第2話 風変わりな真夜中の来客
窓からは上海の夜景が見える。
虹色に輝く上海版東京タワー……
部屋の明かりは、つけてない。
そんなことをしてしまったら、この美しい夜景が消えてしまうから。
白い紙の中に線を引くべき場所を見出して、慎重にその場所をなぞっていく。
絵を描く時間は何よりも楽しい時間だ。小さな頃から好きだった。
けれど、周りの大人たちは誰も、そのことを良しとはしてくれなかった。
――男が絵を描くなんて、おかしいと。
だから僕は、周囲から隠れるようにして絵を描き続けた。
いつかは認められたいと思いながら。
自分の絵の腕が上達すれば、きっと画家になることができて、周囲にも、社会にも認められるに違いないと思いながら。
子どもなりにそう考えた僕は、一人で絵を描き続けた。
男だからと眉をひそめられないくらい、それくらい圧倒的に凄い絵を描こうと思って。
――……でも気がつけば、僕は人に絵を見せることが出来ない画家になってしまった。
親どころか友達にも見せられない。第三者に見せるのだって無理だ。
駄目だといわれるのが怖くて、批評されるのが怖くて、僕は自分の描いた絵を、決して人目にさらすことができなくなってしまったのだ。
だからこうして大学生になった今でも、僕は一人で絵を描き続けている。
線を引く作業に熱中していると、玄関方面からがちゃりとドアが開く音がした。
父親だと思った。
「ああ、おかえり父さん」
僕は、画板から目を離さないままそう言った。
父親は僕が絵を描いても眉をひそめない、ほぼ唯一の理解者だった。
だけど、父親の返事は帰ってこなくて、ただパチリと電気が点く音がした。
「……おかえり?」
父親は陽気な人間だ。なのにどうして返事が無いのだろう。そう思った僕は不審に思って振り返り、そして、目を見開いた。
見たことのない少女が居たのだ。
「……ええと?」
「こんばんは」
唖然とする僕を見ながら、長い黒髪の少女はそう言って笑った。
口の両端だけ上げている、まるで石像か、CGか、三日月のような笑顔だと思った。
人の笑顔を見たのにどうして無機物を連想してしまったのか……自分でもよくわからないが。
少女の髪はかなり長い。それもただ伸ばしているのではなくて、おそらく入念に手入れをしている印象を受けた。
そして手足がほっそりしていた。
キャミソールにミニスカートという、字面だけだと過激に聞こえるがこの季節のこの国ではわりとありきたりな格好をしているせいもあってか、余計にその手足の長さが強調されているように見える。
僕は人の形質には敏感でも、人の美醜には鈍感だから、このいきなり現れた少女が美しいのかどうかは分からなかった。
「……ええと、どちら様ですか?」
突然現れた見知らぬ少女に、他にかけるべき言葉はない。
「――やだ、覚えてないの、先生?」
少女は驚いたように目を見開いた。
「……先生?」
僕は少し俯いて考えこむ。
――――先生。
そう呼ばれていたのは去年のことで、僕が教壇に立つタイプの塾講師のバイトをしていたころだ。
「ええと、君は、僕が塾講師をしていた時の生徒?」
「そうよ、先生。覚えてないの?」
「えぇっと……人の顔なんてそんなに真面目に記憶していないって言うか……」
なにしろ正直言って人の顔形なんて、観察した端から忘れて行ってしまう体質なのだ。
それでも必死に
「相変わらずなのね、先生。相変わらずの電波っぷり」
「でん?」
またもや三日月形に笑う少女を見て、僕は首をかしげた。
「そう、電波。普通にふるまっているふりをしていても、所々変な行動をしてしまうから、あいつは残念な電波なんだって、みんなが言ってたわよ?」
「そんな……塾のみんなたちが……」
僕は情けない声を上げながら、自分が教えていた生徒たちを思い出す。
とりわけ仲がいい訳でも、嫌っていたわけでもなかったが、なるほど彼らは僕のことをそう呼んでいたらしかった。
「……とりあえず、あの時の僕は生徒たちにナメきられていたということは分かったぞ」
「教え方は分かりやすいって評判だったけどね」
「下手なフォローはいらないよ。
……で、君は何でこんなところにいるんだ?」
「だって私、ここに住んでいるんだもん」
「ここに?
……って、親父のヤツ、君みたいな若い子を現地妻として連れ込んでいたのか!? アイツは悪魔か!」
「違うってば!
