横から見ていた。


ああなりたくはない、と思っていた。怖かった。加害者にも、被害者にも加わるのは御免だった。どちらも嫌だった。無関係でいたかった。


それでも世界は私に傍観者でいることを許さなくて、私はどちらかに加わることを余儀なくされた。


『私』は苦しんだ。泣いて、落ち込んで、打ちひしがれて。そんな私を友人たちも両親も扱いかねているようだった。


そう、無力な『私』では何も解決できなかったのだ。別の理想的な……私の代わりに嫌なこと全部をやってくれる存在が必要だった。




――だから『装置』を作り上げたのだ。



完璧な装置だった。いじめる側にもいじめられる側にも都合のいい幻影を見せるし、自分の良心も傷まない装置だ。


本当はどちらの味方でもないくせに、どちらの側にも味方に付いているかのように見せかける、よくできた張りぼての人形。





……いつの間にかスーパーの外に出ていた。カラフルな色彩を喪い、夕方の菫色(すみれいろ)に染まった雑踏の中、私は同じ色をした空を見上げる。


空気は熱さと湿気で淀んでいて、それでも遥か遠くまで透き通って見えた。完璧な美しさだ。自分の装置と同じくらい。


……いくらなんでも無茶だろうかと思っていたが、『装置』は思いのほかうまく作動した。


私はまんまと『傍観者』の位置に居座り続けた。他人の期待を読み取って、その通りに淡々と再生を続ける装置とともに私はありつづけた。


都合のいい人間で居続ける私は誰からも特別扱いされない代わりに、誰からも適度に尊重されるようになった。そう、『誰からも』。我ながら凄いことだと思う。


凄いと思ったし、十分だとも思った。


穏やかな日々が続いた。塾でも学校でも、私は周囲の『理想・期待』であり続けた。


装置のお陰だ。『私』じゃない。それでも私が苦しむより、装置にやらせた方が効率がいいと思っていた。装置に任せている限り、もう二度と怖い目に遭わないで済むもの。





――だから。だから……。





とぼとぼとマンションに戻りながら、私はぎゅっと唇をかみしめた。


……それで、試しに親にも使ってみたのだ。当時ぎくしゃくした関係だった親に、『期待再現再生装置』を。


さすがに親はだませないだろうかと思ったが、それはほんの出来心だった。


試しに使ってみようと思った。当時の両親は感情の起伏が激しい私を扱いかねていて、要するに疎んじていた。


それなら彼らの期待通りの『いい子』の姿を見せてみたらどうなるのだろうかと思ったのだ。


親は偽りの姿を見せる子供など良しとしないだろうとは思っていたが、何となくやってみたのだ。


叱られると、思っていた。「ありのままでいなさい」と、たしなめられると、思っていた。




――でも。違った。




「……」


人気のなくなった道路の真ん中で、わたしはぎゅっと、自分で自分の手を握りしめた。


本当に、馬鹿馬鹿しい。こうして苦しんでいる私も、淡々と仕事を続ける装置さえも。


悩み、迷い、戸惑い、泣き叫んでいた厄介な娘が突然不気味なまでに『いい子』になったのだ。親はそれを戸惑う以上に喜んだ。


そして喜々として『理想の娘』を受け入れた。認めた。褒め称えた。献身的になった。愛した。――彼らは『私』以上に『装置』を愛したのだ。


足が震える。膝が震える。肩が……手が、全身がふるえている。



「……う……」



思わず胸元を握りしめた。こんなに苦しくなったのは久しぶりだ。私はあわてて走り出す。


……いや、私じゃない。装置が私に走らせているのだ。


これ以上外をうろついていては親に心配をかけてしまう。『親の期待』から外れてしまう。


だから私は走るのだ。走らされているのだ。私じゃない。装置が私の体を動かしているのだ。


私は装置に動かされているだけの存在で、世界もそんな私しか認めてはくれない程度にはくだらない存在だ。






「――ただいま!」






気がつけば私は玄関に居て、綺麗な笑顔でそう声を張り上げていた。母親が奥から、まぁまぁと言いながら出てくる。



「少し遅かったじゃない。心配したのよ」



食事の準備の最中だったのだろうか、タオルで手を拭いている。


「ごめんお母さん。ちょっと遊びすぎちゃって。途中で連絡入れておけば良かったね」

「いいのよそんな気を使わなくて。息抜きくらいしっかりしていらっしゃいな」

「そう? ありがとう。でも本当にごめんね」




――嘘つき。




そんな言葉はそっと私の中にしまっておく。それは装置が言うべき言葉ではないから。


でも、嘘つき。


昔は少し遅く帰るだけで酷く怒られたもので、私は酷く不良娘扱いされていたものだ。


まだ装置が無かったころの話だ。まぁ……あの時はありのままの自分で居たし。顔も暗かったから仕方ないけど。


要するに今みたいに見た目が『明るい優等生』であれば、多少ハメをはずしてもかまわない、というわけでしょう、お母さん?



