第5話 なにやってんだバカ

 エレベータで六号(リュウハオ)の内部のエレベーターを昇った先にあるのは、黒を基調としたモダンな和風ダイニングレストラン……駐在員の若奥様達と気取ったサラリーマンたちには人気の店……らしかった。

 店内の側道には水の通路が張り巡らされており、気持ちのいい流水や噴水の音を響かせている。


「予約はなさっていますか?」


 店員の女の人が、流暢(りゅうちょう)な日本語で尋ねてくる。


「いいえ、二人なんですけど、大丈夫ですか?」

「はい。禁煙ですか? 喫煙ですか?」

「禁煙で」


 私がそう言うと女の人はこくりと頷いて、私たちを先導するようにして店の奥に入っていく。

 私はぼけっと突っ立っている先生を引っ張って彼女についていった。

 私が覚えていた通り、店の中には人工池というか噴水というべきか……廊下の両端に水が流れている。

 水と電灯とガラス床の織りなすコントラストが本当に綺麗で……でも正直、水道代は大丈夫なのかと心配な気持ちになってしまう。

 景気がいいんだなあ……と、不景気な日本しか知らない私などはつい思ってしまうのだけれど、きっと日本にもこういう場所はあるのだろう。

 二人掛けの席に案内され、先生は私の向かい側に座り、不思議そうな顔でメニューをしげしげと眺めていた。


「どうしたの? 先生」

「日本語だ」

「日本語って……あ、メニューのこと?」

「日本語で書いてある」


 先生はかなり驚いているようだった。


「そりゃあ……日本人向けレストランだし」

「でも、周りからは英語と中国語しか聞こえないぞ」

「そりゃあまあ……ええ? 本当かなあ」


 私はそう言いながら周囲をぐるりをみまわして、先生の言う通り日本人の数は多くないことに気が付いた。



「本当だ。こういうところにいる日本人の数が減ってきているって聞いてはいたけれど……」

「何でだ?」

「分かんない。最近は開発の舞台が中国からベトナムに移っているから日本人もそっちに移動しているとは聞くけれど、それが関係しているのかなあ……」


 私は肩をすくめた。


「でも本当、なんでかしら。ちょっとまえまで日本人向け高級デパートとか、日本食レストランとか、そう言う場所には日本人が沢山いた筈なんだけど……最近は普通に現地の人たちがやって来ているのよね。中国の人たちがお金持ちになった証拠かしら」

「そうなのかな」

「そうなのかなって……先生、大学生なんでしょ? 何かそういうこと勉強しないの?」

「僕は文学部だぞ」


 先生はメニューのなかにある変なロール巻き寿司をしげしげと見ながら呟いた。

 店内には小洒落た音楽がテンポ良く流れている。


「だからそういう経済的なことは何も分からない。……そこも僕が親戚に叩かれる理由ではあるな」

「まー確かに、男の子が文学部に行くと親戚が嫌な顔するってのは良く聞く話ね」


 私が顎に指をあててそう言うと、先生は困ったように笑って肩をすくめた。


「……ああ、でも、思い出した」

「え?」

「親戚が自動車会社で働いて、いろんな国を転々としているのだけれど」

「うん」

「その親戚の話によると、自動車会社っていうのは、途上国を開発する際にはあらゆる業界の中でも最後の方に乗り込んでいくものなんだそうだ。

 金融や建築……あらゆるインフラが整わないと、自動車を走らせることは出来ないからな。

 道路も何も開発されていない途上国にいきなり乗り込むことは出来ない」

「なるほど?」

「でも、この国には日本の会社のカッコいい新車がビュンビュン走っているだろう?