住んでるって言ってもこの部屋じゃないのよ。私が住んでいるのは、ここの下の階」
「え? ……。……ああ、なるほど。このマンションの住民なのか……」
少女の言わんとしていることを理解して、ようやく僕は胸をなでおろした。
親父が超年下の現地妻なんて作っていなくて本当に良かった。
世界がひっくり返るような衝撃を受けたぞ。
「そう、そういうこと」
そう言って少女は笑った。僕はしばらくのあいだボンヤリとその様子を見ていたが、やがてまた口を開いた。
「……って、いや、待て待て待て。君はまだ僕の質問に答えてない。何で、君は、この部屋にいるんだ?」
「鍵、借りたのよ」
そう言って少女が笑う。
「私のお父さんと、先生のお父さん、飲み友達なの。それで先生がいるって聞いて――カギを借りてきちゃった」
「来ちゃったって……」
僕はあきれた。
同世代の友達ならともかく、自分の通っていた塾の元講師が同じマンションに住んでいるからと言って、意気揚々と部屋まで上がりこんできたりはしないだろう。
「今は二人とも、下の階にいるわ。しばらく帰ってこないと思うわよ」
「……そう、か……」
父親とその友人とかいう人は、恐らくは一階にある日本人向けレストランにでもいるのだろう。
ファミレスのような雰囲気のお店だ。
各種日本料理の再現度は恐ろしく高いが、なぜかパスタ類にはざっくり切った大量のタマネギが混入している。
なぜ上海の腕のいいシェフがそんな謎アレンジを思いついたのかはよく分からないが、僕個人は面白いと思ってたまに食べていた。
そこには定番の定食モノだけでなく、寿司屋っぽいカウンター席まであるので、そこでゆっくり酒を飲むこともできるハズだった。
父親はファミレスの似合わないいかつくてダンディな男だ。
おそらくファミレスエリアじゃなくて、寿司屋っぽいカウンター席の方にでもいるのだろう。
「それで、君は何しに来たの?」
「決まってるじゃない」
少女はまた三日月のように口の端を上げて笑った。
本当によく笑う子だったが――……はたしてこれは彼女の本当の笑みなのだろうかと、その時唐突に僕は思った。
「遊びに来たのよ。近くに知り合いがいたら、遊びに行かなきゃいけないものでしょ?」
彼女はなおも笑んだ。僕はためらいがちに首をかしげる。少女は確かに笑っていた。でも……。
――苦しそうだと、思ったのだ。
●
「……遊ぶっていったって」
呆然としながら僕は呟いた。
「この部屋、何もないんだけど」
少なくとも女子高生が喜ぶようなものは何ないし、思いつかない。
このマンションは完全に駐在員用で、作り付けの家具や家電が充実している一方で、娯楽品なんてものは老いてないはずだ。
この家には、中年男性に必要な衣類と冷凍食品、カップ麺、各種陰謀論の本、喫煙者用歯磨き粉などしか置いていない。
「そんなことは分かっていたから、お土産もちゃんと持ってきたのよ。一緒に映画、見よう?」
僕が相手だと会話が持たないと分かっていたに違いない。
彼女はどこか得意げな様子で、小さなカバンからDVDを取り出した。少し前に話題になったコメディ映画だ。
「……中国ではおなじみの海賊版じゃないんだな」
「真面目な先生は海賊版なんか嫌がると思って、日本で買ってきたやつを持ってきたわ。海賊版なら十元から四十元くらいで済むんだけどね」
そう言って少女は笑う。
彼女いわく、映画であれば普通二十元……つまり三百円くらいが二〇〇八年の上海での相場らしい。
「海賊版、やっぱり多いのか?」
「他に日本のコンテンツを見る手段がないんだもの。
配信サービスなんてロクにないから、フツーに買って観てる人は多いみたいよ」
そういって少女は肩をすくめる。僕は首をかしげながら、
「万博があるんだろう? 取り締まりとか、苦しくなってないのか?