「今日はお父さんも早くに帰ってくるのよ。皆で食べましょうね」



母親がそう言って、嬉しそうに台所に戻っていく。



「お父さんが?」


『装置』が声を弾ませてそう言った。


「じゃあ久しぶりの団らんじゃない。嬉しいなぁ、みんなで一緒かぁ」

「お父さん、いつも仕事で忙しいものね。貴方の学費のためって頑張っているんだから」




――正確には『装置のため』ね。うそつき。うそつき。うそつき。




「照れるよ。でも本当、お父さん頑張りすぎよ。過労死しちゃわないといいけど」

「何言ってるのよ貴方」

「あらっ? 心配して言ってるのよ?」




おどけた声。笑い声。


会話は勝手に続いていく。当然だ。装置が動いているのだから。用無しの私は私の奥深くにもぐりこんで、冷めた目でそれを見つめていた。




弾む会話。


父親の帰宅。


楽しい食卓。


食後の映画鑑賞。




『理想的な家族』という名の茶番。




本当の私は冷淡な目で横から見ているだけなのに、それでも装置は動き続けた。


そして脱衣所に入った瞬間に――急に私に主導権が戻ってきた。



「……ふう」



思わず息が漏れた。時計を見ればもう夜の九時。


明日も早いのだから、さっさと風呂に入って寝なければならない。


視線を転じて鏡を見れば、げっそりと疲れた顔をしている私が私を見つめ返してきた。



「……こ」



ここまで疲れていたのか。


スーパーのおばあさんも心配するわけだ。……自分の顔をそれ以上見ていられなくて、見たくなくて、弾かれたように視線をそらし、私は重い手つきで服を脱ぎだす。


ガラリ戸を開けて、湯船につかって……そこで初めて私は正気に戻った自分自身を実感する。




ぱしゃり。




足で水を跳ね上げてみる。


籠った室内に水の音が反響した。重い体が休息を求めて、今にも水の中に沈み込んでいこうとする。



「……って、うわ! え!?」



実際に溺れかけた。


私はあわててバスタブに捕まって胸をなでおろし、そして思い切り首をめぐらせて天井を見る。



「……」



そしてふっと目を閉じた。




――食事中、しきりに唇に手をやっていたということに、はたして父親は気が付いていただろうか。




――食器を洗う私の手が震えていたということに、母親は気がついただろうか。




言葉を返す時……いつもより一拍返事が遅れていたということに、はたして彼らは気づいていたのだろうか。


そんな筈ない。皆『楽しい家族』を演じることに夢中だったんだもの。



嘘つき。


嘘つき。


みんな嘘つき。




優しい振りだけしていて、その実絶対一歩深く入り込んできてはくれない。


皆が皆、他人に実現不可能な期待を抱いていて、幻影だけを追っていて。それで、絶対、相手自身に目を向けることは無いのだ。


友達もそう、親もそう。……恋人だって、きっとそう。


だから『本当の付き合い』なんて、世間が作った幻なのだ。


昔っから、私はそう思って生きてきている。


いつしか装置は公私にわたって私の生活に入り込んできていた。装置なしの生活は考えられなくなっていた。


その場限りの友情。


その場限りの愛情。


その場限りの親子愛。


綺麗事。


嘘偽りで塗り固められた美しさ。


それでよかった。それが良かった。


表面では楽しく綺麗に付き合っていても、決して私の内部は見せない。見せられない。


さながら絶対零度疎外区域。私の中だけ。私の心の内部だけ。


氷点下を遥かに下回る、寒い寒い空間が、私の心の最深部を取り囲んで覆っている。




そう……だから。




風呂からざぶりと上がって、私はもう一度鏡を見た。疲れ切った顔をしているのに、限界まで鋭く睨みつけてくる女がそこにいた。





――誰にも、渡しはしない。





自分の心を、自分自身を他人に委ねたりなんかしない。


だって、皆嘘つきなのだ。


他人なんか、信じられない。適当に綺麗につきあって、縁が切れればそれでおしまい。


そうだ、それが正しい。それが私のあるべき姿だ。それでいい。




「……」




鏡の中の、おびえきった自分。



「……でも」



ふっと一瞬その瞳が揺らいだように見えた。私はあわてて頬を叩いて、そして早々に風呂場を出た。



「お父さん、お風呂空いたよ~?」



何気ない風を装ってそう伝える。




でも、いや……きっと。



ソファーに座ってテレビを見て、ぼんやりと私は力を抜く。





好奇心だけだ。


残ったのは好奇心だけだ。


愛とか友情とか……そんなものは全部置き捨ててきたはずなのだから。







――『あの人』に興味を持ったのは、そう、ほんの、好奇心だけだった筈なのだ。



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