第6話 電波も人並みに悩みはする
初めに言い訳をさせてもらうと、僕は対人関係のスキルの『低さ』にかけては並々ならぬ自信と自負と矜持(きょうじ)を持っていたりするし、膨大な『実績』も積み上げている。
……いや。
これでは自慢しているように聞こえてしまうな。いや、自慢には聞こえないか。
しかし少なくとも言い訳の体(てい)は為していない。
えっと。
その。
つまり……。
つまるところ、僕は人との距離が掴(つか)めない、ひきこもりの電波野郎だってことだ。
外見は普通……というか、むしろ良い部類らしいものだから、みんな最初は優しくしてくれる。
けれど大抵の人間は、僕の言動があまりにおかしいことに気がついて、引きつった笑みを見せて、そしてごく自然に離れていく。
無理もない。普通の付き合いやすそうな人間だと思って近づいたのに、中身が予想外の異常人間だったら怖いだろう。
中学もそうだった。高校もそうだった。大学もまぁ……少数ながら友人らしきものは出来たが、大体は前の通りの感じだ。
離れていく人間を無理矢理自分に引き留めておくことはできないということは経験上知っているから、僕は誰も追わない。
たいてい一人、あるいはあるいは二人。もしくは小集団の中の一人。
勢い人づきあいの経験も乏しくなる。
……何が言いたいかというと。いや、言いたいことなんか何もない。自分でも自分が落ち込んでいる理由がよく分からないのだから。
「――……はぁ」
相変わらず鬱屈とした空気の漂う部屋の中、僕はもう何百枚目かになる画用紙をビリビリに引き裂いて、そうしてすみやかにダストボックスに投げ入れた。
失敗。
すでに画用紙で山盛りになっているダストボックスは僕のシュートをはじき返し、哀れな画用紙玉は床の向こうにゴロゴロと転がって行った。
床の上には、他にもグシャグシャに丸められた画用紙がいくつもあって。
それを見ながら、僕は声も立てずに溜息をつく。僕は再び新しい画用紙を取り出しかけて……そして止めた。
力無く頭を振って、眉間を抑える。
集中できない。というか、碌(ろく)に考えることさえままならない。ただグルグルと渦巻く不定形の感情の塊が、僕の首から上を隙間なく満たしているだけだった。
僕は冷めた鉄観音(てつかんのん)に口をつけ、何となく窓の外に目をやった。
いつも通りの夜景。
その中にきらめきを放って浮かぶ、東方明珠。
夜景に映える赤紫の闇空に、一瞬あの『少女』の姿を思い浮かべ……それから即座にそれを自分でかき消した。
自分でも、何であんなことをしてしまったのか分からない。
冷静に考えればとんでもない行動だ。脈絡が無さすぎたうえに強引すぎる。
……キス、してしまった。
あううと自分の喉から自分でも意図しない声が漏れ、自分の目が自分でも意図せず泳ぎまくっているのが分かった。
この場には誰もいないのに、言い訳をする相手を求めて意識がおろおろと頼りなく彷徨い続けている。
自分で自分の恰好の悪さに舌打ちをしたくなって……しかしもう一度冷静に考え直そうと、僕は今までにあったことを順繰りに思い出した。
まず、家に帰って。
彼女がお茶を淹れてくれて。
話をしていて。
僕が唐突に彼女に襲いかかって。
突き飛ばされて。
「馬鹿!」と言われて出て行かれた。
「……どうしようもないな」
思い出しつつ唖然とする。明らかに百パーセント悪いのは僕の方で、頭に変な電波を受信しているのは僕の方である。
あまつさえ、彼女は去り際に泣いていたように思う。……あそこまで傷つけてしまうとは。
それもそうだ。いきなり異性から襲い掛かられたら状況次第では僕だって泣く自信がある。
何でいきなりキスをしてしまったのだろう。
何で、いきなり抱き締めてしまったのだろう。僕は。
――――また距離の取り方をつかみそこねたのだ。
「……」
唐突に自分が落ち込んでいる理由を理解して、僕は椅子に座ったまま、がっくりと肩を落とした。
いつものことだった。ままあることだった。
人づきあいの経験が乏しいものだから、たまに仲良くしてくれる人に会うと、ついついこちらから近づきすぎてしまう。
距離を詰め過ぎてしまう。
――親しく、接しすぎてしまう。
そのやり方を間違えて……相手に拒絶されてしまうことは、僕にとってはそう、『ままあること』にすぎなかった。
明かりもつけない部屋の中、僕は再び冷めきった鉄観音に口をつける。
人間いくら気の合う者同士でも、会って間もない相手に突然親しげに近寄られると、反射的に拒絶してしまうものだ。
人間関係を結ぶときにはしかるべき複雑な手順があって、少しでも早すぎたり遅すぎたりするともう両者の間に深い関係は成立しなくなってしまう。
僕はしょっちゅうそれを間違えて、間違えすぎて、慌てて距離を「適正なもの」に取り直そうとしても手遅れで……だから親友も恋人もできることが無かった。
