第4話 けれど、分からなくていいと思っていた
あれから少女は夕方近くになると頻繁に家に上がりこんでくるようになり、夕食までの短い時間を僕の住んでいる部屋で潰していた。
―― 親が心配しないのかと思ったが、どうやら「受験勉強で引っかかっているところや、大学の社交術について教えてもらっている」という大義名分を掲げてきているらしかった。
実際は勉強など教えてはいないのだが――誰も疑わないのだから構わないとうそぶく少女にそれ以上僕は何も言うことは出来ない。
「本当に教えてあげてもいいんだぞ。何なら大学でやってることでもいいし」
「……先生って何やってるの」
「ドイツ語と中世哲学。存在のアナロギアとか、神の存在証明辺りが大好きだ。親戚からのウケは最悪だけどな」
「……。……めんどくさそうだからやめとく」
そういって少女が苦笑していたのは、確か昨日のことだったか。
早朝、昼間、夕方、夜、深夜。
少女がいない間は、ずっと絵を描いて過ごしていた。
父親が帰ってきた時ぐらいは手を休めるが……それくらいだ。
一日に何時間も何十時間も、僕は飽きもせずに紙の上で線を追いかけ続けていた。線を追いかけるのは本当に楽しい。一生死ぬまでこれをやりたい。
日本にいる間は絵を描くことなんてできないのだから、むしろこれくらいやらないとやった気さえしないのである。
でも、ここまでやっても僕の描きたい線は、『絶対に』見つかることはない。
……自分で隠してしまうからだ。
紙に線を引こうとした瞬間「ここに線を引くべきだ」と主張してくるもう一人の自分が居て、それに気を取られているうちに、自分が本当に引きたかった線を見失ってしまう。
僕はもう何万回目かになる溜息をひとつつくと、画用紙をぐしゃぐしゃにしてごみ箱に放り込んだ。
既にごみ箱は満杯状態になっていて悲鳴を上げる一歩手前まで行っていたが、明日になれば掃除の人が来て全部持って行ってくれるので、気にする必要は全く無かった。
ここは居心地がいい場所だ。
絵を描いていても怒られないし、絵を捨てる場所も気にしなくて済む。
――と、その時チャイムが鳴ったので、僕は反射的に画用紙の表面を隠した。
……チャイムが鳴っただけなのに、人の気配がした瞬間に絵を隠すような癖が付いてしまったのは、もう十数年も前のことだ。
眉をひそめて時計を見て、カーテンから漏れている日光も確認する。……まだ朝の九時半だということが分かったので、ますます僕は眉をひそめた。
―― あの少女が来るのはいつも夕方だ。じゃあ、今チャイムを押したのは一体誰だ……?――
そう思いつつドアを開けると……そこにはあの、少女が居た。
「やっぱり忘れてた」
少女は相変わらず笑っていた。
「九時に集合って、言ったでしょ? 今日、土曜日よ?」
「土曜日……」
少女は笑っていた。
――僕が約束をすっぽかしかけたのに、笑っていた。
「君は怒るべきだ」
「それ、集合時間を忘れた人間が言うセリフ?」
少女は尚も笑いながら、遠慮なく玄関の中に入って行った。
「まぁだから、早めの時間を言っておいたんだけどね。やっぱり正解」
靴を脱いで、少女が僕に振り返った。
「準備してよ先生。シャトルバスに乗って街に出るんだから」
「シャトルバス? どこに行くんだ?」
僕は眉を上げた。このマンションには、都市の要所へと出ることのできる無料のシャトルバスが何本もあった。
高級マンションだからこそそんなことができるのかと思っていたが、上海の町中には似たようなシャトルバスがいくつも走っているのが見えたので……どうやらマンションには付属でシャトルバスがついてくるのが、少なくともここ上海の中流階級以上の人間の住むマンションでは普通のことのようだった。
「
「……えーと、東方明珠の近くか」
東方明珠……要するに上海版東京タワー。
窓から遠くに見える東方明珠を見下ろしながら、僕はシャツの袖に腕を通した。
「正解よ。先生ってば引きこもってるくせにちゃんとわかっているじゃない」
「住んでる場所の地理くらいは把握しておかないと、災害に巻き込まれたときに困るだろう」
「あ、そういう理由?」
そういって少女が笑う。
正大広場というのは巨大なショッピングモールで、海外の店もあれば現地ブランドのの店もあるらしい……まぁ父親いわく、『女は見ていて楽しい場所だろう』ということだった。
「買いものでもしたいのか?」