 つまりこの都市の開発はすでに終わりつつある……つまり、上海での会社立ち上げを担っていた日本企業の海外進出組は、すでに上海を去っているのではないかと推測が出来る」

「おおー」

「どうだ、考える材料さえあれば文学部だってこの程度の予測は立てられるぞ」


 と、言ってふふんと笑う先生が妙に自慢げだったので、私は思わず声をあげて笑ってしまった。


「……って、いけないいけない。何にする?」


 私はそう言ってメニューに目を落とした。


「豚の角煮がある」

「中国は豚肉料理得意だものね」

「さんまがあるぞ」

「日本人が好きだからよ。……先生それにする?」

「スパイダー何とかって……見たこともない巻き寿司がある。カリフォルニア巻きとどうちがうのかな」

「聞け。……私としては、雑誌でオススメされていた釜飯を推ししたいところだけど」


 私がテーブルに肘をついてそういうと、先生が不思議な目をしてこちらを見つめ返してきた。


「何で?」

「おいしいし、二人分頼んでも私のお財布が爆発しない程度には値段が手ごろだから」

「君は奢る気なのか?」

「当たり前でしょ? 勝手に誘ったのは私。ここに連れ込んだのも私。だったら私が奢るべきなんじゃないの?」


 先生お金無さそうだし、と私は付け足した。

 ――普通は年上の、しかも男の人に『奢る』なんて言ったら失礼だけど、けれど今の私は期待再現再生装置が切れてしまっているのである。

 何も考えずに、けれど素の私がさらりと出てきてしまう。


 先生は本当に不思議な人だ。


 先生と話していると、いつの間にか私は心の鎧は全部、全部とれて外れてしまう。

 それでうっかり変なことを言っちゃっても……先生は一向に頓着している様子がない。

 現に今も、先生はカチンとした顔をするでもなく喜ぶでもなく、自分が今何を言われているのかよく分かってない顔をしている。


「えっと」


 先生は目をぱちくりさせつつも、頭を掻いて口を開いた。


「いいよ。僕が奢る」

「ええ?」


 私の言葉はまぁ断られるとは思っていたが――それでも予想外の答えだった。

 私がこんなに驚いているのに、先生といえば目をぱちくりさせたまま、本当に涼しそうな顔をしている。


「だって、さっき君に奢ったものと言ったら本当に微々たるものだったし、せめて昼飯代くらいは奢るべきなんじゃないか? その……僕は一応大人だし」

「そういえば大学二年生だっけ。でも全然大人に見えないよ」

「そうかな?」

「うん。なんて言うか……同い年に見えるのよ」

「そうかも。人から怒られる時も、お前は考えが幼いってよく言われるんだよなあ」


 そう言って先生が僅かに笑った。

 笑いなれていない人に特有のひきつったような……けれど本当に暖かな笑顔だった。

 ……なんだか得した気分になる。学校じゃこんな笑顔、滅多に見られないものね。


「いけない、話がずれたわ」

「そうだった。何にしよう……」


 先生はいちいちメニューの中の写真と名前と値段を照合させてはうんうん唸っている。

 その顔はあまりに真剣に過ぎていて……食べたい物を選ぶのに時間がかかるタイプなのだろう。

 私はもう決めたけれど、だからといってせかすほどお腹は空いていなかったので、ゆっくり先生を待った。

 店員の人が持ってきてくれたお茶をすすり、私は何となくまた店の中を見渡した。


 中国語。


 韓国語。


 それから英語。


 ……本当に日本人が居なくなっている。

 多国籍な空間の中、まるで自分たちだけが隔絶されているようだった。

 この店、ちょっと前までは昼時になると日本人駐在員の若奥様集団が鬼のように押し寄せていたって聞くけれど……一体何があったんだろう。

 先生が予測した通り、日本の企業の事業立ち上げ組が上海から去っていったから?

