第3話 今はもうないマンションの素描
「じゃあ、またねー」
日本人学校のバスから降りて、友人たちに別れを告げる。
この日本人向けマンションには私のほかにも当然生徒たちが住んでいるので、私の他にも幾人かの生徒がバスから降りた。
冗談みたいに高い吹き抜けのあるロビーを抜けて、警備員さんのいる居住区とは反対方向に――マンションの専用スーパーのほうにより道をする。
日本の雑誌だってあるし、お菓子だってある。
最初のころは墨汁や絵の具みたいな、日本人学校に必要な文房具もそろえてあったんだけど――売れたら売れたで再補充する気配もなく、文具コーナーはガラガラになっている。
食器コーナーもそんな感じ。食料品コーナー以外は埃まで被っちゃって、掃除される気配もない。
……それでも食料はかなり豊富にあるので、ここに住んでいる日本人の若奥様たちには結構評判がよかったりする。
こちらに住むヒトたちが好きな、色の薄いスイカが十元。牛乳パックも十元。菓子パンも十元……本当、十元のものが多い。つまり百円ちょっとだ。あんまり日本のコンビニと印象は変わらない。
シャトルバスに乗って
私は日本製の清涼飲料水と、牛乳パックと、菓子パンをいくつか買うと、そのまま居住区に戻って行った。
スーパーの中にも、それからホテルのように豪奢な廊下の中にも、奥さんたちが何人も固まってたむろしている。
ここは日本人向けのマンションで、住んでる九割以上が日本人。
……何が言いたいかって言うと、派閥とか、グループとか、そういうのができやすいんだっていうこと。
ごくごく近所にSAで始まってIXで終わる日本人用の有名な学習塾もあるので、子どもをそこに通わせるついでに日本の大学受験情報も綿密に交換しているみたいだ。
そういうグループからつまはじきにされると本当に
(この場所は中国にいる間の一時の仮宿で、みんな日本に帰ってからの身のふりを考えるのに必死なのよね…)
大きく取られたロビーの窓からは、よく手入れされた庭が見える。
奥の方では、ちいさな子どもたちが遊具で遊んでいるのも見えた。ここからは見えないけれど、このマンション専用のサッカーコートまであったりする。
「あ、やっほー」
途中友達とすれ違い、私は一部の隙もない笑顔で挨拶をした。
――我ながら自己嫌悪。本当……こういう笑顔を覚えたの、いつからだろう。
挨拶を返してくれなくても返してくれても、とにかく自分から挨拶して、自分から話しかける。
……話す内容が無いとうるさがられてしまうので、同世代の子たちが好むような芸能界やファッション関係の情報をリサーチして、流行りの音楽も一通り聞いておく。
これ、好きな人にとってはそうでもないのだろうけれど、そういうことに興味がない電波女にとってはかなりの難事業だったりする。
アイドルなんかひとかけらも興味が持てないので、私にとってはアイドルの名前を覚えるのも日本史世界史のおじさんたちの名前を覚えるのも大差ないのだ。
どっちもそんなに興味がないし、面倒くさい。
加えて大学入試に向けて受験勉強をしなければならないのだから……全く世の中の高校生って、いつ勉強する時間をとっているのだろう? なんて思っている。
ピッ。
居住区の入り口にある認証機械にカードを通し、私はエレベーターの前に立った。
……また奥さん達がおしゃべりに興じている。輪に入れない奥さんが目を伏せてうつむいているのも目に入った。
いい加減うんざりした気持ちになりながらも、私はエレベーターの中に入り、自分の住んでる部屋がある階の番号を押す。
――このマンション、二十四階もあるのよ?