念のために財布の中身を確認しつつ、僕は尋ねた。
「ううん、別に? 先生とどこかに出かけたいだけ」
「……出かけたい、だけ?」
「そう」
少女はソファーに座って、いつのまにやらリモコン片手にテレビを見ていた。
このマンションは日本人向けというお触書きもあってか、むやみやたらに日本関係のチャンネルが充実しているのだ。
「だって先生。ずっとこんなところに居たら心が腐っちゃうよ?」
「腐る……」
僕は思わず鞄を探す手を止めた。
「……結構居心地がいいものだけど」
「それでも、よ。誰とも会わずに一人で部屋に籠ってたら、いつの間にか心が腐って、体を動かすのもおっくうになって、口が動かなくなって、身動きが取れなくなっちゃうんだから」
少女は古いお笑い番組を流し見しつつ、なぜか拗ねたようにそう言った。
「えーと今日行くのはまず正大広場。その後は
「外灘?」
ワンタンみたいな名前だ。聞き覚えがあるけど、どこだかはよく思い出せなかった。
「ほら、あの西洋風の大きなビルが並んでる……東方明珠が川向うに見えるところ」
「あぁ……あれか」
言われて僕は思い出した。
「外国人向けの夜景の名所だな。
二十世紀前後の租界……外国人用の居留地で、当時建設された西洋式高層建築が建ち並んでいる。
英名は確かバンドだったか。でも、何であんなところに?」
「あんなところって……立派な観光地じゃない。
「リュウハオ……」
外灘のビルは一号だの二号だのと番号で呼ばれていて、西洋風な重厚感を持ったそれらはどれもとりどりに大きい。
それぞれのビルの中には庶民が苦笑するしかないほどの大量の高級店がひしめいている筈だった。
「……高いんじゃないのか?」
「そうでもないよ? 八十元くらいだから……千二百円くらい?」
「新宿の地下街でパスタとドリンクを頼んだくらいの価格だな」
「そゆこと。もちろん高校生一人だけじゃいけない場所なんだけど、今日は先生がいるからね。行ってみようと思って」
少女はいたずらを思いついた子供のように笑うと、テレビを消してソファーから立ちあがった。
「じゃ、行きましょ。準備出来たわよね?」
「できたけど」
僕は服装にはこだわらないので、外出の時はシャツを一枚羽織って鞄を持つだけで事足りたりてしまうのだ。
楽しげに僕を引っ張って外へ出ようとする少女を押しとどめて、僕は何とかドアにカギをかけることだけはできた。
●
シャトルバスの中は思っていたよりがら空きだった。せっかく無料なのだから、みんな使えばいいのにと思う。
「タクシーに乗った方が早いって言う人も多いのよね」
日本とは違い、上海ではタクシーに格安の料金で乗ることができる。初乗りが十一元……大体百五十円だというのだから、日本の地下鉄と同じ感覚で乗ることが出来る。
ちなみに上海の地下鉄は三元から……要するに日本円で五十円程度で乗ることができるので、乗り物事情は東京よりこちらの方がいいのかもしれなかった。
「ねぇ、先生」
僕と少女はがら空きのシャトルバスの中、一番後ろの隅っこの席に座っていた。
「どうした?」
「先生は日本ではさ、絵、描いてないの?」
「……日本で?」
「うん、そう。日本で」
少女は外の景色を眺めながらそう言った。バスは丁度南浦大橋の上を走り抜けている最中で、眼下には巨大な川……長江が見て取れる。
橋とはいえ下手な高速道路より幅が広く、周囲には車がまるでラッシュ時のように溢れ返っていた。
「……日本、か」
僕は呟いた。
「そうだな、特に描いていないな」
「どうして? 絵、好きなんでしょ?」
「好きじゃ……ないな」
僕がそう言うと、少女は驚いたように目を見開いた。
「好きじゃないの?」
「少なくとも今はもう好きじゃない」
半分自分に言い聞かせるように、僕はそう答えた。
「……好きでもないものを朝から晩までやってるわけ?」
少女はあきれたように僕の方を振り返った。
僕は思わず苦笑して――頬の筋肉を持ち上げるのに苦労して、そこで自分が久しぶりに笑ったのだということに気がついた。
「……まぁ、そういうとこになるかな。楽しいけど、好きじゃないみたいな……」
「凄い根性ね……良く分からない方向に使ってると思うけど」
正大広場に着いた。
僕らはバスから降りて、地上から東方明珠を眺めながら、人ごみのなかを歩いて行った。
「下から見ると、また新鮮でしょう?」
正大広場への道を歩きながら、そう少女が笑って首をかしげた。