市民や街のモラルを高めるために、
「そこが潰されたのは本当だけど、取り締まりが厳しくなってるっていうのは……どうかなあ」
と、少女が難しそうな顔をして首をかしげる。
「DVDを売ってる店もね、ガサ入れがある日にはちゃーんと商品を隠しているから、そんなに取り締まられることもないみたい。
面白いのよ? DVDを売っている筈の店の店頭に、なぜか汚れたぬいぐるみしか陳列されてない日があるんだから」
「警察と店が癒着しているってことか……」
「組織じゃなくて、個人レベルの話だけどね。
昔の日本もそうだったでしょ。コネと大金で教師や権力者に取り入った時代もあったっていうじゃない」
「最近だってそうだ。僕は小学生時代に祖母が教師にわいろを贈ろうとして赤っ恥をかいたことがあるんだぞ」
僕は嫌なことを思い出してしまって、顔をしかめた。
今はそんな時代じゃないですから……と教師に言われ、怒り狂った祖母をなだめた思い出があるのだ。
「中国はまだそういうの結構残ってるみたいねえ。
ウチの父親も政治の関係者に会うときには接待が必須だって言ってたし。あと何年かしたら、また流れが変わるんでしょうけどね」
そう言いながら少女は手慣れた動作でDVDをセットする。
恐らく自分の家でも使っているのだろう。このマンションにある家電製品はほとんど備え付けのものだから、置かれている物も同じはずだ。
少女はDVDをセットすると、当然のようにソファーの……僕の隣に陣取った。
「僕は去年、あの塾ではちょっと教えただけだと思うんだけど……」
ふと思い出したことがあったので、僕は言った。
「思い出した。君、相当目立ってたよね?」
「そう?」
「うん。何か、集団の中心に居たのは覚えてる。立ち居振る舞いに隙が無かったから」
「……やっぱり先生って、人のこと良く見ているのね」
「見た端に忘れるけどね。今君のことを思い出せたのは奇跡だ」
「そう、それも先生っぽい」
映画が始まった。
コメディではあるが、最初から騒がしいギャグを連発するようなタイプではないようだった。静かな始まりだった。
「……先生とね、ずっと仲良くなりたいって思ってたの」
少女がぽつりと呟いた。
「僕? 電波と?」
「うん、そう」
ソファーの上で何故か体育座りに足を組みなおして、少女は続けた。
窓の外は暗いが、暗い中にも鮮やかな夜景が浮かび上がり、しきりにチカチカと自己主張していた。
「……だって、私も電波なんだもん」
「君が?」
僕は問うたが、少女は何も答えなかった。僕はぽりぽりと頭をかく。
映画の内容はイマイチ頭に入ってこない。
……絵を描きまくろうと思っていたのに、一体全体なんだって今の自分は、ほぼ初対面の少女と一緒によく分からない映画を見ているのだろうか。
「えっと、よく分からないけれど……」
僕は言った。映画は早くもギャグシーンと破壊シーンの連続になっていた。始まってからまだ一分も経っていない。いくらなんでも先走り過ぎではないだろうか。
「君は電波には、見えないよ? 少なくとも僕にとっては――」
テレビから一際大きな爆発音が聞こえてきた。
「君は普通の女の子だ」
……なぜか少女は、声もなく泣いていた。
●
「……えっと、何か飲む?」
年頃の女の子の扱いなんて正直何も分からないので、僕はとりあえずそう聞いてみた。
「プーアル茶」
「……あるかなぁ」
「台所の棚の、一番右の、一番上の引き出し」
ソファーの上で体育座りになったまま、そう少女はぼそりと言った。
「………何でそんなこと知ってるんだ……」
「言ったでしょ? 私のお父さんと先生のお父さんは――」
「友達だったんだっけ?」
「そう。だから私もちょくちょくこの家にはあがらせて貰ってるの」
まだ少し鼻を鳴らしながら、少女が言った。
「――私が淹れる」
「いいのか?」
「先生のも淹れたげる」
「……それは、どうも」
少女は台所まで走っていくと、手慣れた動作でヤカン型の沸騰器――お茶好きなこの国ならではのものだ――に水を入れると、さっさと電源を入れてプーアル茶の茶葉を探しにかかった。
「私ね」
コンクリートのように円盤状に固められているプーアル茶の茶葉を専用の器具で砕きながら、少女が言った。
「私ね、先生と出かけたい。先生がいる間、毎週、土曜日」
「……何で」
「どうせ暇でしょう?」
「……」
ヒマじゃないのだが、「絵を描いて遊び惚けるのに忙しい」というのもはばかられたので、僕はやむなく口をつぐんだ。
「先生のお父さんから聞いてるもの」
少女は続けた。
「先生は、夏休みの二ヶ月間だけ、逃げるようにしてこのマンションに来るんだって。それでずーっとひきこもったまま、ごそごそ絵ばっかり描いてるって」