上の方の人たちは、綺麗な夜景や東方明珠がみえるんだけど、私の階は低いからさっぱり。
私の父親の仕事は製造業のサラリーマンなので、規定上上の階には住めないらしい。
その点は、お父さんが銀行員だっていう『あの人』がうらやましい。
どういうルールか知らないが、銀行員は最上階に住めるんだそうだ。
「ただいま!」
そう元気にドアを開けて玄関に入る私は、まさに『期待再現再生装置』そのもの。
この言葉ね、私が作ったんだけど――結構的を得た言語センスだと思ってるんだ。
――昔の私は話す言葉も態度もチグハグなコミュ障だったけど、今の私は特に何も考えなくても、『相手が望む言動』を取ることができるようになっていた。
親の前では『明るく素直な娘』。
友達の前では『ノリがよくて楽しい子』。
知り合いの大人たちの前では『しっかり者の、でもどこか子供らしさの抜けない優等生』。
……全部全部、何も考えなくてもできるのだ。血のにじむような努力の末に、出来るようになっていた。
相手が何を望んでいるかが分かってしまう。そしてその通りの期待を綺麗に『再現』してみせる。
「お帰りなさい」
母親が満面の笑みで玄関まで出てきた。こんな顔――ちょっと前の私にだったら絶対に向けてくれなかったものだ。
それでも私の顔は勝手に笑顔を作り、勝手に話を開始した。
――ほんとの私は、特に何も考えなくてもいい。
私はまるで機械に仕事をやらせるように、勝手に人に合わせて、上手くやっていくことができる。
この状態になるまでに一杯練習したし、一杯失敗したし、一杯復習と再挑戦もした。
その時は大変だったけど、今ではまるで自転車に乗るみたいに簡単にできる。
私は心の中のボタンを押すだけ。あとは私の代わりの装置が勝手にしゃべって笑ってくれる。
だから、装置。
今の私は人の期待を再現して再生する、ただの装置。
……いや、機械みたいにバカ高い開発費や人件費をかけずに「装置」をやっているのだから、ひょっとしたら私は機械以下の存在なのかもしれない。
「――今日は何があったの?」
私の荷物を運びながら、母親がそう、嬉しそうに聞いてきた。
私の口は勝手に何人もの友達を織り込んで、面白おかしくエピソードを作る。
……ちょっと前は本当にそんな話さえできなくて、私があまりにコミュ障で他の子と違うからって、母親の態度もふさぎこみがちだったのに。
今の私は母親と話しながら、ひっきりなしに笑っている。
まるでデート相手の女の子にするみたいに楽しい会話を提供する。
――こんなことは普通ありえない、おかしいのだと、はたして母親は気づいているのだろうか?
本当は気付いて欲しい。止めて欲しい。
でももう止まらないし止められない。
誰か人と会うたびに、私は自分の意志とは無関係にそういう装置になり下がる。
本当の私なんて、いつのまにかどこかへ隠れて消えてしまった。
装置をやるのはとても神経を使うし疲れるのに、本当の自分がどこにいるのか分からないから休ませることも出来やしない。
……だからかも、しれない。
「先生に会いに行っていい?」
そんな言葉が出てきたのは。
母親の要望ではなく、自分自身の心の奥にあった何かを拾い上げ、私の口はそう言葉を形作った。
「先生って……あの上の?」
「うん。あの大学生の人」
「それは……」
母親が顔を
当然だ。あの人は、このマンションの間にいる間、全く部屋から出ないひきこもり生活を送っているのだ。
そんなところに押しかけたら迷惑だろうし、母親としてもそんなひきこもりのような男と娘を合わせるのは嫌だろう。
「ほら、あの人の大学、結構有名なところでしょう?」
私の意思とは無関係に、口がずらずらと言い訳を並べだしていく。
「だからあの人の教え方、結構分かりやすいのよ」 「塾講師してたんだって」 「そうそう。私去年はあの人に教えてもらってたのよ。昨日も勉強教えてもらったの。タダだから得しちゃった」
そんなことしてない。
そんなこと言う気はない。
そんなこと思ってない。
――けれど口は、私の意思を通すため、勝手が勝手に言葉を作る。
「で、いい? 駄目って言うんならいいけど……」
「駄目ってわけじゃないけれど……」
母親が
……よし、もう一押し。
「それにね、先生の大学って女の子同士の派閥が凄いんだって。初めに仲間に入り損ねたら四年そのままだって聞いちゃった。だからもっと詳しく話を聞きたくて」
「そうなの?」
母親が食いついてきた。
彼女にとって、こういう話題は受け入れやすいのだ。
他ならぬ彼女自身が仲間外れを恐れているので、仲間に溶け込むための話題作り、社交場に出る約束などについては許可がとりやすい。
「ね?」
「え……ええ……」
母親は控え目ながらも了承の返事をくれた。
「でも、迷惑が掛からないようにするのよ? お父さんのお友達の息子さんなんだから」
「勿論だよ。やった、ありがとね」
私はそうお礼を言うと、敢えてゆっくり準備して、そのまま玄関を出て行った。
「行ってきます」
――だってあんまり早く出ていくと、母親に何かよからぬことを疑われちゃうかもしれないじゃない?