 それともサブプライムナントカ? えっと……でもあれ、アメリカで起こったって言うし……やっぱり良くわからないわねえ。



「――決めた」


 先生の声がきこえたので、私は先生に向きなおった。


「何にしたの?」

「君と同じのにする。何にしたんだ?」

「あのね……」


 君と同じにするなどと主体性ゼロのことを言っておきながら、どこか意気揚々とさえしている先生。私は思わず呆れた声を出してしまった。


「分かってもいないのに私と同じにするの?」

「ここはプロの言うことを聞いた方が失敗が無い」

「プロって……私も別に注文のプロってわけじゃないんだけど」

「でも君がおいしいと思っているものを僕も食べてみたい。君の事ももっと知りたいんだ。で、君は何にしたんだ?」

「……先生、今何気に大胆なこと言ったの分かってる?」

「大胆? おいしいものを食べたいと願うことのとこが大胆な決断なんだ」


 先生が怪訝そうに首をかしげた。


「……何でもない」


 私はそう答えて笑うよりほかなかった。

 注文してからほどなくして、豚角煮釜飯が二人分運ばれてきた。


「刺身が旨い」


 先生は釜飯より先におまけの刺身を食べている。


「――先生ってさ」


 私は何となく口を開いた。先生はまだ刺身をつつきながらこちらに目だけを向けてくる。


「先生って」


 店の中に流れているのはさっきと同じ小洒落た音楽。飛び交っているのは異国の言葉。

 私にも先生にも、それはまったく似合わないものだったけれど……けれど先生と一緒にこの場所にいられるのが何だかとてもうれしかった。

 先生が目線だけで私に続きを促してくる。


「先生ってきっと……適応放散不可能帯なんだわ」

「……」

「……」

「……は?」


 数瞬分の間を置いて、先生の目が点になった。まぁ……無理もない。


「てきおうほうさん? 何? 君の造語? また君の言葉のセンスが発揮されているのか?」

「……ま、そんなとこ」


 私は肩をすくめて刺身をつまんだ。……何となく、先生と同じものが食べたかったのだ。


「先生と居るとね、私、どうしていいか分かんなくなるの。

 気持ちが落ち着いて、安心できて、何でもできるって思っちゃう。

 けれど、何でもできるからこそ……いったい自分がどうしたらいいのか分からない。自分で自分をもてあましちゃうのよ」

「……君、今何気に大胆なこと言ったの分かってるか?」

「それはこっちのセリフよ」


 私は今度こそ呆れて声を上げて笑った。

 先生は本当に自分のことを棚に上げすぎだ。


「何で笑うんだ」


 先生が憮然と不思議を足して二で割ったような顔をしている。

 そんな顔をしながらも、小さな釜飯のふたを開けて……真剣に中身を観察しだした。


「角煮があまりに大きすぎる……」

「え、先生角煮苦手なの?」

「いや、嬉しいんだけど……でも新宿だと二、三倍の値段はしそうで何とも言えない気持ちになるんだ」

「えええ? そんなにする?」

「嘘じゃない、本当なんだ。前にデパートの地下で見かけたもんで奮発して買おうとしたら、一かけら千八百円なんて恐ろしいことを言われて、這う這うの体で逃げ出したことがあるんだ……」

「本当かなあ。いくら新宿だからって……あれ、先生ってどこに住んでるんだっけ」

「中野だよ。新宿は友達が住んでる場所だからたまに付き合ってる。オーエ☆ドラッグと富▽そば新宿三丁目店は神らしいよ」

「へー、それで新宿かあ」


 とりとめのない会話をしながら食事をする。


 ……不思議な気分だった。


 頬づえをついたまま、もう一度周囲にちらりと目を向ける。

 周りは外国語と私たちには不似合いな音楽で溢れていて……けれど私と先生だけは、何かの特殊なシェルターで、守られているみたいだった。


「それにしても、先生にも友達がいるのね」

「人数は聞くな」

「そんな分かり切ったこと聞かないわよ。で、友達とは普段何してるの?」

「別に、普通だよ。

 学食で授業の感想を語り合ったり、授業の手伝いのボランティアを一緒にやったり、信じてもいない占い屋に入ってどこまで自分の素性を言い当てられるか賭けてみる遊びをしてみたり、紀伊国屋書店の鉱物店で何も言わずにじっと石を眺めたり……」

「……それ、最後の二つは全然普通じゃないわよ。性格悪っ!」

「存命のはずの僕の祖母が亡くなって大悪霊になってる話をされた時には面白かったな。

 祖母のいる空間に向かって荒塩をばらまけと言われたあたりで我慢できずに大爆笑をしてしまった」

「占い師に心から同情するわ……」


 とりとめのない会話をしながらも、私はシェルターの中での時間の経過を楽しんだ。







 昼御飯を食べたあとには特にやりたいことも無かったので、私たちは結局あのマンションに戻ってきた。若奥様たちが私と先生を交互に見ては何かひそひそ話している。


 ……あーあ、やだな、こういうのって。


 無駄に天井の高いホールを抜けて、カードキーで居住区に入って、そして私たちはエレベータを待った。

 全くさっきの人たち、一体何を話してたのかしら。

 ……まぁ先生は大学生で男の子だし? 私は高校生で女の子だし?