「新鮮というか……改めて球体の違和感が浮き彫りになるな」
「何それ?」
「――東方明珠の形だよ。
三本のコンクリートの円柱に、巨大な球が乗っているこの形……よほど斬新な発想と、才能に恵まれた建築家が作ったんだろうな」
「東方明珠をそんな風に語る人、初めて見たわ。大体皆、『東京タワーより高いのか』どうかを気にする人たちばかりだものね」
「どっちが高くても、どうでもいいと思うけど」
「でしょう?」
正大広場の中は――休日だということもあってか、相当に込み合っていた。
「はぐれないようにしなきゃ」
先生携帯持ってないものねと付け足して、少女が僕の手を取った。
「……」
手をつないで歩けば、周囲には恋人同士にでも見えてしまうかもしれなかった。
僕はどちらでも構わないが、この少女はそういうこと、気にならないのだろうか。
「見て見てあのセンス。この都市でしかお目にかかれないものよね」
そう言って少女がショーウインドーのマネキンを指さした。
マネキンどもはなぜかもだえるようなポーズをとっていたり、М字開脚をしたりなどしている。
「……何でマネキンがあんな斬新なポーズをする必要があるんだ」
「さあ。面白いからじゃない?」
「あんなに股を開く必要があるのか? ……それともああしないとウケないのかな」
僕がそう呟いていると、少女が笑った。
「どうした?」
「だって先生、ウケるとかウケないとか……やっぱり気になるんでしょう?」
「どういうことだ?」
「先生が、まだ絵を嫌いになれていないって話!」
言い終わるや否や、少女は僕の手をぐいっと引っ張った。
「お、おい」
少女は僕の声など聞いちゃいなかった。僕の手を引いたまま走って行って――周囲の人たちは僕らの方など見もせずに道を開けてくれた。
――この都市は人が多い。だからこそどんなに奇妙な行動をとる人間が居ても、それを当り前のように受け入れてくれる街でもある。
「先生、こっち!」
「どこに行く気だ」
「分からない!」
そう言いながら少女は笑っていた。
どうやら店内はセールシーズンのようで、どこもかしこも【折】の字が並んでいた。
折の厳密な意味は分からないが、どうせ割引という意味だろう。フォントの雰囲気と色でわかる。僕は絵を描いているから詳しいんだ。
「あ、先生見てみてあそこ。全場一折だって」
「……どういう意味だっけ」
「全部九割引きだってこと」
「……凄まじい値引き率だな」
「だね。日本じゃ絶対あそこまで値引かないもの」
少女はずっと笑っていた。
――その笑顔は初めに見たような、あの無理をしているような笑顔じゃなくて、僕は少しほっとした。
この子に泣かれると落ち着かないし、笑ってもらえるととても安心する。
この子にもっと笑ってもらうことができるのなら、ナンパ塾に入ってもいいかもしれない。
(……って。何を考えているんだ僕は)
「どうしたの?先生」
「何でもない。……自分の心の動きに戸惑っている」
「何それ」
少女が首をかしげた。
「先生って面白い言葉の使い方をするのね」
「君の方が面白いと思うけど」
「……そう?」
そう答えた時、少女の顔が一瞬曇った。
「……そうかもしれないね」
再び浮かべた笑顔からは、なぜか例えようもない哀しさを感じた。
そんな顔をそれ以上見たくなくて、僕は少女の手を強く引く。
「先生?」
「なにか奢る」
「えっ!?」
「何もかもが九割引きのセールなんだろ?だったら何か買ってやる」
「ええっ!? そんな、いいよ先生!」
本当に奢ってもらうつもりなどなかったのだろう、少女はわたわたいって片手を振った。
自分も別に何か奢るつもりなど無かったのだが。……というか、何で僕がこんなことをしてるんだと、今更ながらに自分の行動のおかしさに気が付いた。
「……まあいいよ。僕にはバイト代という心強い味方がいるんだ。どこに行く?」
「先生ーっ……」
少女を喜ばせようと思った時に、『とりあえず奢る』ぐらいのアクションしか思いつかなかったのである。
親戚の言う甲斐性さえあれば何とか出来たのかもしれないが、いかんせん僕は勉強しか能がない電波な上に精神的引きこもりだ。
自分のコミュ障ぶりがイヤになってきて頭痛がしてきた。
「……じゃあ、先生」
「え?」
後ろから聞こえてきた少女の声が思いのほか柔らかくて、僕は思わず少女を振り返った。
「地下のスーパー行こう。家に帰ったら絵を描きながら食べられそうなおやつ買おうよ」