●
私はインターホンを押して、カメラ越しにおみやげのスーパーの袋を掲げて見せた。
「やっほー」
インターホン越しに帰ってきたのは、沈黙、そしてわずかな溜め息。
飾らないその態度に、思わず笑いそうになる。
彼自身に悪気は無いのが分かってるから、別にこういうことで気分を害することもない。
むしろホッとする。私も昔は彼みたいな人間だったから。
相手の気持ちとか、そういうのは全く考えずに、ただ自分の感じたままに行動して、言葉を話す。喋るネタがない時は相手の気持ちなんかおかまいなしに黙り込む。
そういうことが出来た時代があった。
でもそんなことじゃ色んな人の思惑が絡む学校の社会じゃ生きていけなくて、私は結局自分で自分を機械にするしかなかったのだけれど。
「何でため息ついてるのよー。どうせ暇でしょ? おやつ持ってきたよ?」
笑い交じりに私は言う。先生が戸惑っているのが分かって楽しかった。
「僕は暇じゃない……絵を描いていたんだ」
戸惑いがちに返される声。
「絵を描いてたの? じゃあ見せてくれればいいのに」
「ぜーーーーったいに嫌だ」
「先生嫌だもんね、人に絵を見せるのが」
「そういうことだ……ちょっと待ってろ」
――機械越しに先生が離れている気配が伝わってきて、しばらくするとドアが開いた。
「ドアは開けてくれるんだ」
「さすがに締め出すわけにもいかない」
ドアを開けた姿勢のまま、なんとも微妙な顔をしている先生。
そんな彼の無言の訴えを無視して、私は遠慮なく玄関に上がりこんだ。
「はい、これ。菓子パンと、おみやげの牛乳」
「……何で牛乳?」
「別に。何となく下のスーパーで買ってきたの。有難く思ってよねー、光明の高い方なんだから」
「高い方って……あ、本当だ。十五元の方だ」
青と白の牛乳のパッケージを見て、先生が驚いたような声を出した。
「だって十元のって、あり得ないほどマズいんだもん。同じ会社の牛乳なのに。中国で小さなところをケチるとわかりやすいくらい味に差が出るの、一体何でなのかしら」
そう言いながら私はダイニングテーブルに菓子パンを広げ……何となく部屋の奥に視線を移した。
寝室に散乱しているのは、画用紙、画用紙、画用紙、木炭、木炭、木炭……。
「――先生……あんな狭くて薄暗い所で絵を描いてるの?」
「狭い方が落ち着く」
「日光不足でうつ病になりそう。それに目、悪くなっちゃうよ?」
「東京に戻れば、また良くなる」
……つまり一時的には悪くなるってことじゃない……。
「誰かに背後に立たれるのが嫌いなんだ」
私の心中をよそにして、そう先生は口にした。
「絵に熱中している間に、誰か来て、いつの間にか絵を見られてるって状況が耐えられない。
だから自分の目の届く狭い部屋で、壁に背を向けて絵を描く習慣がついてしまった」
「背後に立たれるのが嫌いって……なんだか某マンガの十三号みたい」
「ゴルゴのことは嫌いじゃないよ」
そう言いながらも先生はテーブルに着き、私の買ってきたパンをモシャモシャと食べ始めた。
私は何となく斜め向かいの椅子に座る。
……気がつけば『期待再生再現装置』が切れていて、私はなんだか不思議な気持ちになった。
誰かと居るのに、その誰かの期待に答えなくてもいい状態……凄くラクだ。
普段は私が何も考えてなくても勝手に機械が作動するのに、なぜか先生と居る時には、『期待再現再生装置』はうんともすんとも言わないのだ。
「先生って、不思議ねぇ」
「何で?」
「……内緒」
いくら待っても口が動いてくれなくて、私はそう言葉を返すしかなかった。
先生は「よくわからんが、そうなのか」と言うと、再びパンを頬張った。二袋目だ。
――それにしても先生、結構よくパンを食べてる。
「ひょっとして先生、昼ご飯食べてないんじゃない?」
半眼になりつつ私は聞いた。
「朝食もだな」
「……呆れた。じゃあずっと食べてなかったってことじゃない」
「絵を描いてた」
「なんでちょっと偉そうに言うのよ」
どこか誇らしげにしている先生を、私はあきれて見るよりほかなかった。
「……男ってのは」
パンを口に押し込みながら、先生が言った。
「男ってのは、結構大変な生き物なんだ」
「……それ、絵の話とどう繋がるのよ?」
「絵を描けば嫌な顔をされる。