 そりゃあ何か勘繰りたくもなるんでしょうけど。


「すまないな」


 何故かいきなり先生が謝りだして、私は驚いて先生を見た。


「何で先生が謝るの?」

「何となく」


 相変わらず飄々とした様子だった。


「君は年頃の、しかもきっと優等生で通っている女の子だし、転じて僕は正体の曖昧な大学生の引きこもりだ。

 一緒に歩いていれば……肩身の狭い思いをするのは君だ」

「……」


 私は息をついた。

 残念ながら、先生のその読みは大正解だったりする。

 世間の人は他人を見ていないようで見ているのだ。そして無責任な読みを元に判断している。

 引き籠りと優等生。この妙なコミュニティーでガッチガチにされた空間内で、私たちのような妙な取り合わせは大層目立つのだ。

 先生はいつもの表情の乏しい顔で、それでもすまなそうな様子を見せていた。


「だから、ごめん」


 ……大正解、なんだけども。


「――……やだ」

「え?」


 先生が首をかしげた。


「そういうのって、やだ」

「君?」

「先生まで周りを気にすることは無いのよ。周りを気にするのは私の仕事なんだから、先生は何もひけめに思うことなんてないのよ」

「でも君は、年頃の女の子だ」

「なんでそこにひっかかるかなあ」

「年頃の女の子は……さえない男と一緒に歩くのが嫌なんだろ?」

「何で先生がさえない男にカテゴライズされてるのよ」

「僕は電波のひきこもりだ」

「……まぁ、そうだけど」

「その上よりにもよって文学部だ」


 ……そんなに気にしてるのか、文学部。


「文学部の僕が君の隣を歩くのは、よくないことであるように思う」


 先生は飄々とした顔をしてはいたが、同時にどこか途方に暮れているようでもあった。

 この人はきっと、今まで人との距離をとりすぎていたんだと思う。

 だからこそこんなにも、乏しい表情のくせに思っていることはことごとく顔に出てしまっているのだ。未熟だなぁ、と心のどこかで上から目線に考えてしまう。

 私は少しの間言い淀み、だが気がついたらまたぽんと言葉を発していた。



「あのね先生、先生は私の適応放散不可能帯なの。私の大切な場所なの」



言いながら、私はあわてた。

装置じゃない。装置が私に言わせたんじゃない。私が、自分で言いたくて言ったんだ。なぜかするりとその言葉が出てきたのだから。

やだ、これって何か告白めいてない? 言った端から急に照れくさくなってきた。

私と先生はそんな関係じゃないって言うのに。


「大切な人……?」


案の定先生もうろたえている。当り前だ。私だって驚いている。

その時聞きなれた機械音がして、エレベーターが一階まで降りてきた。そのままグイーンと扉があく。私は空気をごまかそうとして、さっさとエレベーターの中に入った。


「……」

「……」

「……」

「……その……やっぱり大胆なのは……君の方なんじゃないか……?」

「……」



先生のこの上なく情けない声が耳に入ったが、私はあえて聞こえないふりを押しとおした。









気まずい空気もなんのその。

私はそのまま当たり前のように先生の家に押しかけて、特にやることも無いので買ったお菓子を二人してボリボリ食べた。

この前買ってきた牛乳――はもう無かったので、私は農夫山泉のミネラルウォーターのペットボトルを勝手に開け、勝手にお茶を淹れることにした。

中国では誰でも飲んでいる定番の水だ。

プーアルは結構飲んでるし……たまには鉄観音でも淹れてあげようかしら。


「先生」


茶葉を加減してポットに入れつつ、私は何の気なしに口を開いた。


「何?」


先生が私の方を見る。


「先生って……彼女いないでしょ」

「何でそんなことを聞く?」

「何となく」


純粋にそんな気分だったのだ。深い意味は無い。断じて無い。絶対ない。


「嘘だ。君はたぶん僕のことが気になっている。気になっているからそんな質問をするんだ」

「うるさい、違うってば。で、どうなのよ?」

「……居ないけど」

「やっぱり」


緑色の液体が、白い煙に香ばしい匂いをまとってカップの中にするすると落下していく。


「先生、人と付き合うの苦手そうだものね。ひょっとして彼女も欲しくない?」

「絵を描く時間を取られたくない」