――……逃げてきてるって、バレていた。
「……ねぇ、先生の描く絵って、どんなの?」
お湯を注ぎながら、少女は尋ねた。
「説明できないし、したくない。絵自体を見せたくもない」
「そうなの? 絵を描く人って、描いた絵を見せたがるものだと思っていたんだけど」
少女は不思議そうな顔をしていたが、その間にも手早い動作でお茶を入れていて、あっという間にカップ二杯分のプーアル茶を持ってきた。
「見せたくないって、何で?」
ソファーに座りつつ、少女は僕にそう尋ねた。
「……見せられなくなった」
映画を見るともなしに眺めながら、僕は答えた。
「いつかは人に見せられる絵を描こうと思っていたのに、そう思って隠れて絵を描いてきていたのに……ずっと隠しているうちに、本当に見せられなくなってしまったんだ」
また破壊音。
何かを壊したり、何かを滅茶苦茶にすることによって引き出される笑いというものは、僕はあまり好きにはなれない。
自然と目線は夜景に向かった。
「……見せられなくなった、か……」
少女がそう呟いた。映画を持ってきたのは少女の方だったくせに、なぜか少女も夜景を見ていた。
「私もね、見せられない」
クーラーの効いた室内で顎に感じるプーアル茶の湯気が快かった。
「自分の、本心……」
遠くで車が走っていた。都市はまだ働いている。
きらびやかな夜景の中で、皆必死になって働いているのに、自分たちはこんなところで呑気にお茶など飲んでいる。
駐在員用マンションという特殊な場所で、たまたま日本人の駐在員の子に生まれついたばっかりに。
「だって、私ね……」
何かがさり、と落ちる音がした。
何かと思えば、少女の肩から髪が落ちる音だった。綺麗な音だな、とぼんやり思った。
「だって私、ただの期待再現再生装置なんだもの」
「……。……は?」
僕は目をまばたいた。
「……期待……再現……?」
「うん。期待再現再生装置」
「それ、何かの専門用語?」
僕の問いに、少女は首を振った。
「ううん。私の作った言葉」
「……君は斬新な言語感覚を持っているんだな……」
「でしょ? だからそういう変な言語感覚の自分を抑えて普通に振舞うのって、結構苦労が要るのよ?」
どこか拗ねたように少女が言った。
「……」
僕は窓の外に目線を戻した。
綺麗だった。騒がしい映画が邪魔だった。
同じことを思ったらしく、唐突に少女がリモコンで映画を消した。
ぷつんという音を最後に、高層マンションの一室に、水を打ったような静けさが降りた。
「――……先生とね、ずっと仲良くなりたいって思ってたの」
静けさの中、先ほどと同じことを少女は繰り返した。
「私ね、昔は電波だったはずなの。先生と同じだったの。
でも、私は期待再現再生装置になっちゃって、気がついたら、何も無くなってしまったの」
「……言ってることがよく分からないんだけど」
「私もうまく説明できない」
「それじゃ全くお手上げだな」
僕はそう言いながらプーアル茶に口をつけた。
「……多分」
と、考え込むような動作をしながら、少女は言う。
「先生は忘れてるんだろうけど、私、一度だけ先生とお話したことがあるのよ」
「……あったっけ?」
「やっぱり忘れてる」
少女は苦笑を顔ににじませた。
「塾が始まる前にね、私、たまたま早く塾に着いたの」
何かを思い出すようにして、少女が言った。
「廊下の自動販売機の前にね、先生が居てね、ほうじ茶の缶を開けてた」
「……」
彼女と会ったことは思い出せないが、自動販売機でほうじ茶をよく買ったことは覚えていた。
「私もね、そこで何となく、一緒に飲んだの。ほうじ茶を」
「ほうじ茶を?」
「うん、あったかそうだなっておもったから」
少女がカップに口をつけた。髪がまたさらりと流れおちた。
「何を話したのかは……正直ほとんど覚えてないの。どうでもいい内容だったのかも。でもね」
「……」
「――でも」
少女が立ちあがった。気がつけば、プーアル茶のカップは空になっていた。
「その時、すごくほっとしたの。自然に話せた。会話が出来た」
「……」
「だから」
と、彼女が何か言葉をつづける前に、ガチャリとドアが開く音がした。恐らく僕の父親だ。
「お帰りなさい!」
僕が何かを言うより早く、少女がまた三日月のような笑顔を作って玄関へ走っていく。
「……ちょ、ちょっと……」
僕はあわててそれを追う。
――追いながらも自分は何やら奇妙な物語に巻き込まれたらしいということを、僕は認識せざるを得なかった。
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