大抵皆僕に話しかけた途端に僕を変人扱いして僕を避け、稀に気の合うものが居ても僕が「距離をとり間違えて」嫌われる。
居るのはその場その学年限りの、いわゆる仮面友達くらいで。
だからまた特別になれそうな人間に出会うと何となく近づこうとして、そしてその度に盛大に失敗した。
上手くいくのは相手が壮絶に鈍感な場合だけだ。どうやら僕は先天的に距離の取り方はうまくないようだ。
「……」
そして今回も距離を取り間違えたのだ。
彼女に馬鹿と言われて初めて、自分の馬鹿さ加減を自覚した。
乾いた笑いを浮かべるしかない……やっぱり僕は、対人関係のスキルはそんなに高くないなと自嘲した。
好きだとか、恋だとか、そう言いうことはあの時も……今でもいまいちよく分かっていない。
けれど、「仲良くなれそうだ」と思ってた。心底なれると思っていた。
「先生は年上に見えない」とあの子は言ってくれたが、それは僕も同じだった。
同じ年ごろの友達と話しているような気分だったのだ。嬉しかった。
いつのまにか彼女が家に居ても、当たり前だと思うようになっていた。
自分は絵を描くためにこの地に逃げ込んできていただけだというのに、いつの間にか少女が僕の世界に入り込んでいた。
――……それで、あのザマだ。
僕が一人であーともうーともつかない声を上げていると、ガチャリとドアが開く音がした。親父だ、親父が帰ってきた。
「おかえり」
とりあえずそう言って迎えに出る。最近急に白髪が増えた親父は陽気な人柄ながら口数は少なく、それでもただいまとだけ息子の僕に口にした。
そのままネクタイを解いて、洗面所に入って行く。
「親父、晩ご飯は?」
「下で済ましてきた」
親父は顔をばしゃばしゃと水で流しながらそう答える。
「……一階のレストラン?」
そんな親父にタオルを渡しながらも、僕は眉をひそめた。
「ああ」
「………食べたって……親父の友達と? あの子のお父さんと?」
「そうだけど……どうしたんだ?」
「いや、何でもない」
タオルで顔を拭きながら、怪訝そうな顔を見せている親父を差しおいて、僕は台所の冷蔵庫の戸をあけた。
気がつけばもう九時で――そんなに長い時間自分は延々と懊悩(おうのう)し続けていたのかと思うと少しばかり情けない気持ちになった。
「――そういえば」
居間で堂々と服を脱ぎつつ、親父は何気ない様子で口を開いた。
「食事中に電話が来たんだが」
「誰から」
「親父から」
親父はあっさりとそう答えた。親父の親父……つまりは僕の祖父ってことか。
「お前は何をしているんだと、しきりに聞きたがっていたよ」
「……」
嫌な予感がする。僕は一歩、後ずさった。話の続きを聞きたくなかった。ただでさえ今は、少女のことでいたく落ち込んでいるというのに。
「勉強もせんと、何をやっているんだとな」
親父の声に責める様な色は無い。ただ祖父から言われたことを再現しているに過ぎなくて。
「また、絵なのかと。どうだ、語学留学ぐらいやってみたらどうだ?」
「……」
だからこそ。
僕は何も答えられなかった。いつもなら「そうだね、いつかやろうかな」とだけ答えて涼しげにしていられるのに、今日は、今日だけはそれが出来なかった。
……少し余裕が無さ過ぎたのだ。
「……」
「どうした? 気分が悪いのか?」
そうじゃない。かなり余裕が無さすぎるのだ。
「……ちょっと、外の空気吸ってくる」
「おい」
「ごめん」
「おいってば」
親父が引きとめようとしたが、それに構っている暇が無かった。
頭がグルグルをとおりこしてガンガンする。立ってさえいられない。嫌な動悸が全身をめぐっていく。
僕はふらつく足取りで玄関を出て、エレベーターで降りて、ロビーを抜けて……超高層マンションの並ぶ夜道をただふらふらと彷徨うように歩いて行った。
●
絵を捨てたくない。
今の今の今に至るまでただそれだけが、僕を現世に引き留める細くて透明で脆い一本の糸だった。正直言って、ほかはどうでも良いことだった。
絵を描き続けるために。いつか認めてもらう為だけに。
「……」
僕はあてどなく夜道を彷徨い、道を頼り無く照らすオレンジ色の街路樹が点々と続いているのを、ただぼんやりと眺めていた。
上海という都市は、魔都という名称に似合わず……意外なほど治安が良かったりする。
聞けば十年前まではほとんど漁村だったのだという。
住む人も素朴な人達ばかりで……それでもここ数年の急激な都市化についていけなくて、徐々にこの都市から離れていく人たちが出てきているとニュースで見かけた。
それに平行して治安も少しずつ悪くはなっているものの、それでも『東京ほどではない』というのが現実だ。
夜の公園には明かりもないのにたくさんの住人達が憩っている。
こんな牧歌的な光景は、今の日本では見ることが出来ないだろう。