「それも、やっぱり」


私は笑って先生の隣に座った。

先生は憮然とした顔でお茶をふうふう言わせつつすすっていて――あ、猫舌だったんだなと、私はぼんやりと思った。


「――平気?」

「何が?」


先生が首をかしげた。


「……御免、主語を入れ忘れちゃった。一人で居て、先生、平気なの?」


いつもそれが不思議だった。皆一人が嫌で友達を作って、一人が嫌で群れていて、一人が恐ろしくて深夜遅くまでメール交換をしているのに……一見平気な顔をして一人で引き籠っているこの人がこの上なく不思議に感じた。

あまつさえ進んでこんな日本人向けマンションなどというところまで逃げ込んで、知人も友人もいない中、この人はたった一人で自分の絵ばかり探し続けているのだ。


「――平気だな、割と」


肩をすくめて先生が言う。その顔には一切の気負いも、自嘲もみあたらなかった。


「友達沢山欲しくないの?」

「沢山は欲しくないな。……いい思い出が無いし」


その時だけ一瞬先生の目が曇る。だがそれはほんの一瞬のことだった。


「いい思い出が、無い?」


私の口から出たのは疑問ではなく確認だった。


「いい思い出が無いの?」

「ああ」

「だから……彼女も要らないの?」

「ああ」

「平気?」

「だから何が?」


困惑したように先生が言う。それは私も同じことで――何故自分がこんなにも必死になっているのか、自分でも訳が分からなかった。


「その……えっと、なんて言うか……」


口ごもってお茶の表面に映った自分の顔に目を落とす。


「――……一人でいるのが怖くないのかな……って」



お茶の上にこぼれ落ちてきたのは、自分でもぎょっとするほど力のない声だった。

怖くないのかな、だなんて。

期待再現再生装置が切れた私の発する『自分の言葉』が、こんなにもありきたりでつまらない言葉だなんて……って、少しがっかりした気持ちにもなる。

あはは、と乾いた笑いを出しながら、私は何とか二の句を探す。


「何だろう……何言ってるんだろう……あたし、自分でもよくわからなくなっちゃった。えっとね先生、えっと」

「君は」


先生が言葉を遮った。

穏やかそうな、意外とそうでもないような、静かな目がじっと私の方を見ていた。

夜明け前の空みたいだ、と、私はぼんやりと思った。

綺麗な目だ。私みたいな嘘や取り繕いの一切ない、澄み渡った夜明け前の空みたいな目。


「君は一人が、怖いのか?」


夜明け前の闇が私にそう問いかける。綺麗だけど、恐ろしいと思った。

先生の目は、表情は、恐ろしく冴えわたった冷たさを持っているところまで夜明け前の空にそっくりだった。

……いや、客観的には決してそうではないのだろう。先生はいつも通りなのに、ありもしない闇におびえるくらい、私は今、恐れている。


でも、何を?



「……」



わからない。


わからない、と、私は小さくそう呟いた。唇はカラカラに乾いていた。リップクリームを塗るのも忘れておしゃべりに興じていたせいだ。

ゆらゆら立ち上るお茶の湯気が私の頬に触れていき、それが暖かくて快い。

それでも自分の心はどこか壁一枚隔てたところで冷え切っていて、目の前の湯気を他人事のように感じているようにも思えた。


わからない。


私は一人が怖いのか、怖くないのか。

どうしてこんな話を先生としているのか。

こんなつもりじゃなかった。


……最初は同じ『電波』だからって、仲間だからって、ただそれだけの理由で近づいただけだったのに。

今の私の目の前にはただぽっかりと、夜明け前の闇が広がっている。

なにも分からない。

自分がどうしてこんなにも取り乱しているのか、途方に暮れているのか、焦っているのか。

ふと壁一枚隔てた向こうから抱き寄せられる感覚が伝わってきたので、私ははっと顔を上げた。



「――え、ちょっと、せんっ……!?」



……わからない。

夜明け前の闇色が、どうして私の目の前に、こんなにも大きく広がっているのか。


――気がついたら私は全力で先生を突き飛ばしていて、そうして「馬鹿!」という捨て台詞とともに先生の部屋を飛び出していた。


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