勉強しないと非難される。
朝飯も昼飯も食べないと……それさえ悪いと叱られる」
「……それ、まともな大人だったら誰だって叱ってやろうと思う状況だと思うわよ」
「つまりはそういうことだ。
男は『まとも』じゃないと社会でやっていけないんだとさ」
そう言う先生は淡々とした様子だった。
「絵を描いていると、飯なんてどうでも良くなる。だからといって食事を抜くと、普通じゃないと怒られる。勉強してないとなおさら怒られる」
「先生怒られてばっかりじゃない」
「だから東京では普通にしているんだ。
三食飯を食って、世間体のいいバイトだってしているぞ。
だけど、ここでは誰にも何も言われない。だから絵を描いて食事を抜くなんて暴挙もできる。幸せに満ち足りた自由を謳歌しているんだ」
先生は口をもごもごさせながらそう言った。
「……でも先生、今ものすごく食べてるじゃない」
清涼飲料水に口を付けつつ、私は言った。
「そういうのはなんというか……うまく言えないけど、満ち足りてる状態って言わないと思うわよ。なんか見た目もボロっとしてるし」
「腹が減っているという事実に今さっき気がついた。体もかゆいな。風呂に入りたくなってきた」
「何それ」
私は笑った。こうやって計算なしに笑えるのって、結構珍しいな、と思った。
やっぱりこの人は不思議な人だ。
勝手に絵を描いて、勝手にパンを食べてる姿を見ているだけで、なぜだか私はとても安心してしまう。
「……ねぇ」
「何だ?」
「絵、見せてくれないの?」
私の「絵が見たい」という言葉を受けて、先生は一瞬ひるんだような顔をした。
「……駄目なの?」
「……今は、駄目だ」
先生がすっと目をそらす。
「今は? じゃあいつかは見せてくれるってこと?」
『今は』の意味が分からなくて、私は首をかしげてそう言った。
「………分からない。永遠に駄目かもしれない」
「どういうこと?」
「完成しないんだ」
机の上の空袋に目を落としたまま、先生はそうぽつりと呟いた。
「……完成しない。いくら描いても、完成しない」
「ずっと同じモチーフを描いてるってこと? 理想の何かを?」
「いや違う。そうじゃないんだが……見つからないんだ」
「何が?」
「自分の絵が」
「……先生の、絵?」
「そうだ。どこにもなくなってしまったんだ」
――どこにも、ない。
その言葉に、私はギクリとした。
「ずっと人に認められる絵を描こうと思って、そんな絵ばっかり描き続けて……」
「……」
――人に認められようと、思って。
「物凄く頑張って、手も痛かったし、睡眠時間も潰れたし、そういう意味では辛かったけど、とにかく頑張って、人に認められそうな絵を描き続けた」
――辛かったけど、頑張って。
「そうしたら、いつの間にか消えてしまった。自分が描きたかったはずの絵が」
「……」
――隠し続けて、消えてしまった。
「……」
私は何か言おうとして、でも結局何もうまい言葉が思いつかなかったので何も言わなかった。
自分と先生は同じだと叫びたかった。私は絵なんて描かないのに、それなのに私は先生と自分が同じだと言いたかった。
自分の絵を塗りつぶして、違う絵を描き続けてきた先生。
隠し続けて、消えてしまった私の中の自分自身。
なんだかすごく、似てる気がする。
「――コソコソ一人で絵を描いていたら、いつの間にか大学生になってしまった。もう、画家やデザイナーを目指すには遅すぎる年齢だ」
先生の言葉はあくまで淡々としたままだった。
「でも、もう人に認められるとか、社会的に成功するとか、そんなものはもう、どうでもいいんだ」
……淡々としすぎていた。
「ただ、自分の絵を取り戻したい。消えてしまった自分の絵を、取り返したい」
机の上で握られた手は、固く拳を作っていた。
私は何も言えなかった。口が何も言ってくれなかった。期待再現再生装置が切れているのだから。
「――だから人目をはばからずに絵を描く時間が欲しいんだけど、そんな時間、普通に生きている限りは無いからね。
雑事と仕事と『普通をやること』に流されて、それでおしまい。
きっと僕が生きてる時間なんて、そんな風にして消えていくんだろうから」
そう言いながら先生は牛乳パックを開けて注ごうとして――そこで初めてコップが無いことに気がついて、慌てて台所へと向かって行った。