……夜の公園と言えば、少なくとも新宿では犯罪の温床の代名詞なのだから。
「……」
真っ暗な公園の中で所狭しとベンチに座り、或いは立っておしゃべりに明け暮れている上海人(シャンハイレン)たちを横目で見ながら、僕はふらふらと歩いていた。
公園の中は明かりが無いせいか、人々の顔はほとんど見えない。こんなに真っ暗なのだから、何もこんなところに集まらなくてもいいのではと思う。
けれど彼らはそこに集まっていた。
喋るために集まっていた。
互いに会う為に集まっていた。
……てらいのない笑い声が、まるでそれ自体が輝いているように周囲に満ちては消えていく。
僕はそんな人たちの間をすり抜けて、デパートやら個人商店やらが建ち並ぶ区域に出ていった。
――祖父が僕を良く思っていないのはいつものことだった。
蛍光灯とネオンが僅かに交錯する中、僕は何となくそう考える。
昭和生まれの明治男、とはよく言ったものだが、祖父は時代錯誤なまでに厳格で質実剛健を旨とする人だった。田畑を耕し、清く正しく生き、限界まで節制する。
そんな祖父が絵を描く男なんてものを許すはずがない。
「……はぁ」
……祖父のことは嫌いじゃない。向こうもそう思っているだろう。ただお互いに反りが合わないだけだ。距離を保てばうまくいくと、そう僕は思っている。
けれど祖父の方がそう思っていないのも真実で。
大事な農家の『跡取り』である僕を、何かと傍に置きたがり、最後まで東京の大学行きを反対していたのも祖父である。
あまつさえ文学部だ。飯の種にもなりはしない。
女であればまだしも、文学部に入った男など、農家にとっては最も唾棄すべき存在であって、僕の評判は、実家の親戚連中の間では寒々しいほど低かったりする。
かばってくれたのは両親だ。それと母方の両親も、気難しいながらにしぶしぶ受け入れてはくれている。
「……帰るか」
さすがにこれ以上意味もなくうろついているわけにはいかないので、僕はやむなく踵を返した。今来た道を引き返して、またあの公園のある場所まで出る。
息を意図的に整えて気持ちを落ち着かせて、僕は何とかいつも通りの僕に戻ろうと試みた。
そう、いつも通りの僕で居なければならなかった。祖父のことも、親戚のことも。
ここには絵を描きに来ているのだ、それを忘れてはならないと、僕はそう自分自身に言い聞かせる。
拳をぐっと握り締めた。
祖父に何といわれようと、絵だけは捨てるわけにはいかなかった。
どんなに蔑まれても、どんなに窘(たしなめ)められても、笑われても、叱られても、けなされても、怒られても、止められても、目を細められても、傷つけられても、何があっても……それでも、絵だけは、絶対に捨てるわけにはいかなかったのだ。
物心ついた時からそれだけは貫き通してきた。誰に反対されても、絵だけは守り続けてきた。弱さの象徴でもあるそれは、僕が唯一胸を張れる、僕の強さでもあった。
「……」
――だがふと僕は立ち止まり、そして途方に暮れたように周囲をすっと見回した。
時はまだ夏真っ盛りで、夜とはいえど空気は暑く蒸している。
真っ暗闇で、不快そのものの空気の中、それでも人々は笑っていた。笑っておしゃべりに興じていた。
「……」
その楽しげな喧噪が何となく我慢できなくて、僕は再び足早に帰路につく。
何も考えたくなかった。考えてはならなかった。……そう、自分は絵のことしか考えてはならないのだ。
軽くかぶりを振って全ての雑念を振り落とそうと試みる。
だがそれは思いのほか困難を要する作業で……それでも僕は進まねばならなかった。
認められるとか何とか、もうそんなことはどうでもいい。
それでも絵だけは捨てられなかった。
そのために自分は絵以外の事柄を全て切り捨てた。
人とのかかわりを……極力断っていたのだ。
足早に歩いたまま公園を後にする。それでもまだ、あの楽しそうな喧騒が耳に残った。少し泣きたくなった。
自分は人づきあいが得意ではない。周囲の人々は僕を変人扱いして遠ざけたし、僕も周囲の人々を切り捨てたから。だから僕は人づきあいが出来なかった。
それでいいと思ってた。それがいいと思ってた。
でも。
……でも。
一瞬思考がぐらついた。足並みが乱れた。息が上手く出来なくなって……でもその混乱は一瞬のことだった。
僕はあえて立ち止まり、自分で自分をおちつかせると……そのまま黙って前進した。心に浮かんだ想い雑念は全て自分の奥底に押し込めた。
――でも、本当は。
……うらやましかった、あの人たちが。
うらやましかった、ああやっててらいなく笑いあえる相手がいる人たちが。
出会いも手順も打算もかけひきも何もなく――ただ人との距離を詰められるあの人たちが。
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