少女が小首を傾げていて、流れるような黒髪がさらりと流れた。その髪の流れを、僕は綺麗だと思った。
「……そんなのでいいのか?」
「うん。食品売り場を見るのも楽しいと思うよ」
「そうか。そういうものなのか……」
少女の顔は穏やかで、やさしくて……良く分からないが、先ほどまであった自分の中の焦りがすうっと引いていくような感じがした。
不思議な少女だ。
「先生、こっちだよ。ここのエスカレーターから降りるの」
再び僕の手を引いて、少女が前に進みだした。まるで縁日のような人ごみの中、僕らは手を握り合って進んでいく。
あくまではぐれないように、はなれないように……なのだが、なぜか妙にどぎまぎした。
(見た目はただの女の子なのにな……いや、少し大人びているか。二十歳前後と見る人もいるかもしれない。
そんな子と自分が手をつないでいるのだから、これはやっぱりカップルと思われるのでは……)
「先生、早く!」
「あ、うん」
手をつないで歩くという行為が思いのほか恥ずかしくなってきたので……少女の見ていないところで、僕は極めて不本意ながら、赤面することを余儀なくされた。
●
地下で買ったのは現地のスナック菓子とクッキーと海外製の清涼飲料水ぐらいなもので、金額としては本当に微々たるものだった。
僕は女の子と付き合ったことが無いから分からないのだが、女の子に何か奢る場合、もっと物凄く高いものを買わされるのが普通なのではないだろうか?
ヨーグルトの名前みたいなアクセサリーブランドの指輪とか、朝食を食べる映画で有名なアクセサリーブランドのネックレスとか。
ぶっちゃけそれが嫌すぎて女子とのかかわりを避けていたフシがあるのだが……。
「こういう形式で間違ってないか? 本当に大丈夫か?」
「うん、帰ったら一緒に食べようね」
少女が笑う。
妙な成り行きだ、と僕はひとりごちた。
ずっと引き籠っているつもりだったのに、
外に出るなんてまっぴらごめんだと思っていたのに。
それでもこの少女と一緒にいることが、思ったほど嫌に感じていない自分が居た。
「でも、まだ家には帰らないわよ? 外灘六号に行かなきゃ」
「昼飯か」
「うん、前から行ってみたかったんだー。
夜は夜景が見えて、お店の中の水槽で魚が泳いでて綺麗だってパンフレットで見たけれど……さすがに大学生と女子高生だけで入れるような雰囲気じゃないし、せめてお昼だけでも行ってみたかったの」
そう言って少女が舌を出した。
「それじゃ、外行ってタクシーとりましょ!
赤色のはぼったくりが混ざってるから駄目だからね。紺色のもちょっと危ないのよ。絶対ミントグリーンか黄色い奴か白い会社のタクシーにしないと」
「……やけに詳しいな」
自分はそこまで考えて乗ったことがなかった。そもそも空港では選択肢がないし。
「だって一回ヤバいの引っ掛かったんだもん。料金メーターが普通じゃ考えられないスピードでんぐん上がって、慌てて途中で降りたんだから」
少女はそういいながらもあっという間にミントグリーンのタクシーを捕まえて、流暢な中国語で行き先を伝える。
そのまま二言三言会話して、冗談でも言ったのか、運転手と二人で笑っていた。
(中国語で!? 冗談を!?!?)
僕は目を見開いた。すごい、すごすぎる。
僕は中国語が話せない。
もともとコミュニケーションが苦手で、日本語で意思疎通することさえおっくうがる性格だから、勢い外国に行っても現地語も英語もほとんど話さない人間になってしまったのだ。
だからこの国では僕は『異物』だ。
この国の中に溶け込めない溶け込もうともしない異物。
それはどこへ行っても同じで……日本の中であっても同じことだ。
僕はコミュニケーションをとることができなくて、意思疎通をすることが困難で、言葉を流暢に使いこなせない人間だった。
タクシーが走りだした。運転手がメーターのスイッチを入れる。機械的な女性の声が中国語で何だか言葉を発していた。
何度も聞いているはずだが……いまだに何を言っているのかわからないし、分かりたいとも思わない。
僕は言葉が分からない。異国の運転手とも何を話せばいいのかわからないし、隣に座る少女を気遣う言葉の話し方もわからない。人との接し方が分からない。
言葉で行為で……人の心を動かす術が分からないのだ。
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