「……」
残された私は、呆然として机の上の空袋を見つめていた。
空っぽの容器。
空っぽの自分。
いつの間にか装置に乗っ取られて『自分自身の中身が空っぽになっている』ということに気がついたとき、私は酷く傷ついた。
周囲に気に入られる人間になりたかった。事実、それは結構成功した。
周囲は認めてくれた。ありのままでいた時にはとても居場所がなかった世界は、いつのまにか酷く居心地のいいものに変わった。
けれど、そうして自分の願いが叶って、いざ自分の内面に目を戻したとき。
「――君もコップ、要るか?」
先生がひょいと台所から顔を出す。
「まぁ君はペットボトルだから要らないか――て、あれ?」
先生が驚いている。
止めなければ、と思ったが、体が言うことを聞いてくれなかった。
涙腺が完全にイカれていた。涙が勝手にぼたぼた落ちて行った。
何かを先生にぶつけたくて仕方が無かった。怒りではない。悲しみでもない。でもそれが何なのか分からなくて……結局私は泣き続けているより他は無い。
「えっと、僕、結構変なこと喋ったと思うけど……泣くほどのことか……?」
呆れ半分戸惑い半分。そんな先生の様子が伝わってくる。
けれど私は私を取り繕う余裕さえなくなっていて、ただ深く俯いて涙をこらえるしかなかった。
●
「――親戚に女遊びのプロを豪語するオッサンがいて、
エキストリームナンパアカデミーとかいうナンパ塾の教えを実践すれば女の涙など簡単に止められるって豪語していたけど……」
コップに注いだ牛乳に口を付けつつ、先生がそう言った。
「僕も入信しなきゃいけないようだな。君を泣きやませる方法を思いつかなかったし」
「……女の私が言うのもアレだけど、泣いてる女の子って、世界で一番手に負えなくてめんどくさい存在なのよ。
あと、そのエキストリームナントカは悪質なナンパ集団で、逮捕された人のニュースを見たことがあるから、関わるのはやめた方がいいと思うわ」
まだ涙で声を潰れさせながら、私は何とかそう言うことが出来た。
自分だって、普段は泣き止ませる側の人間だからよくわかる。お母さんとか、友達とか。
泣いてる女の子を泣き止ませるのはとてつもなく難しいのだ。めんどくさいとも思う。
それなのに、何だか昨日から、先生の前では泣いてばかりな気がする。
『すぐ泣く女』って思われたら嫌だなぁと思いながら、私はハンカチを目もとに押しつけて、ぐいと涙を吸い取った。
「大体先生、人に絵を見せない主義のくせに『ウケる絵』なんて描いてたのよ」
少々強引だと思いながら、私は無理やり話を切り替えた。
「だから見せない主義じゃないんだって。自分の絵が文句のつけようもないくらい満足のいくものになったら、人に見せようと思っていたさ。ひいては画家にな」
「……それで『ウケる』絵?」
「そういうこと」
「でも『ウケる』って誰が判断するのよ」
「僕」
「……それじゃ先生に『ウケる』絵になっちゃったじゃない」
「そうでもない。
一般的に流通している絵を観察して、その絵柄とか、色遣いとかを研究して……要するにそういう絵を描き続けた。模写に近いな」
「……そういうものかしら。なんだかどっちつかずのキメラみたいな絵が誕生しそうだけど」
それ以上突っ込む言葉も思いつかなくて、私は一気に清涼飲料水を飲みほした。
気がつけばもう六時近くになっている。
学校から帰ったら、そもそも夕食まであまり時間は空かないのだ。もう帰ったほうがいいだろう。
「――……先生」
私はガタンと椅子から立った。
「何?」
「土曜日」
「……土曜日」
「うん、土曜日……絶対外に出ようね。ひきこもらないでね」
「――ひき」
先生が何か言う前に、私は部屋を出て行った。
がちゃんと玄関のドアを閉める。
そのままエレベーターまで直行した。
「じゃあまたね」なんてフルスマイル付きで挨拶をしようにも、『期待再生再現装置』は一向に起動してくれないし、だから私は素のままで先生に対峙するしかなかったのだ。
そして今の私は涙まみれで余裕がないから――こんな出て行き方をしても仕方がなかった、というわけ。
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